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ハードボイルド書店員日記【148】

「この本を注文したいんだけど」

もうすぐお盆。空は水彩絵の具で塗りつぶしたように青く、沸き立つ雲は潔白そのもの。にもかかわらず、笑いながら泣くような天気雨が散発的に降り注ぐ。傘を持ってこなかったと嘆く間に止んでいる。胸を撫で下ろすメンタルは平和ボケの延長線上かもしれぬ。8月15日はもうすぐだ。

黒い傘を携えた白髪の老紳士。初めて見る顔だ。書名の記されたメモを受け取る。「利休にたずねよ PHP」とある。頭の中で続きを付け足す。著者は山本兼一。2008年の直木賞受賞作だ。

「文庫でよろしければ在庫がございます」「単行本がいいんだ。昔読んだけど手離しちゃって」「かしこまりました。出版社がお休みに入ったので、お盆明けの注文になります。そこから2週間ほど」「大丈夫だよ」こういう人は少なくない。半年待ちでも予約する図書館ユーザーの心情と似ている気がした。

サービスカウンターに座ってもらい、伝票を作成する。「直木賞はどう?」「まあまあ売れてます」ふんと鼻を鳴らされた。「二作とも時代小説だよね」「ええ」「ってことは、どんなに優れた時代物が書かれても来年1月の受賞作は別ジャンルだな」表情こそ穏やかだが目は笑っていない。まさか室内でも天気雨が降るとは。「確かに同じジャンルが続かない傾向は見られます」「たまたまだと思う?」「わかりません」「受賞作を出した版元の推移も調べてみるといい。なかなか面白いよ」言わんとすることは理解できる。愛書家ゆえの慨嘆も。だが酒場の雑談ならともかく、ここは書店で私は書店員だ。

「お待たせいたしました」プリントアウトして控えを渡す。「こういう名作をもっと読みたいね。どうも最近の時代小説は」「こちらの本を以前はお持ちだったと伺いました」「そうだよ」「では覚えていらっしゃるでしょうか?」錆びついた記憶の箱を浚い、糠床を混ぜるようにして新たな空気を入れた。たちまち目当ての何かが浮かび上がる。「86ページにこんなセリフがあったのを」

「わたしが丸い釜をつかったなら、四角い釜をつかってこそ茶人。人の真似などおもしろくもない」

表情が変わった。「もちろん覚えてるよ」「私も選書をする際、肝に銘じています」「若い作家たちにこれと同じような話を書いてほしいわけじゃない。よくやってると思う。たとえば去年直木賞を獲った大津城の」「今村翔吾『塞王の楯』ですね」「あれは素晴らしかった。でも仮にいまああいう作品が書かれても、来年1月の受賞はない。なおかつ大手版元はひとつ当たると似た雰囲気の小説を書かせたがる。問題の根源はそこなんだ」「受賞しないとは限らないのでは?」「可能性はかなり低い。別ジャンルとのバランス? 芸術の目利きにそんな忖度を持ち込むのは不純だよ。作家とは決して売文家と同義ではないはずだ」

この人は作家を目指していたのかもしれない。おそらく時代小説の。

控えを受け取っても動かない。「ひとつ訊いてもいい?」「どうぞ」「君は選書をする際、心の底からいいと思える本を選ぶ? それとも会社の意向や売れるかどうかを優先させる?」「優先させるケースもあります。しかし囚われはしません」即答した。「よくわからないな」「つまり売り上げを作るために積む本と読んでほしくて置く本がある。明確に分けてはいませんが」「後者は売れる?」「時々。私の担当するジャンルではないですが、お客さまも『利休にたずねよ』を注文してくれました」視線の圧が弱まる。媚びたと解釈されてもかまわない。良書だけを選び、買ったり注文したりしてくれる頑固者を少なくとも私は嫌っていない。

そして、と続ける。「もうひとつ、ふんわりとした基準を定めています」「ほう」「それも『利休にたずねよ』に書かれていました」たしか56ページ。

「あんがい、つまらぬ理由かもしれません」「どのような」「好きなおなごに嫌われたくないとか」

一瞬の間。と認識するかしないかのうちに、老紳士は手を叩いて大笑いを始めた。「はっはっは! なるほどなるほど。いや、笑うのは申し訳ないな。とても大事な視点だよ」「具体的に誰というわけでもないのですが」「わかるわかる。己の中の美の定義に人格を付した存在。そういう意味だよね?」黙って頭を下げる。「好きな女に嫌われない棚作りかあ。君は面白いね。まさかそんな答えが返ってくるとは」「恐れ入ります」「また買いに来るよ。失恋しないようにしっかり見張っておかないと」「お待ちしております」満足そうに席を立ち、帰っていくのを見送った。

私の選書はどうなのだろう? いつか利休にたずねてみたい。

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