見出し画像

神様が秋風だけに人間の心の在処を教えた


 今朝。

 窓を開けたら秋風の冷たさが体を通り抜けていき、部屋に送り込まれた風を追いかけるようにはっとして振り返ってみたら一人だった。猫はこちらに背を向けている椅子の向こうに隠れていて一匹も視界に入らなかった。だからなのか、

ひとりだ、

とぽつりと言葉が溢れた。

 世界にひとりぼっちだとかそういった壮大な悲壮感ではなく、今ここに立つまでにすぎていった時間たちがどんな欠片であっても戻ってこないことや、文章に表せなかった数々の、もう思い出せないくらいに霞んでしまった「情景と共に思い出される感情であった何か」だとかが、ひどく小さく、でもはっきりと震えているように感じて、なんてことをしてしまったんだろうなあ、わたしは、と悔やんだ。朝っぱらから秋風に当たっただけで感傷的になってしまったので、気持ちを切り替えねばと思い部屋の掃除を黙々とやった。気づけば汗だくになっていて、その間に日差しが強くなり、冷たかった風は熱と湿度を帯びて部屋を満たし始めたところでちょうど掃除は終わった。掃除中、泣いてしまおうかと思ってふと立ち止まったけれど、泣きたくてわざわざ泣く意味がどこにあろうかと思ってやめた。

 結婚のお祝いのお返しに2軒ほど家を訪ねる予定が午前と午後に入っていたため、その間に家事を済ませた。夫が新人賞に出すためにより一層努力すると宣言してきた昨夜、わたしはおそらく、応援するという気持ちを素直に伝えたように覚えているけれど、その根っこには、はっきりとした不安と焦りがあったことを思い出していた。根腐りを起こしてしまいそうな負の感情はわたしの体とはあまり相性が良くなく、燃え上がるか腐るかの極端なものでしかない。燃え上がればやる気に満ちてがむしゃらにやってのけようとするが、腐ってしまったらなかなか綺麗にはなれないし努力もい違う方向、そして全く別のものへのアプローチに変貌してしまう。体調は崩すし情緒は乱れるしいいことがない。不眠と頭痛に襲われ、しまいにパニックになってしまうので、後者だけは絶対に避けたかった。

 他者に対して羨ましいという感情があまりないと自負しているし、言葉として「いいなあ、素敵だね」とか、「羨ましいことですなあ」とへらへらいう時もあるけれども、なんとなくそこに意味はなく、そう言った方がいい気がして言うくらいのことで、心の中では全く羨ましいと思っていない。人には人の、自分には自分の適切なものがたくさんあり、その浅さ深さも、大小も、多い少ないも自分次第である以上、他者の持つものへの羨ましさが全く芽生えてこないので、時々無欲だねと言われるが、無欲ではなく、他人のものに興味があまりないだけであって、わたしはわたしで欲しいものがあり、手に入れるものは確実にあるので、無欲ではない。むしろ欲はある方である。ただ、他人のものを羨むまでのことにはならないだけで。

 だけど、この不安と焦りはまさに、その「羨ましさ」を内包していた。
もちろん心の中を満たす感情は明らかに焦りと不安なのだけど、根幹には羨ましさがあった。夫は受賞歴があるし、書くものには才能を感じるし、書いている間のその集中力だとか、研ぎ澄まされていくものだとかを肌で感じる時、わたしは一層自分の凡人加減がライトアップされてしまうのを何度も苦しく思った。とはいえ努力は人それぞれ、わたしに努力が足りない、ただそれだけのことであるとも理解していたので、羨ましさを抱くこと自体がおかしいと思っていた。羨ましさではなく情けなさを感じていると思っていたのに、今のわたしにしっくりくるのは明らかに羨ましさなのである。自分で自分に引いてしまったのだけれど、認めることも大事だなと思いながら寝て起きたらこのざまであった。秋風に吹かれたくらいで心臓が痛くなる感じ。勝手にしっかりと、落ち込んでいた。

 でも夫にその感情を伝えることはしないでいたかったし、これからもないだろう。創作において他者から与えられるもので一番いらないと言っても過言ではない。そんなことを言っても言われても困るだけだし、そもそもそれ、個人の感情と個人の努力の問題だから関係なくね?となったらそれまでである。というかそう思う。だからわたしは、わたしなりの努力だとか、創作への向き合い方だとかを見つめ直す必要があった。これは結構前々からぼんやり考えていて、日々考えるだけで進まず、自信がないことをひた隠しにしていたのだけれど、どうもそんなことを言っている場合ではないし、というかそんなんで何が得られようか、馬鹿者よとツッコミを入れた。

