才所丑松

仏教研究者として末席に40年。 6世紀~インド仏教、特にダルマキールティという人物の研…

才所丑松

仏教研究者として末席に40年。 6世紀~インド仏教、特にダルマキールティという人物の研究からスタートし、14,5世紀のツォンカパまでを視野に入れながら、ここ14,5年は倶舎論を中心とした研究に着目し、これまでの研究と結びつける道を探しています。 記事の無断転載禁止です。

記事一覧

仏教余話

その228 難しい説明に入る前に、昔の『倶舎論』学者の優雅な研究の日々を紹介しておこう。船橋水哉博士は、日本に古くから残る、伝統的な『倶舎論』研究の大御所である…

才所丑松
10時間前

仏教余話

その227 さて、従来、チベット語仏教文献は、ツオンカパ研究を機軸としていたせいもあり、中観派や仏教論理学方面の考察は、かなり進んでいる。しかし、『倶舎論』など…

才所丑松
1日前

仏教余話

その226 我々は見たい部分、理解しやすい側面しか捉えていないのである。チベット仏教について、やや詳しく述べたのは、私自身、そこから、限りない恩恵を受けていて、…

才所丑松
2日前

仏教余話

その225 では、話を戻そう。その後、『チベットの死者の書』は、忘れられてたが、ベトナム戦争の頃、1960年代に、反体制派のヒッピーと呼ばれる若者が、『チベット…

才所丑松
3日前
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仏教余話

その224 さて、現代社会がチベットに興味を抱いた経緯も簡単に紹介しておこう。そのきっかけを作ったのは、紛れもなく、『チベットの死者の書』の出版である。この本は…

才所丑松
4日前

仏教余話

その233 もう1人は、ヴォストリコフと同年輩のローエリッヒ(Jurij,Nikolaevic Rerix/Geoge(s)(N.)Roerich,1902-1960)である。彼は、チベットの著名な歴史書、ショヌペル…

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5日前
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仏教余話

その232 この問題をシチェルバツキーに伝えたのが、他ならぬ、ヴォストリコフなのである。こういわれている。  章を通常の順序に変えるのか、、伝統的な順序を守ってい…

才所丑松
6日前
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仏教余話

その231 これらの人々は、すべて欧米の研究者であるが、無論、日本の研究者も、チベット資料は、大いに活用している。欧米の研究に比べれば、格段に日本のチベット学の…

才所丑松
7日前
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仏教余話

その230 以下私の管見の範囲で、上記で言及された欧米諸学者の業績を、もう少し、紹介してみよう。まず、トム・ティルマンスは、主に、仏教論理学を専門としている。彼…

才所丑松
8日前

仏教余話

その229 私の知っている範囲で、彼等について述べてみよう。まず、ホプキンスは、アメリカのチベット仏教学の指導者的人物で、著作も多い。最近のものとしては、その仏…

才所丑松
9日前
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仏教余話

その228 さて、ついでながら、チベット仏教についても、簡単に触れておこう。概して、チベット仏教は邪教的イメージで認識されることが多い。確かに、密教的秘儀の占め…

才所丑松
10日前

仏教余話

その227 とにかく、今と違って、明治の人の熱気はすごいものがある。その熱気の目指した1つが、チベットなのである。明治とは時代はずれるが、チベットと深い関わりの…

才所丑松
11日前

仏教余話

その226 この辺りのことを、専門に研究している人に金子民雄がいる。金子氏は、雲南懇親会という所で、その1人について、発表している。その発表要旨を紹介し、慧海以…

才所丑松
12日前

仏教余話

その225 ついでに、もう1人名、有名な明治の学僧を挙げておこう。明治34年(1901)当時、鎖国だったチベットに入り、かの地から多くの仏典をもたらした河口慧海(186…

才所丑松
13日前
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仏教余話

その224 その辺りの様子は、船橋一哉博士の記述にも見て取れる。 今でも冠導本を使う人が多い。これは泉涌寺の佐伯旭雅氏の編集したものである。旭雅氏は倶舎・唯識(合…

