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社会の分断に対して個人ができることを考えてみた -1-

ある日の会社から帰宅途中に、こちらの記事を取り上げた対談を見ました。大学の先生方をはじめとした、偉い方々との対話(配信)でした。

もう3年前の記事なので、今更という部分もあるのですが、この少し長めのタイトルは記憶に焼き付いていました。案の定でしたが、過去に「いいね」のボタンを押していました。

こういう意識を持つ若者が居る。日本も決して捨てたものではないという気持ちです。何となく「優秀な人は日本を捨てて海外へ!」という論調を耳にすることが度々とあるので。

現代社会を覆い尽くしている「分断」という言葉に、私は逆に惹かれているのですが、それは私自身の過去の経験によるところだと思います。


うつ病が自分の普通を壊した

この方の書いている「分断」ということの意味。自分自身を感覚的に「普通」という結論で見てしまうことの怖さなのかなと。

自分の常識は世界の非常識。私の大学院時代の指導教官がどこかのタイミングでそう説いていたことを思い出しました。

この記事の感想から話は代わりまして、私自身のことを振り返ります。私は「うつ病」という最近で市民権をそこそこ得てきている病気を患いました。この病気は完治という概念が無くて、今日も会社を早退して心療内科に通院しました。

今は本業は定常運行に近づいてきて、プライベートはポケモンとブログという、まさに落ち着いた日々を過ごしています。ただ、ここまで戻るのに数年単位を要していまして、当時は休職も経験しました。まるで、人生自体が大幅に狂うような感覚です。

自分の中で「普通」から脱落した瞬間。おそらく、当時のマイノリティーに成り下がる自分の姿は、恐怖でしかありませんでした。ただ、その恐怖心は時間がある程度解決してくれて、結果として「分断」という課題に意識が向かうようになるのです。

自分自身を普通から切り離すこと

普通から離脱した経験を語りました。だからこそ、社会的な「分断」という言葉には、当時から強烈に興味を引き立てられました。

良くも悪くも日本人は「普通」という言葉が好きで、普通から離れた感覚で物事を見る経験は、推測するに乏しい気がします。

もう少し自分との差分を許容(受容)できるように、社会と言うか人間が変わっていけば良いのに。見て見ぬ振りではなくて。貴方は自分とは違うから関わりたくありません、ではなくて。

昨今の不寛容社会や自己責任論の増長は、自分が思うに日本中を覆う「分断」に端を発しているように思えてなりません。長期的な日本の課題かもしれない。

もしかしたら、自分の中でこれを考える機会が生まれているのは、うつ病という経験があったから、かもしれません。世間一般の「普通」から脱落したから。

自分を常識的な普通から切り離した状態(視点)で考えること。一般人の個人(私)がまずできることは、ここだと思うのです。

例えば、相手との違いを受け入れる(許容する)という意識付け。自分の正義感を突き通さないように心掛けるとも言えます。もちろんできない時もあるので、修行中の身ではあります。

おわりに

普通から離脱した経験を踏まえて、分断という言葉をどう捉えるか。今回たまたま思い出したように読んだ記事から、自分の思考を膨らませた話でした。

自分との違いを許容する。そこに触れながら、時には正面から向き合う。

簡単ではないことですし、自分も絶賛訓練中です。ここには、自分のうつ病ならではの悪癖を軽減する目的も存在したりします。

それが自分なりの「分断」に対抗できる数少ない方法だと信じて。社会がより良くなることを願います。

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最後まで読んで頂き、ありがとうございます。この記事があなたの人生の新たな気づきになれたら幸いです。今後とも宜しくお願いいたします♪♪
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