 どうせ今世を生きるならば、後悔なく、やりたいように生きようよと、思ったのではなかったか。誰に負ける負けないではなく、自分に負けたくないと思っていたのではなかったか。誰かを羨んだって、羨んでいる間にも先に進んでいくのだから、考えたって仕方ない。本当に仕方ないのだ。

 このまま考えてばかりでは腐っていく気がしたので動くことにした。自分の場所を作ろうと思って、リビングにある大きなデスク兼本棚を自分のエリアにすると夫に伝えるとすんなりOKをもらったので、色々と買い揃えてきた。わたしだけ創作のQOLを上げるのもなんなので夫の分も。初歩的だけどPCスタンドをまずは導入した。これがまたいい。使ってみるととても使い勝手が良く、首が疲れないことがとても嬉しかった。夫にも同様のものをプレゼントしたら喜び、早速使っているようである。わたしもまた自分の作業環境を作っていくこと自体が楽しくて、そして実際に使ってみると明らかにストレスが減っているし、書こうと思えている。

 いやいや、ただ形から入るタイプだからでしょ、と思うかもしれないが、もちろんわたしは形から入りたいタイプなので、できれば好きなものに囲まれていたいし、運動するにはヨガウェアやヨガマットなどをまずは買い揃えるタイプではある。だけど、そうもしないとやらないというよりは、そうすることで自己肯定感が上がるのである。「自分で選んで手に入れる」、「自分で選んだことに責任を持つ」ことがわたしの人生で圧倒的に足りなかった経験であり、大変遅咲きだがそれを実行していってる過程でもあるので、今回のように「作業スペースを自分の思い通りに作ること」そして「そこを自分にとっての神聖な場所にすること」を
自分が許可して行うことが、精神衛生上、そして創作人生でとっても大事なことなのだ。
 基本的になんでも相手に合わせるので、大体のことが夫婦で使えることを前提、もしくは夫が気に入ればいいというスタンスで来たため、わたしだけのものというのが本当になかった。今回のデスク兼机だって二人で使うつもりで買ったものだ。だけど二人で使うからこそ使えないという現象もまた頻発したのも事実で、しまいにあまり使わなくなっていったので、いっそわたし専用にしたいと薄々思っていたのを声に出して実行→達成できたので、今回の模様替えはとても有意義かつ記念すべき一歩だった。
 たったそんなことで、と思う人もいるかもしれないけれど、わたしにとってはたったそれだけができなかったのである。でも今日で成長したので嬉しい。これからも何かと妥協せずにとことんやっていくことを怖気付かずにやっていきたいし、だからって過ぎていった時間も、夫との才能の差が縮まることもないのだけれど、わたしにはわたしのスタートラインがあるのだから、ここからだなあ、と思っている。
 前回の日記にも書いたけれど、やめたことでスッキリしたことがたくさんある。人との付き合い方も徐々にだけど適温が保てる距離を定められるようになってきた。上から押さえ込まれるような感覚から「離れたくなったから」「離れた」ら心が軽くなったし、その後も色々と考え方が変わってきた。自分との向き合う時間を大事にして、創ることをできるだけ長く続けていきたいし、結果に出せるようになりたいという気持ちが改めて沸き上がってきた。公募に出して賞を取りたいし、一人でもいいから誰かに読んでもらえるものを作りたい。このままでは死ねない。

 わたし自身に与えられた役目なんてなく、特別な力もなく、凡人である。だけど、信じるものがあり、わかることがあり、創りたいという気持ちで動ける人間でいる以上、やりたいことをとことんやると決めて「実行する」ことを、とことん繰り返しやっていきたい。たったそれだけのことを、ずっと認めてやりたい。

 今のわたしがわたしである人生はこれっきりなのである。それはみんなも。今は今しかない。だから、できるだけ後悔なく生きていこうよね。自分を認めて、自分の在りたいままにあれるように、自由で。

 猫を膝に抱いて深まる夜を、これからも越えていく。



この記事が参加している募集

習慣にしていること

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?