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悲しみのメロディー、陰謀論とは悲しいものである

カルト陰謀論に洗脳された者は許しがない、何が悪魔崇拝者だ、お前らが偏執病パラノイアである悪魔の囁きに負けた悪魔崇拝者だろう、矛先を間違えるな。何が赤ん坊の肉を喰らうだ、何がアドレノクロムだ、何が移民排除だ、何がLGBTQが少子化を招くだ、それらは全て差別主義思想のカルト宗教教義から発せられている陰謀論、人の心も考えずに、ふざけたことばかりぬかすな。だから陰謀論カルトの言葉を見るたびに頭に来る、憤る、そして悲しくなる、心が苦しくなる。


どれだけ人を攻撃し苦しめれば気がすむ、どれだけ心ない言葉をインターネット上に撒き散らせば気がすむ。そんな言葉を見るたびに、標的とされている彼らはどんな気持ちになってると思う、どんなに心を痛めてるか想像したことあるか。それでもたえて生きている、きっと夜が明ける、春は来ると信じてる、マドンナがバイデンの前で見せた涙、どんな意味があったのか、なぜそれを想像できない。お金の問題じゃない、いくらお金があっても愛は満たされない。

いつまでも許しなくそんな陰謀論を言い続けインターネット上で広め続ける人々、矛先にされている彼ら彼女らが、そんな偏見激しい宗教信仰者、陰謀論者に対し怒りを持っているのは当然。悪魔的な振る舞い、演出をしてみたくなる気持ちも解る。そんな許しなき宗教の神を信じるなら悪魔を信じたくもなる、サタニスト教会の悪魔を信じる人達、そんな人達の思い、気持ちも解る。

自分は、世界中で大勢の人々が、彼女らのことを悪魔崇拝者呼ばわりしても、自分は天使と呼ぶ。カルト陰謀論者の話など鼻くそでもない、そんなもの信じたら心が腐敗する。自分が信じた愛のためなら数万人にでも立ち向かう、絶対に属さない、群れない。世界中の人々に自分は間違ってると言われても、そんな同調圧力には屈しない、自分の心の中にある愛を信じる。



どんな人にも心はある、その心を踏みにじり攻撃することなどしてはならない。たとえその陰謀論を信じ怪しいと感じても、それを絶対とし、嫌悪し蔑み憎しみ敵視し、罵倒するのはやめてほしい。偏見ある人の言葉ではなく、その心の中に宿る神の心、愛を信じてほしい。


移民の人達には、真面目な男性や女性、老人や子供もいる。それを全てひと括りにして移民と嫌悪するなど、あまりにも許しがない。その人達がどんな目にあってきたのか、どんな人生を歩んできたのかも想像もせず頭から決めつけて、移民は悪だと偏見を持ち、自分達の縄張りを守ろうとする、そんなのは知的な人類の思考じゃない、敵と認識したら牙をむき出して威嚇するだけの獣。

この地球上のどこも人間の所有する場所などない、誰がどこで生きても自由、全ての生命は神の絶対なる赦しの秩序の中にある自然なる自由の中で生きている。自分に許しの心が無いなら、誰が自分を許してくれる、自分に愛と優しさが無いなら、、誰が自分を愛してくれる。

なぜ争う、いがみ合う、人を傷つける。「自分の主張を押しつけるな」と言っている本人達が、何者かに植えつけられた主義主張の中で生きている。そこから抜け出して自由になればいい、なぜそれができない。


悟り及び、覚りとは、全てから目を覚まし、全てから抜け出す事、解脱する事。善悪の知恵によって誘発される、誰もが持っている羞恥心、その心から聞かされるパラノイア(偏執病)、その悪魔の囁きから解放される事が、全ての苦しみから抜け出る、解脱すること。

宇宙の流れを悟り、自然法と一体となり、やじろべえの如く流れるままに、風が吹くまま赴くままに、心の中にある天秤を水平に、静寂にする、真ん中で安定した揺るぎなき心を持つ、沈黙の天秤となる。全てから目を覚まし抜け出し解脱し、宇宙の流れと一体となり、神が全ての生命に分け隔てなく与えてくれたアガペー、愛を守ること、それが覚り。


