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ビルの谷間の桜天神社
名古屋市中区にある「桜天神社」は、上野天満宮・山田天満宮と並ぶ名古屋三大天神のひとつ。
学問の神様、菅原道真をお祠りした神社で、受験シーズンが近づくと多くの受験生が合格祈願に訪れる。
名古屋の中心部に位置し、境内は小さくこじんまりとしており、ビルの谷間にひっそりと佇んでいる。
「桜天神社」が面している「桜通り」の名称は、この神社からきており、かつて境内には桜の大樹があったため「桜天神」と
尾張藩16代藩主「徳川義宜」
徳川 義宜(とくがわ よしのり)は、尾張藩の第16代(最後)の藩主、尾張藩知事。官位は従三位・左近衛権中将。
14代藩主・徳川慶勝の三男として誕生した。幼名は元千代。慶勝は元千代誕生から間もなく隠居を余儀なくされたが、幕命により元千代は跡を継いだ叔父の15代藩主・徳川茂徳の養子となり、茂徳より1字を与えられて初名の徳川徳成(ながなり)を名乗る(のちに養親子関係は解消された)。元治元年(1864年
尾張藩15代藩主「徳川茂徳」
徳川 茂徳(とくがわ もちなが)は、美濃国高須藩11代藩主、尾張藩15代藩主、一橋徳川家10代当主。高須藩時代は松平 義比(まつだいら よしちか)、尾張藩時代は徳川茂徳、一橋家時代は徳川 茂栄(とくがわ もちはる)を名乗った。
天保2年(1831年)、高須藩10代藩主・松平義建の五男として誕生。幼名は鎮三郎、のち父・義建より偏諱を受けて建重(たつしげ、初名)と名乗る。長兄の源之助、四兄の整三
尾張14代藩主「徳川慶恕」(慶勝)
徳川 慶恕(とくがわ よしくみ)は、尾張徳川家(尾張藩)第14代当主。のちに、慶勝(よしかつ)と改名して第17代当主になる。(以下ややこしいので慶勝と表記)明治維新後に議定、名古屋藩知事。尾張藩支藩(御連枝)であった美濃高須藩主・松平義建の次男。
江戸四谷の高須藩邸に生まれる。母は正室・規姫(徳川治紀の娘)で、徳川斉昭は母方の叔父に、斉昭の子徳川慶篤と徳川慶喜は従弟にあたる。
尾張藩では10代
尾張藩13代藩主「徳川慶臧」
徳川 慶臧(とくがわ よしつぐ)は、尾張藩の第13代藩主。田安徳川家第3代当主徳川斉匡の十男。官位は従三位・権中納言。紀州藩主徳川斉彊の養女(尾張藩第12代藩主徳川斉荘の娘)と婚約していた。
10歳で藩主となり4年後に病没。これで藩主というのも白々しい限りだが、幕府の傀儡時代であり、押しつけの藩主であった。
徳川斉匡の子として生まれる。幼名は鑑丸。のち父より偏諱を与えられて、初名の匡賢(まさか
尾張藩12代藩主「徳川斉荘」
徳川 斉荘(とくがわ なりたか)は、尾張藩12代藩主。天保7年(1836年)に田安徳川家4代当主、天保10年(1839年)に29歳で、尾張徳川家12代当主となった。
先代に続き、幕府の傀儡(かいらい)藩主と言わざるを得ない。
文化7年(1810年)6月13日、徳川家斉の十二男として生まれる。幼名は要之丞。12代将軍・徳川家慶は兄。
文化10年(1813年)12月25日、御三卿の田安家当主で叔
徳川義直公菩提寺「建中寺」
1651年(慶安4年) に第2代尾張藩主徳川光友が、父である第1代藩主徳川義直の菩提を弔うために建立した。創建当時は周囲は石垣と堀で囲まれ、四万八千坪(158,400m2)の境内に多数の堂が立ち並ぶ規模を誇った。境内の東側には大きな松林があり、鬼門の方角は京都御所の「猿が辻」のように凹ませてあった。1785年(天明5年)の大火災で総門・三門などを除く多数の建物が焼失したが、翌1786年(天明6年)
もっとみるチーズケーキ「Sweet of Oregon」
名東区・牧の原にあるチーズケーキ専門店。
アメリカ・オレゴン州の都市「ポートランド」をイメージして作られたアトリエは、モダンとレトロな共存したとっても素敵な空間です。
外観。
熊さんも。
スイートオブオレゴンの一番人気といえばこの『プレーンチーズケーキ』。
ホールはレギュラー(8cm)/ミディアム(11cm)/ファミリー(15cm)の3サイズで販売。
丸型のケースの中に丁寧に和紙でくるまれて
武田勝頼ゆかりの「武節城址」
稲武の道の駅「どんぐり広場」でいつものざるそばを頂く。どんぐり広場の東にあるのが「武節城址」だ。
武田勝頼ゆかりの城という事で調べてみると、
名倉川沿いに築かれた平山城で、永正年間(1504年-1521年)に田峯城の菅沼定信が築いた。
なお、当城跡の北方450メートルの同市桑原町上鎌井には菜倉氏が築いたとされる「武節古城」がある。
弘治2年(1556年)に武田信玄の家臣である信濃国伊那郡の
尾張藩11代藩主「徳川斉温」
徳川 斉温(とくがわ なりはる)は、尾張藩11代藩主。官位は従二位・権大納言。12代将軍・徳川家慶は異母兄。13代将軍・徳川家定、14代将軍・徳川家茂の叔父にあたる。
尾張藩主と言っても、35歳の斉朝が隠居し、9歳で家督を相続するって、どういう事?21歳で死去。これでは、藩主として何もできない。しかも、名古屋に一度も来ていない。
11代将軍・徳川家斉の十九男として誕生した。母は側室・お瑠璃の方
尾張藩10代藩主「徳川斉朝」
徳川 斉朝(とくがわ なりとも)は、尾張藩第10代藩主。官位は従二位・権大納言。
この時代からの藩主は影が薄い。幼くして藩主となり、35歳で隠居するって、飾りとしか思えない。
実質的権力は、藩の重臣成瀬正典らが握っていた。将軍家と通じて、藩主を決め、藩政を牛耳っていたと思われる。
徳川 斉朝は、11代将軍・徳川家斉の弟で一橋徳川家嫡子だった徳川治国の長男として誕生した。母は二条治孝の娘・乗蓮
尾張藩9代藩主「徳川宗睦」
徳川 宗睦(とくがわ むねちか/むねよし)は、尾張藩9代藩主。官位は従二位・権大納言。尾張藩中興の名君と称された。
8代藩主・徳川宗勝(当時は高須藩主で松平義淳と名乗った)の次男として誕生した。母は側室の一色氏(英厳院)。幼名は熊五郎。
宝暦11年(1761年)、父の死去により跡を継ぐ。父同様に才能に優れ、山村良由や樋口好古らを登用して藩政改革に乗り出した。その結果に行なわれた新田開発や殖産興