才所丑松
2週間前

仏教余話

その223 眼にする機会も少ないと思うので、些か、件のテーマに触れてみよう。まず、体・用の意味は、平井俊榮博士によれば、 「体用」とは本体と作用のことで、一般的に…

才所丑松
2週間前

仏教余話

その228
難しい説明に入る前に、昔の『倶舎論』学者の優雅な研究の日々を紹介しておこう。船橋水哉博士は、日本に古くから残る、伝統的な『倶舎論』研究の大御所である。博士の書物に、随筆めいた研究記録がある。題して「倶舎を漁る記」という。16ページに亙り(pp.253-269)面白い記述が展開されている。少し、長く引用して、来るべき『倶舎論』解説の布石としよう。
 相変わらず倶舎の研究に従事して居るが、

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仏教余話

その227
さて、従来、チベット語仏教文献は、ツオンカパ研究を機軸としていたせいもあり、中観派や仏教論理学方面の考察は、かなり進んでいる。しかし、『倶舎論』などのアビダルマ文献についての研究は、未知な部分も多い。本演習は、本来は、仏教論理学をテーマとするものであるが、その根源には、アビダルマが横たわっていて、アビダルマの理解なくして、仏教論理学の理解もないのである。その辺りの思想的関連は、今まで、

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仏教余話

その226
我々は見たい部分、理解しやすい側面しか捉えていないのである。チベット仏教について、やや詳しく述べたのは、私自身、そこから、限りない恩恵を受けていて、これからの研究においても、大いに、チベット語仏教文献を活用する予定でいるからである。ここで、日本のチベット学の動向や実力なども瞥見しておきたい。日本チベット学のパイオニアの1人は、長尾雅人博士であろう。博士は『西臓仏教研究』において、ツオン

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仏教余話

その225
では、話を戻そう。その後、『チベットの死者の書』は、忘れられてたが、ベトナム戦争の頃、1960年代に、反体制派のヒッピーと呼ばれる若者が、『チベットの死者の書』に関心を示した。理由は、2つある。第1の理由は、その書によって死の恐怖を逃れるため。『チベットの死者の書』には、死後の世界が描かれているので、そういうこともあり得たであろう。第2の理由は、その死後の世界の様子が、ドラック体験の世

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仏教余話

その224
さて、現代社会がチベットに興味を抱いた経緯も簡単に紹介しておこう。そのきっかけを作ったのは、紛れもなく、『チベットの死者の書』の出版である。この本は、エヴァンス・ヴェンツ(1878-1965)というアメリカ人が、20世紀の始めに、インドで発見した。その後、ドイツ語訳すると、有名な心理学者ユングがこの本を褒めたので、大いに、注目されるようになった。これが、第1次のチベット仏教ブームである

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仏教余話

その233
もう1人は、ヴォストリコフと同年輩のローエリッヒ(Jurij,Nikolaevic
Rerix/Geoge(s)(N.)Roerich,1902-1960)である。彼は、チベットの著名な歴史書、ショヌペル(gZhon nu dpal,1392-1481)作『青史』(Dep ther sngon po)をThe Blue Annalsとして英訳し、仏教学に、大いに寄与した。彼の一族には、

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仏教余話

その232
この問題をシチェルバツキーに伝えたのが、他ならぬ、ヴォストリコフなのである。こういわれている。
 章を通常の順序に変えるのか、、伝統的な順序を守っていくのかという議論は、最近、ヴォストリコフ氏により考察された。(F.Th.Scherbatsky,Buddhist Logic,rep.p.39)
また、こういう意見も引用されている。
 ヴォストリコフ氏は、以下のように認めたのである。彼〔

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仏教余話

その231
これらの人々は、すべて欧米の研究者であるが、無論、日本の研究者も、チベット資料は、大いに活用している。欧米の研究に比べれば、格段に日本のチベット学のレヴェルは上である。松本史郎博士、四津谷孝道博士は、ツオンカパを中心とする中観研究では、世界最高水準であるし、池田錬太郎教授は、アビダルマ関係のチベット資料に関しては、世界に先駆けた業績を残している。また、一昨年、退職された袴谷憲昭教授は、

