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@aiiroのこと 4

 自分の慕っていた先生が一人いなくなった。と言っても亡くなった訳ではない。詳しくは教えられていないのだが、元々再就職だったようなので、もう潮時だったのだ。仕方のないこと。人生の終焉に向けて彼は今どう過ごしているのだろうか。

 でも危惧していることは他にある。当て馬という訳ではないが、もう一人この先生はいかないでっていう先生がいる。生憎その先生にもカウントダウンは迫っている。もう今年までか、まだ一年続けられるのか、去年の時点で終わるということを仄めかしていた。

 先生がいなくなること。悲しいことだ。4月も終わりかけ、社会的には新生活に慣れて、もう順応してきたころだろうか。こんな頃に出会いの新鮮さを謳うことも時代遅れな中で、別れの悲しさを垂れている自分が少々情けない。それでも、あの先生がいい先生だということには変わらない。

 その先生の根本的な魅力を今回は言いたいと思う。

 世の中には「陽キャ」と「陰キャ」という人にも分割できる。勿論この分け方が完璧なわけではない。ただ、理想化のため、今回はこの二分化のみで許してほしい。

 先に断っておくが、ここでの「陽キャ」、「陰キャ」とは、一般的にこういう印象と思っているそれらではない。(もちろん、一般論通りなら一々記事になんかしない。)

 説明をしやすくするためにまずは「陰キャ」のほうから。先に挙げた先生も、自分もこっち側の人間に入る。
 それは、自分の心の闇を見せる人である。自分の思考の中に何かしら暗いものであったり、逆説的に物事も見ていたり、分かりやすく言えば、皆はそう考えてるかもしれないけど、自分はこっちだぜ。って思っている人でそれを比較的、外部方向に向かて出す人のこと。出してしまう人のこと。

 そうであるので、反対側は明白であろう。要するに”器用”な人ってことである。本当は持っている負の感情をいかにもみたいな無償の化粧で装える人である。

 もしかしたら、負の感情を一切持たない正の権化みたいな人がいたらすみません。みんな負を持っているって決めつけて。自分の無知のせいです。

 自分から見るとやはり「陽キャ」は太陽だ。すごい楽しそうに”見える”。輝いて”見える”。でも、自分にはそんなことはない。先に行ったかもしれないが、「陽キャ」を誹る気は端からない。所謂「リア充」に「爆ぜろ」と言うそれではない。

 ただ自分は自分に対して嘘をつきたくない人というだけ。嘘をついたとき、すぐにその場でばれてしまったら、解決がつく。怒られたり多少の喧嘩を伴えど、どうやら雨降って地固まるって言葉があるらしい。でも、その場はうまく切り抜けられたとして、後でその人に会った時の苦い唾の感覚。それが自分なら常時になるいつも偽り続けなければならない。はっきりと辛い。

 そーんな人です。だから、ここに書いている話は”その当時の”自分のホント。翌日布団から起きたら、もう違うかもしれない意見。
 そうしないと自分はやっていけない人だから。

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