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思考と脂肪は溜め過ぎない方がよい

みなさん、こんにちは。Naseka です。
私は 哲学者・エッセイスト として、
自らを定義しています。

note を始めて発信するということにも
だんだん慣れてきた今日この頃

最近 痛感しているのは
「もっと早くからやっておけばよかった…」
ということ。

「早くからやっていれば、
 こんなもどかしい思いをしなくて済んだのに…」

今まで発信してこなかった自分に、
毎日のようにボヤいています。

今日はそんな(どんな?)お話。


思考には過程が存在する

私、哲学者なんで
「自分が考えたこと」について
発信したいと思っているんですよ。

もちろんエッセイストとしては、
そんなに畏まったことだけじゃなく
自由気まま 徒然なるままに書くこともありますが。

暇さえあれば いろんなことを考えているんで、
ひとつのテーマについて常々考えていることが
時間をかけて結実する瞬間があれば、
全然関係ないようなテーマ同士で考えたことが
思わぬ相乗効果でひらめきを生むこともあります。

で、「おぉ、これは」という気付きが生まれると、
note に書こうかなと思うわけ。
※ 裸で走り出したりはしない

でもね、そのとき

背景の説明をどこまでするか

って問題になるのですよ。

たとえ話になりますが、
思考が A → B → C →…と連鎖して、
最終的に結論が「Z」になったとする。

この場合
「 A の結論は Z である」
と言いたいのだが、
果たしてどこまで説明しないといけないのか
という問題にぶち当たるわけ。

私の中では思考の過程が分かっているから、
納得ができる(既にしている)ことでも、
他者からしたら
「なんでそうなる?」
「どういうこと??」

という疑問になると思われる。
( A → Z の直行が許されるのは、
  Amazon のロゴくらいだろう)

これが数学の証明であれば、
一行一行が論理的につながるように
こまか~く話を展開していけばいいけど、
これを私が note でやれば
きっと読者は最後まで読まずに
ページを閉じるだろう。
(そうなったら、とても悲しい…)

せっかく発信するからには伝わるように、
でも長過ぎて嫌気が差されないように、
いい塩梅にまとめるのは なかなか難儀です。

で、そんな難儀をしていると
こう思うんです

もっと発信しておけば、過去記事のリンクで説明ができるのに

…と。

そうすれば、
ひとつの記事には限られた文字数でも
その背景も含めて伝えることができる
と思うのです。

これまでの人生、どちらかといえば
「雄弁は銀、沈黙は金」
と考えて生きてきたフシがある。
(座右の銘とかではないが)

もちろん沈黙が正解となる場面や意見は
あるだろうが、
だからといって何でもかんでも黙っていると
必要なときに必要なことを
伝えられないかもしれない。

そんなことに苦悩をしているさなか、
ネコぐらしの勉強暮らし さんの この記事を読んで、
「だよね、そうだよねぇ…」としみじみ感じた。

そうですよね、
「話さないコトが品性」なんてのは、
凝り固まった価値観ですよね…
(もちろん話すための分別は大切ですが)

多様性の観点から、
そう考える人を否定するつもりもないですが
(現に私自身もそう考えてきたし)

まとめ

これまで思考を発信せずに苦悩している私は、
さながら長期間の引きこもり生活から
社会生活に復帰しようとしている人の苦悩に
似ているかもしれない。
(私自身は、休日以外は引きこもっていないが)

死ぬまで発信しないのであれば、
この苦労はないかもしれない。
ただ、この先何十年と生きる中で
発信しないかどうかなんて分からないのだから、
それならいっそ 発信すべきものは発信して
自分というものを出していくのがいいのだろう。

お腹の脂肪といっしょで、溜め込むと後が大変。
一生ダイエットしないのなら、
好きなだけ溜め込めばいいけどね。
(私は嫌だ)

お読みいただき、ありがとうございました。

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