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ハードボイルド書店員日記【112】

「すいません、どなたか」

ポイントアップキャンペーンが始まった週末。朝から列が途切れない。電話もずっと鳴っている。出られない。4人しかいないのだ。レジに3人が入り、私は絵本のプレゼント包装を受けている。

お問い合わせカウンターの前に年配の女性が立っている。ベルを鳴らしても魔人や妖精は来てくれない。焦りを制御しつつラッピングを終え、渡した札のナンバーを呼び上げる。無反応。レジ付近でお待ち下さいと伝えたのに。声を張り上げて店内を回る。いた。最奥部の文具コーナーで音楽を聴きながら試し書きをしている。胸に立ち込めた暗雲から目を逸らし、足早に戻った。

「大変お待たせ致しました」「ごめんなさいね。ちょっとご相談を」ベージュのハンドバッグから某大型書店のブックカバーが顔を覗かせる。中は文春文庫の司馬遼太郎「竜馬がゆく」8巻だ。「最終巻ですね」「あらご存知?」「好きな本です」「よかった。お友達に勧められて最近読んだの」「ありがとうございます」怪訝な顔をされた。「ここで買ったんじゃないのよ?」「どこの店であれ、愛読書を買っていただけたら嬉しいものです」「本当に?」「本心です。四捨五入したら七割は」「なによそれ」笑う姿がリスに似ていた。

「とても面白かったのだけど、歴史好きの主人が『こんなの嘘だ』『龍馬は大したことをしていない』みたいに」「なるほど」マニアの新規ファンに対するマウンティングだ。「たしかに薩摩藩のエージェントでしかないとか、薩長同盟はすでにお膳立てができていたという説が」「そう! それを言われたの」白い頬がかすかに赤みを帯びている。推しを一方的に否定された際のリアクションに年齢や性別の差は存在しない。私だって「太宰治の文学はすべてポーズ」「『斜陽』など太田静子の日記をパクッたに過ぎない」と決めつけられたらどうなるか。「姉さん。僕は、貴族です」なんて落ち着いた態度は保てない。

「悔しかったから勉強しようと思って。そうしたら、お友達が日本史に詳しい店員さんがこちらにいらっしゃると」誰だろう。あまりないパターンだ。へその下が自然と引き締まる。「詳しくはないですが、オススメの本はご紹介できます」「ぜひ」「おかけになってお待ち下さいませ」

「こちらでございます」秀和システムから出ている大村大次郎「教科書では絶対に教えない幕末維新の真実 龍馬のマネー戦略」を手渡した。表紙と帯を確かめた表情が曇る。「『偽金』を作れ』『賠償金を巻き上げろ』ってあるけど」「史実的根拠のない話ではありません。特に後者は『竜馬がゆく』にも出てきたいろは丸衝突事故の件で」「あったわね。たしか紀州藩の大きな船にぶつけられて沈没した」「龍馬の求めた賠償金は8万3526両です。船の額が4万両程度。残りは積み荷の分ということになります。でも本当にそれだけの額に見合う荷物を積んでいたのか」4万両は現在の約30億円に相当すると付け加えた。

「実際どうだったの?」不安そうに目を覗き込んでくる。「読んでいただければ」「あ、そうよね」込み上げる笑みをゆるやかに散らした。「そして誰もいなくなった」の結末を新規ミステリィファンに語るようなことは当人が望んでもしない。

「もちろんそういうきな臭い話ばかりではありません。薩長同盟や大政奉還に関する功績も客観的な視点から論じています」「大政奉還?」しばし考え、あっと人差し指を突き出す。「それも言われたの。薩摩と長州は幕府との戦を望んでいたし現にそうなった。つまり龍馬は無意味なことをしたと」「無意味かどうかは本書を閉じた後に決めても遅くありません」「本当に?」「今度はきっちり十割です」華奢な上半身がぐいと乗り出してきた。「いただくわ」

カバーをかけ、栞を挟んで紙の封筒に入れた。「悪かったわね。お忙しいのに面倒なことを」「いえ。おかげで楽しかったです」「大人しく主人の意見にはいはいって頷いていればいいんだろうけど」「お客様」「なに?」「龍馬の詠んだ短歌でこういうものがございます」本のあとがきに書かれていた。記憶の底から掘り起こす。

「丸くとも一かどあれや人心 あまりまろくはころびやすきぞ」

世渡りをしていくうえで丸くなるのはいい。でも尖った部分がひとつぐらいないとかえって転びやすい。「…そうよね。ありがとう」小さな背中を見送り、奮闘を心から祈った。世の不条理を大人の論理で柳に風と受け流すも一興。だが時にはあえて波風を立て、どこまでも抗おう。薩長同盟や大政奉還に挑んだ龍馬のように。そんな気骨を忘れぬ物書き兼書店員でありたい。

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