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私は健常者のフリをして健常者の社会に溶け込んでいる"何か"である

私の特性には医学的に「障害」という診断がついている。毎日薬を飲み、定期的に病院に行って診察を受ける。完治は、ない。医学的な支援無しで生きられる未来は果たして来るのだろうか。病気自体も障害がある現実も、とてつもなく苦しい。

それでも私は、「障害者」を名乗るのに抵抗がある。巷に溢れる障害者への差別や偏見が怖いだけではない。私は、同じ病気のある当事者からの批判を恐れている。

私は障害者手帳を申請していない。この病気のために入院になったことも無い。今のところ、日常生活や学業・研究、アルバイト程度の仕事は、制限はあれど「普通」にこなしてきた。それらの場において一切「障害」をカミングアウトしていないが、気づかれずに馴染んでいる。一緒に暮らしている家族ですら、私の病気を知らない。

同じ病気によって、全く動けなくなったり、場合によっては命を落としたりする人もいる。これで私が「障害者」を名乗り、苦しんでいると主張したら病気の程度が重い人たちからは反感を買うと思う。なぜなら私は、「健常者」の社会に問題なく溶け込めているのだから。

ただ、表で元気に振る舞っている分、裏では小さくない苦しみと戦っている。病気を隠すのも楽ではない。私は障害という視点から見れば「健常」で、健常という視点から見れば「障害」がある。「障害/健常」の議論になる時、私はそれ以外の“何か”だ。この二分化は両者の分断を生むだけでなく、どちらにも属せない状態の存在を否定することでもある。

配慮を求めずとも私の社会生活が成り立っているのは、周囲が障害の有無に関わらず気を配ってくれるからかもしれない。例えば私の顔色が悪い時に声をかけてくれる人は、私が「障害者だから」ではなく、「何か問題が起きていそうだから」であるはずだ。「障害」や診断名を先に伝えていれば、障害の内容を推測して過剰な配慮につながる可能性がある。私が客観的な「障害者」ではないからこそ、障害の内容に端を発した配慮がなされるのだと感じる。「インクルーシブ」「合理的配慮」が推進される社会で、「障害」と安易に括ることは、コスパよく「障害者」に「配慮」を与えられる都合の良い根拠となってはいないだろうか。


私は、健常者でも障害者でもない。私は「私」でありたい。

他者の特徴を大きな枠組みによって捨象せず、「その人自身」と認めること。それが私の求める未来への第一歩に、きっとなる。

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