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『家族の旬 人生の西』明治生まれのばあちゃんのこと①

(写真はみんなのフォトギャラリーから頂きました!)

マガジン『家族の旬 人生の西』では、昭和の時代に、ド田舎で生まれ、貧しく、つつましく、四季折々を愛し、土地の山や海と一緒に生活してきた、けっして、幸せではなかったけれど、生きるのは、家族ってのは、かくも悲しく、いとおしいのだと思わせるような、思い出の数々しか浮かんでこないけれど、そんな家族の物語を、今、明日のことさえわからぬ日本という国に、残しておきたいと思い、シリーズで書き綴っています。

今回は、明治生まれのばあちゃんの物語です。

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ばあちゃんのことで思い出すことといえば、たくさんあるけれど、一番は、ばあちゃんの家で、ばあちゃんがいつも出してくれた砂糖水や、いもがゴロゴロはいったごはん、二つ折れに曲がった体で、風呂敷を持って買い物に行って、はんてんや、今はまだあるのかしらないけれど、昭和の当時、子どもだった私たちが食べていたちゅーちゅーと呼んでいた氷のアイスを買ってきてくれたことや、なんやとにかく貧乏やったんやね、と思う思い出の数々。
年をとってから、農作業で痛めた膝が痛いといって、血管が浮き出た足を、痛いので曲げられないのでのばして放り投げたまま座ってさすっていたことを思い出す。

私がまだ小学校にもあがっていない頃は、ばあちゃんの家にはお風呂がなくて、ばあちゃんは、5分くらい歩いたところにある、私の家か、これまた5分くらい離れた、私のおばさん(ばあちゃんの長女)の家にお風呂に入りにいっていた。
私が小学校にあがるころにはトイレがつけられたようだけど、それまでは、ばあちゃんがよく、家の裏に置いた大きな樽の上に腰かけて用を足していたのをよく見かけた記憶があるので、きっと、トイレがつけられるまで、それがあのばあちゃんの家のトイレだったのだろうと思う。どれだけ貧乏やったんやろう、といまだに思う。

ばあちゃんの家は、小さな台所とその奥に畳の間の2部屋があった。奥の間には、仏壇があって、その仏壇の真上の壁に、うらめしそうな感じのじいちゃんの写真が飾ってあった。じいちゃんは、私が産まれた年に亡くなったらしいので、じいちゃんの顔は写真でしか知らない。ばあちゃんの家に行くと、目覚まし時計があり、普通の四角い目覚まし時計だったのだが、それが、いかにも大きい音でカチカチと毎秒刻んでいた。ばあちゃんは年をとってから、かなり耳が遠くなって、私とねえちゃんが何か言うと、かならず聞こえなくて、「よぉぉぉぉ?」と、耳の後ろに手の平をあてて、音がひろえるようにしながら言ったものだった。

ばあちゃんは、私の家に来ると、私が幼い時は、「○○ちゃん、どれ、どれだけおっきなったんか、ここへ座ってみ」と言い、足がいたいばあちゃんの膝の上に私を抱いてくれた。お母さんはその度に、ばあちゃんの膝痛いし、重いのに、、、と言っていた。これがいつも定番のやりとりだった。そして、私の家から帰る時は必ず、私に、「〇〇ちゃんも一緒に隠居に行くかえ?」と私にきいた。私は、ばあちゃんの家に行っても、別に代わりばえがしないし、うらめしそうなじいちゃんの写真があるだけの部屋ですることもないし、大抵は、「行かん」と言って断っていたが、毎回毎回断るのも悪いので、何回かに1回は、二つ折れになったばあちゃんと一緒に隠居(ばあちゃんは自分が住む家をそう呼んでいた)までついていって、しばらくカチカチと大きくなる目覚まし時計の音を聞いていたのだった。

ばあちゃんは優しく、なんでも頼んだことをしてくれたように思う。例えば、家の近所には、幼馴染のゆうくんという背の高い同い年の子どもが住んでいたのだけれど、昼間、私がゆうくんと一緒に遊びたいけれど、ゆうくんの家までひとりで行って遊ぼうと誘うのが恥ずかしいと言って、ばあちゃんに「一緒に行って」と頼むと、ばあちゃんは、二つ折れの腰の後ろに手をまわして組んで歩き、ゆうくんの家まで一緒に行ってくれ、玄関先で「○○ちゃんと一緒に遊んだって」と頼んでくれた。それが、幼心に申し訳ない、という気持ちがあって、あの日の二つ折れのばあちゃんの後ろ姿を、今でも鮮明に思い出したりする。

そして、平和なばあちゃんの思い出はここまでで、私が小学校にあがって3年もする頃、優しかったばあちゃんの記憶は急激に変わるのだった。

ばあちゃんは、昭和の田舎町で、はじめてくらいの、アルツハイマーの、痴ほう症になってしまったのだった。

(次回につづく)

チェロで大学院への進学を目指しています。 面白かったら、どうぞ宜しくお願い致します!!有難うございます!!