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【小説】白い世界を見おろす深海魚 80章 (謝罪の意味)

【概要】
2000年代前半の都内での出来事。
広告代理店に勤める新卒2年目の安田は、不得意な営業で上司から叱られる毎日。一方で同期の塩崎はライター職として活躍していた。
長時間労働・業務過多・パワハラ・一部の社員のみの優遇に不満を持ちつつ、勤務を続ける2人はグレーゾーン(マルチ)ビジネスを展開する企業『キャスト・レオ』から広報誌を作成する依頼を高額で受けるが、塩崎は日々の激務が祟り心体の不調で退職を余儀なくされる。
そんな中、安田は後輩の恋人であるミユという女性から衰退した街の再活性化を目的としたNPO法人を紹介され、安価で業務を請け負うことを懇願される。
人を騙すことで収益を得る企業と社会貢献を目指すNPO法人。2つの組織を行き来していく過程で、安田はどちらも理不尽と欲望に満ちた社会に棲む自分勝手な人間で構成されていることに気づき始めていた。本当に純粋な心を社会に向かって表現できるアーティストのミユは、彼らの利己主義によって黙殺されてようとしている。
傍若無人の人々に囲まれ、自分の立ち位置を模索している安田。キャスト・レオの会員となっていた塩崎に失望感を抱いきつつ、彼らの悪事を探るため田中という偽名を使い、勧誘を目的としたセミナー会場へ侵入するが、不審に思ったメンバーによって、これ以上の詮索を止めるよう脅しを受ける。だが、恐怖よりも嫌悪感が勝っていた。安田は業務の傍ら悪事を公表するため、記事を作成し山吹出版に原稿を持ち込み、出版にこぎつける。大業を成し遂げた気分になっていた安田に塩崎から帰郷するという連絡がくる。さらに、キャスト・レオの中傷記事の筆者であることが勤め先に知られることとなる。


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80


 帰り道、ぼくは銀行口座に入っている金額を思い浮かべた。
 入社時からボーナスには一切手をつけていない。贅沢をしなければ半年ぐらいは無職でも生活していけそうだった。でも、この不況の中で次の仕事がそれまでに見つかるだろうか。
 考えてみたが、余計な心配だと気づいて止めた。事はすでに動いているのだ。それに、いざとなればどこかでバイトをする方法もある。閉じた店のシャッターにも、電信柱にも募集の貼紙がある。選り好みをしなければ、どうにでも生きていくことはできそうだ。不器用なぼくのことだから、どこへ行っても苦労するだろう。でも、飢え死にすることはない。
 どんな過酷な状況が待っていようと、自分がしたことを後悔するようなことだけはあってはならない。そう言い聞かせた。少しでも弱気な考えをすることで、そこから不安は身体中に浸食してくる。

「大丈夫。きっと俺は大丈夫だ……」
 声に出して呟いてみた。胸の辺りをさすりながら、星の少ない夜空を仰ぐ。

          

 翌日、川田部長とぼくは菓子折りを持ってキャスト・レオのオフィスへ行った。
 彼と一緒に電車に乗るのは、一年半振りだった。入社したての頃、はじめて受注が決まりそうな営業先に同行してくれたことがあった。そのときも電車の中では無言のままだった。

 受付の電話から聞こえる「ハーイ、お世話になってまーす」という青田さんの変わらない声。それが彼女の本当の恐ろしさを表しているようだ。覚悟をしているつもりだったが、その声で脚が震えてしまった。
 ブースから出てきた彼女は、いつも通りの笑顔だった。いや、いつもより明るい笑顔に見える。着ている水色のブラウスのせいかもしれない。
 川田部長は彼女が出てきた途端、勢いよく頭を下げた。
「営業部の川田と申します。この度は安田の身勝手な行動により、青田様をはじめ、キャスト・レオの皆様に多大なる御迷惑をお掛けしたことを、深くお詫び申し上げます」

  初対面でいきなりの謝罪に青田さんは、驚きの表情を浮かべる。二人の様子を眺めてから、ぼくも急いで頭を下げた。川田部長から発せられる緊張感が肌に刺さってきた。一回、唾を飲み込む音が聞こえた。

「顔を上げてください。『アリシア』の件でしたら、私どもは特に問題にしていません」

 頭上から、どこか可笑しさを堪えるような声が降りてきた。あまりにも怒りとは無縁のニュアンスだったので、思わず腰を曲げたまま顔だけ上げて表情を確認した。
 青田さんは目を細めて笑っていた。それは、いつかどこかで見たことがある表情だった。子どもを見つめる母親のように、優しさに満ちている。
 あぁ、そうか。塩崎さんと食事をしたときの表情だ。ぼくが実家に帰りたくない理由を、ぎこちなく喋ったときに見せた表情。

 胸に強い痛みを感じた。

「まぁ、とにかく中へどうぞ」と、打ち合わせで使ういつもの部屋へ招いた。彼女が抱えるクリアケースの中には、他の書類に混じって『アリシア 新年号』が入っているが見えた。
 ぼくたちをソファーに座らせると、コーヒーが運ばれてきた。川田部長を横目で見るとメガネを外し、うつむいている。ぼくもそれに習って汗で湿った手を膝に置き、カップの中で黒く揺らぐ液体を見つめていた。
「どうぞ飲んでください」と青田さんに言われても、手をつけられるわけがなかった。重たい空気が漂う中、川田部長が再び話しはじめた。

「この度は、深く反省をしています。つきましては……」
「もういいんです」
 今度は苛ついた声で川田部長の謝罪を遮った。

 部屋の扉が開く音が聞こた。白いテーブルに大きな影が映る。覚えのあるコロンのニオイ。本能が危機を覚り顔、首筋、背筋にかけて強い衝撃が走る。
「失礼します」
 斉藤さんは、革靴でカーペットを踏みつけながら、こちらへ向かって来る。

つづく


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ほろ酔い文学

リアルだけど、どこか物語のような文章。一方で経営者を中心としたインタビュー•店舗や商品紹介の記事も生業として書いています。ライター・脚本家としての経験あります。少しでも「いいな」と思ってくださったは、お声がけいただければ幸いです。