許しなき者の前に、狭き門へと続く尊き道、神の道は現れない。そこに現れるのは蛇の道だけ。

誰が話しているかじゃない、何の話をしているか、数字じゃない、肩書きじゃない、ステータスじゃない、ハーティング効果やバンドワゴンといった心理作用じゃない、その言葉にどれだけの愛が込められているか、それを見抜く目と心が必要。

自分は陰謀論を熟知している。知らずにこんな話をしているわけじゃない。その上で、偏見激しい全ての陰謀論者を敵に回す覚悟で、自分はその矛先になる人達の味方をする。

しかし自分は全ての人の味方であり、敵ではない。だから数万人、数億人に嫌われ石を投げられ血だらけになっても、自分は全ての人を嫌わない、全ての生命、人々を、地球を心から愛する、それが神が全ての生命、人々に分け隔てなく与えてくれた、この心の中に宿る尊き神の心アガペー、、愛である。


誰も嫌わない、従わせない、従わない、教祖になどならない、お金儲けの道具になどしない、マインドコントロールなどしない、洗脳しない、主義には属さない、群れない拝まない、アメーバにはならない。

永遠に孤独でいい、この心が維持できるなら、守れるなら、ずっと1人でいい。孤独がいい、全てを愛したい、この地球が大好きだから。偽善者と言われてもいい、確かに自分は偽善者だ、、間違ってはいない。

動物や植物を愛し、動物や植物を食らう、自分は確かに偽善者であり、それが自然法、自然の摂理、全ての生命は、生み出し→渡し→消費する、その中で生きる食物連鎖。それを、、その矛盾を見てみぬふりなどはできない。だから、善悪などない、そこにあるのは自然の摂理。

しかし、生命には、人間には愛がある、これがあるのは、この宇宙の中で安定した流れを維持するために、必要な時に必要なだけ頂く、その自然の摂理を維持するためにある最も大切な心。

この、愛が無ければ何も生み出されはしない、消費するだけの世界など存在できない、全ては光と闇、陰と陽があるから成り立っている、どちらか一方だけでは成り立たない。全てとしてあること、愛と欲望のバランスを覚りで整える、その3つの美しいトライアングルの形を維持する事が、我々人間には必要。愛と欲望にはバランスが必要、沈黙の天秤の杯に乗せるのはその2つの心であり、それを水平にするのが覚り。

女神テミス自身が生み出す愛であり、目隠しは覚りとなり、ソードは欲望となる。その3つの力によりバランスよく安定させるのが天秤となる。


自分は何を言われても平気、何かを言われ気になるのは羞恥心があるから、善悪を使った無重力のシーソーゲームになど参加はしない、だから自分に羞恥心が出たとしても、そのたびに捨て去り書き続ける。

それでいい、一生懸命に一心不乱に、きりがないほどの文字を綴り、言葉を尽くす、これが自分の役割。


自分の思想だけが正しいと言ってはいない、これを読んでくれた方々の心に頼る、自分に人の心は操作などできないし操作はしない、支配などしない、、全てはその人それぞれが決めること。

自分の答えじゃない、それぞれの人々が導き出す答えはそれぞれの答え、1人のために降りてきた蜘蛛の糸は1人のために、必ずそれぞれの糸が、七色に光輝く美しい救いの糸が降りてくる、必ず。

そして、その糸を辿り、ひたすら天を目指せばいい。気づきも、覚りも、高見へ昇るのも、それぞれの自由であり、神による絶対なる赦しの秩序の中にあるアナーキー、それぞれが両翼を手に入れた天使となり、神の元へ飛んで行く、美しき魂は必ず天へと導かれ、誘われる。

蛇に欺かれない賢さと鳩のような素直さがあれば、必ず、キリスト、そして神の道へと導かれる。







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