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さよなら、この気持ち「平成」に置いていくね

まだわたしのなかでぬかるんでいるままの気持ちたち。話しているうちにまた今日みたいな雨が降ってきて、足を取られてしまうこともあるかもしれない。それでも相変わらずとりとめのないことを、いつものままで気取らず書こうと思う。いつかの自分への手紙として。

・・・

あと数時間で元号が変わるね。

ギリギリ平成元年に生まれた私だから、令和元年に入籍とか出産とかしたい人生だったな、と少しミーハーなことを思ったりもする。
というのも先日、友人の『平成最後の結婚式』ってやつに行ってきて、考えてしまった。「平成にやり残したこと」あったっけな?と。

ためしに恋人に聞いてみたら、即答で「ないよ」と返ってきて、彼のそういうところ、すごくまぶしくていいなあ、と改めて好ましく思った。
彼は今、ご両親の故郷に帰っていて、今日帰ってくる。

わたしには帰省すらも、ちっとも『当たり前』にならなくて、なんだかさみしい。「持っていない」ことは、心細さみたいなものに似ている。だから、恋人から聞く実家や田舎の話は興味深くて面白い。それと同時にいつも羨ましいとも思う。わたしが今まで持ちえなかったもの。そして、これから持つのかどうかすら分からない未知のもの。

今の自分がいるのは、間違いなく過去の自分が懸命に紡いできた過去があるからなんだってことはわかってるし、そこに微塵の疑いなどないけれど、それでも「普通の家の子供に、生まれてきたかった」と素直で無垢な気持ちで思うことがある。お父さんお母さんには感謝しているし、大好きな気持ちにだって嘘偽りはない。でも、好きな気持ちだけでは一人で立ち向かえないことが多いのも事実だ。

いつもどこか不甲斐ない気持ちを抱えては、なにかと誰かに助けてもらっている。そのことに出会えたことは本当にありがたいことだけれど、本当のことを言えば、こんなふうに考えなくていいことにいつまでも執着している自分にほとほとうんざりしている。
自分の人生で向き合わざるを得ないもの全てを結論づけておいて、一番そこに納得できていないのは自分だってことも分かっているんだよね。あまのじゃくってやつ。

どうにか人生が少しでも良い方向へ進むように、出来る具体的なことはもう祈ることと「なんとかなるよ」と自分で自分を信じると決めること。祈るために言葉を紡ぐし、信じるために動き続ける。そう、今までと全然変わらんやんってね。

これからの生活は今まで以上に出来るだけ明るい方向性で今ある絶望的な気持ちに終止符を打ちたい。令和という新たな門出に立って、切実に思う。

さよなら、私が生まれた平成という時代。
平成のあいだに仲直りしたかったよ、お母さん。


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