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【小説】白い世界を見おろす深海魚 51章 (搾取される側の壁)

【概要】
2000年代前半の都内での出来事。
広告代理店に勤める新卒2年目の安田は、不得意な営業で上司から叱られる毎日。一方で同期の塩崎はライター職として活躍していた。
長時間労働・業務過多・パワハラ・一部の社員のみの優遇に不満を持ちつつ、勤務を続ける2人はグレーゾーンビジネスを展開する企業から広報誌を作成する依頼を高額で受ける。
そんな中、安田は後輩の恋人であるミユという女性から衰退した街の再活性化を目的としたNPO法人を紹介され、安価で業務を請け負うことを懇願される。
人を騙すことで収益を得る企業と社会貢献を目指すNPO法人。2つの組織を行き来していく過程で、安田は理不尽と欲望に満ちた社会での自分の立ち位置を模索する。

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51


 カップを手に持ったまま、塩崎さんはぼくの隣に座った。そして蝶が花に止まるように、自然にぼくの肩に頭を置いた。長い髪が首筋にかかり、くすぐったい。
 シャンプーとコーヒーの匂いが混ざり合う。
「ねぇ、安田君はなんであの会社で働いているの? やっぱりマスコミの仕事をやりたいの?」
 いきなり現実的な質問をされて、匂いとビールで心地よくなっていた気持ちが冷める。
「さぁ、分からない。まだ自分の人生プランが曖昧なままなのかもしれない」
『かもしれない』ではなく『そうなんだろう』と自分に言い聞かせる。これから先の明確な目標が見つけられないでいる。
「キャスト・レオって会社があったじゃない?」
 塩崎さんはぼくの頬を指先でなでた。こそばゆくて、首筋に力を入れながら「うん」と辛うじて返事をした。なんで今、その話をするのだろう……。その疑問が浮上してきたすぐ後に、ある予想が胸の中でざわつき始めた。
「わたし、あの会社のメンバーになったの」
 やっぱり、そうなのか……ということは、次に来る言葉の予想がつく。
「あそこのメンバーになると結構、いろいろと学べることがあるんだよ。だから……安田君にもぜひ入ってほしいな、と思って」
「そんなことか」
 バカバカしい。そんなことか。
 感情を抑えているため低い声しか出なかった。一刻も早く、この場から去りたい衝動に駆られる。立ち上がって、ハンガーに掛けてあったコートを引っ掴んで羽織る。塩崎さんの方を見ないようにして。
「ちょっと待って、どこ行くの?」
「ごめん、帰る」
 そう吐き捨てると靴を履くのも、もどかしく踵を潰したまま部屋を出た。できるだけ早足で階段を下りる。
 クソッ……期待を抱いていた自分がバカみたいだ。
 彼女の部屋からドアが開き、小さく、早いテンポで階段を駆け下りる音が聞こえた。
「ねぇ、待ってよ」
 追いついてきた彼女は、ぼくの腕を強くつかんだ。腕の痛みが胸を伝う。
「今日は、俺をあの会社のメンバーにするために誘ったんだろ? 会員を増やすとマージンが貰えるらしいからね」
 声が震えている自分に気づいた。塩崎さんは、ぼくを誘って金儲けをしようとしていたのか。前を見つめたまま、歩きを止めなかった。塩崎さんの顔を見てしまうと悲しくなり、怒りがどこか体内の隅に追いやられていくような気がしたから。
「待ってよッ」
 塩崎さんはさらに掴んだ指先に力を入れて、ヒステリックに声を上げた。危機に瀕した獣のような叫び。思わず彼女を見つめてしまう。
 髪が顔に降り掛かり、そこから覗いた目が鈍い光を放つ。荒くなった呼吸を整えようと、大きく肩を上下させていた。今まで見たことのない彼女の姿。脆く、刺々しい。
「メンバーに誘うことだけが目的じゃなかったのよ。これだけは信じて。会って……会って確かめたかったのよ」
 夜道を歩く人たちが、ぼく達に無遠慮な視線を投げつけている。手をつないだ大学生らしきカップルは指をさして、あからさまに笑う。
「なにを?」
 正常な声をギリギリに保ちながら彼女に聞いた。
「なにを確かめたかったの?」
 塩崎さんはうつむいた。ぼくをつなぎ止めていた小さな手が離れる。強く閉ざした唇は震えていた。
「もういい」と消えそうな声を出す。
 セーター姿で外に出てきた塩崎さんは、両腕で身体をさすった。
「部屋に戻りなよ」
 伸ばしたぼくの手を強く払う。初めて彼女に拒否的な行動をとられた。
 もう背中を向けて、帰ってしまおうか。気怠さが身体にのしかかり、ため息をつく。この感情的になった女性とこれ以上付き合うのもウンザリだ。
「どうせ……あんな会社にいてセカセカ働いても何にもなれないの。将来の夢を見るのも、もうたくさん」
 それはぼくに向けた言葉でも、自分自身に向けた言葉でもないような気がした。
あたし達ずっと搾取される側の人間なのよ。上の人間にコキ使われながらギリギリの収入を与えられて。ウチの会社の社長の資産を知ってる? オフィス近くの家の他に、目黒と伊豆にも豪邸を持っているのよ。お気に入りの古株の社員を連れて『研修』とかいいながら、年に何回もビジネスクラスで海外旅行に行っているし。だけど、私たちはワンルームのアパートで来月の家賃代を気にしながら、毎日16時間も働いていたじゃない。今もそうなんでしょう? こんなの不公平よ。わたしはそういう生活から脱出したいの。上の人間の贅沢のためにエネルギーと時間を費やさなければならないなんて、まっぴらだわ。『ねずみ講』や『マルチ』だと非難されても、お金をもらえるようになって、少しでも不安や辛さから遠ざかりたいの」
 もう、いやなの……と、塩崎さんは鼻をすすった。街灯に照らされて強い光を吸い込んだ涙が目からこぼれた。顎先を離れ、アスファルトに弾ける。
「塩崎さんの好きにすればいいよ。ただ俺を巻き込まないでくれ」
 カバンからポケットティッシュを取り出し、彼女に渡す。ありがと、と短く返ってきた。今まで見てきた塩崎さんとは明らかに違う。小さかった。
 彼女の背中をさすりながら、部屋に戻った。嗚咽を漏らしながら、ゆっくりとした足取りだった。
「実家のお店が潰れたの」
 塩崎さんはタバコに火を点けながら話した。彼女の目は赤かった。アイシャドウが黒く目の下の皮膚を滲ませていた。

つづく


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#創作大賞2023

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ほろ酔い文学

リアルだけど、どこか物語のような文章。一方で経営者を中心としたインタビュー•店舗や商品紹介の記事も生業として書いています。ライター・脚本家としての経験あります。少しでも「いいな」と思ってくださったは、お声がけいただければ幸いです。