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『傷』

朝起きるたび体に赤痣に似た傷が増えていた。
きっと寝相が悪いせいだろう。ベッドの柵に手足をぶつけたり、転げ落ちたりは私にとっては日常茶飯事だ。

それを疎まれてか、妻とはずいぶん前から寝室を別にしている。夫婦の夜の営みはすっかり途絶えていたし、する気も失せていた。私の相手は他にいたし、お互いそれで困るといったこともなくなっていた。

ある日のこと、手足だけでなく腹や背中の方にまでミミズバレのようなものが出来ており、医者に行っても原因不明と言われ、さすがに怖くなった。

その日は仕事帰りに暗視カメラを買って帰り、自室にセットした。パソコンのモニターに暗視カメラ特有の緑がかった映像が映し出される。自室のベッド全体が入る角度に調整し、愛用のアイマスクをつけて私は眠りについた。

次の朝、胸のあたりに大きなミミズバレが出来ていた。無論、熟睡していた自分にはなんの心当たりもない。

まさか、夢遊病? 知らない間に自分は何か飛んでもないことをしでかしているのではないか? 胸騒ぎにも似た焦りを覚え、慌ててパソコンを起動させた。

マウスをクリックし、昨日録画した動画を再生する。しばらくは寝返りをうつ自分の姿しか映っていないようだった。じれったさに耐えかね、早送りで時間をスキップさせていく。と――

ぎょっとした。突然、黒い人影がベッドを横切り自分の枕元に現れていた。慌てて巻き戻し、再生する。

すらりとした後ろ姿。腰まで伸びた長い黒髪。見覚えのあるナイトウェアーー妻だ。カメラの角度のせいで立ち姿になった頭部は見切れているが、長年連れ添った相手を見間違うはずがない。こんな真夜中に私の寝室でいったい何をしている?

画面を注意深く見つめる。手には何も持っていないようだし、特におかしな動きもしていない。ただじっと枕元に立ち、身じろぎもせずに私を見下ろしている。それだけだ。ただそれだけなのに背筋をぞくぞくと這い上ってくる悪寒を止めることができなかった。

人は恐怖の感情を振り払うために怒りの感情に仮託して気をそらせる生き物だという。今のこの有様がまさにそれなのだろう。私は言い知れぬ恐怖を吹き飛ばすようにかっとなり、マウスを無駄に荒々しく扱って午前三時まで時間をシフトさせた。だがこれといった変化はない。妻はおよそ二時間ほどそうしてじっと立って私を見下ろしていたことになる。

これは……これはいったいなんの真似だ!?
無性に腹が立ち、すぐさま妻の部屋へ怒鳴り込みに向かおうとした――だがその足が止まる。映像に動きがあったのだ。目の端で妻が一瞬前かがみになったのが見えた。慌てて一時停止を押し、巻き戻す。スロー再生で確認。

……か、髪? 私の髪を抜いているのか?
何度か繰り返し、確認した。間違いない。恐らく一、ニ本足らずだろうが、妻は私の髪を抜いている。

……どういうことだ?
よくわからないもやもやとした黒い霧の中に突然放り込まれたような気分に陥った。なぜだ? なんの為に? 頭の中には疑問符しか沸いてこない。脳の芯のあたりが痺れ出し、もう考えることすら億劫になりそうだった。
目の前で起きていることの不条理さに思考と体がついていかない。まるで激しい運動をしたあとのような気だるさで、とにかく最後まで見届けようと私は動画の再生ボタンを押した。

――と、前かがみになって髪の毛を抜いていた妻がむくりと上半身を起こし、そのまますーっと立ち去っていった。私は長い溜息をひとつついた。

この痣やミミズバレは妻のせいではなかったようだ。正直、妻が枕元に立った時、私の心臓は早鐘を打った。妻が寝ている私をぶったり、殴りつけていたのだと思ったからだ。だが事実は違った。少々非論理的な行為を目にはしたが……。それはあとで問いただすとして。今の私はほっとした気分に浸っていたかった。だが次の瞬間、それは見事に粉々に打ち砕かれ私はパソコンの画面にくぎ付けになった。

――午前四時。いつのまに戻ってきたのか画面いっぱいに妻の見開かれた目が映し出されていた。血走り、怒りに燃えた目が暗闇の中で爛々と輝いている。

口元までは見えないがガタガタと震えながら長い黒髪を振り乱し、頬の筋肉をヒクヒクと高速で動かしてるのがわかる。どうやら何かを早口で囁いているらしい。じっとりと汗ばんだ手でマウスを動かし、パソコンの音量を上げた。

かすかに聞こえていた妻の囁き声が徐々にはっきりとしてくる。

「…………ネ…………シ……ネ……シネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネェェェェェェエエエエエエッーーーーーー!!!!

【了】


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水もしたたる真っ白い豆腐がひどく焦った様子で煙草屋の角を曲がっていくのが見えた。醤油か猫にでも追いかけられているのだろう。今日はいい日になりそうだ。 ありがとうございます。貴方のサポートでなけなしの脳が新たな世界を紡いでくれることでしょう。恩に着ます。より刺激的な日々を貴方に。