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仏教余話

その230
以下私の管見の範囲で、上記で言及された欧米諸学者の業績を、もう少し、紹介してみよう。まず、トム・ティルマンスは、主に、仏教論理学を専門としている。彼は、一時期、日本の広島大学に留学していたことがある。ドレイフィスも、もっぱら、仏教論理学を扱う。1997年に大著Recognaizing Reality Dharmakirti’s Philosophy and Its Tibetan In

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仏教余話

その229
私の知っている範囲で、彼等について述べてみよう。まず、ホプキンスは、アメリカのチベット仏教学の指導者的人物で、著作も多い。最近のものとしては、その仏教理解に定評がある、ジャムヤンシェーパ(’Jam dbyangs bzhad pa,1648-1722 )という有名な学僧の難解な書の英訳Maps of the
Profound,Jam-yang-shay-ba’s Great Expos

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仏教余話

その228
さて、ついでながら、チベット仏教についても、簡単に触れておこう。概して、チベット仏教は邪教的イメージで認識されることが多い。確かに、密教的秘儀の占める割合は、日本仏教に勝るであろう。しかし、チベット仏教の全体像は、我々が思う以上に、論理的な側面が強い。今日、インド仏教学の研究者で、チベット仏教を利用しない者がいれば、それはもぐりの学者であるといってもよい。中観・唯識・アビダルマ・仏教論

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仏教余話

その227
とにかく、今と違って、明治の人の熱気はすごいものがある。その熱気の目指した1つが、チベットなのである。明治とは時代はずれるが、チベットと深い関わりのあった、著名な多田等観の事跡にも、触れておこう。ややきな臭い話であるが、日本のチベット研究の重要な側面についての記述である。
 多田のこのような活動は、どのような意義を持っていたのか。それを最初に示す資料は、最初の大陸行の際、1933(昭和

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仏教余話

その226
この辺りのことを、専門に研究している人に金子民雄がいる。金子氏は、雲南懇親会という所で、その1人について、発表している。その発表要旨を紹介し、慧海以外にチベット行きを志した人物を見ていこう。
 今からざっと100年前、中国西南の省・雲南で一人の日本人僧が行方不明になりました。東本願寺系の能海寛(のうみ ゆたか)という人物です。彼は正しい仏典を日本に将来することを念じ、チベットに向かいま

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仏教余話

その225
ついでに、もう1人名、有名な明治の学僧を挙げておこう。明治34年(1901)当時、鎖国だったチベットに入り、かの地から多くの仏典をもたらした河口慧海(1866-1945)である。彼は、井上円了の創設した哲学館、現東洋大学の出身者で、死を賭してチベットに入国した。その顛末は、『チベット旅行記』に詳しい。慧海を含む明治人達の動きを、奥山直司氏は、こう綴っている。
 明治二十年前半(一八八七

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仏教余話

その224
その辺りの様子は、船橋一哉博士の記述にも見て取れる。
今でも冠導本を使う人が多い。これは泉涌寺の佐伯旭雅氏の編集したものである。旭雅氏は倶舎・唯識(合せて性相学という)の大家で、倶舎や唯識のような面倒な学問をした人であるから、きっと朴念仁のような人であったろうと想像されるが、実はさに非ず、旭雅氏の書いた「倶舎論名所雑記」には、あの複雑な倶舎の教義が軽快な七・五調で綴られており、その中に

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仏教余話

その223
眼にする機会も少ないと思うので、些か、件のテーマに触れてみよう。まず、体・用の意味は、平井俊榮博士によれば、
「体用」とは本体と作用のことで、一般的には、中国宋代の儒者たちによってさかんに用いられた哲学用語である(平井俊榮「中国仏教と体用思想」、理想2 仏教の思想、1979,No.549,p.60)
ということである。体・用の趣旨は理解できる。体とは、本質、用とは現象・作用の意味である

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