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『Enter』(掌編小説)


「ターーーンってね、ほら、やりたくなるじゃん?」

 大学に入学してからもパソコンの授業があることに驚いていた。わたしはパソコンなんてものにはもう関わりたくないと思っていたから、煩わしさもある。
 隣の席の男子がしきりに話しかけてくる。暇なのだろう。メモ帳には適当に打たれただけで意味をなさない文字が並んでいる。曰く、ハッカーごっこらしい。

 言葉の通りにエンターキーを何度か勢いよく鳴らしている。周囲の迷惑などお構いなしの様子に、わたしは小さく息を吐いた。

「え、やりたくならない?」

 ずっと無視をしているというのに、彼は諦めることを知らないのだろうか。男性の方が精神的な成長を遂げるのが遅いとはよく言うが、それにしてもやっていることが小学生レベルで驚かされる。彼は義務教育をすっぽ抜かしてきたのだろうか。
 というか、この男とわたしが同じ学力レベルであるということが信じられない。

 何度かエンターキーを殴るような勢いで押した彼は遂に教授に叱られる。叱られたというのにしかし、彼はまたすぐにエンターキーを殴るように押していた。その姿は少しだけわたしの心を軽くする。


 高校時代に付き合っていた彼は、わたしが2年間もの片思いの末にようやく付き合えた人だった。それだけにわたしの舞い上がりっぷりは今思い返してみると恥ずかしいもので、そしてそれだけ舞い上がっていたからこそあれほど分かりやすい浮気にも気がつけていなかったのだと思う。

 今、わたしの隣の席に座る男が叩くようにしているエンターキー。それが高校生のわたしの心をズタズタに引き裂いたのだ。

 簡単なことだ。彼が浮気相手に送ろうとしていた文面を、眠気まなこのままにわたしに誤送信。
 彼は不思議な人で、メッセージはまず、大勢並んだ話し相手のうちで最も上に来ている人のページで書いてから、送るらしい。
 ここでもわたしの舞い上がりっぷりが仇となった訳だ。わたしは街灯に群がる夜の虫よろしく、彼からのメッセージに即座に反応していた。
 多くの人々が使うメッセージアプリは、パソコンで使う場合にはエンターキーを押すとメッセージが送信されてしまう。つまり、彼はあの時エンターキーを押しすぎたのだ。
 そのたった1つの小さな動作が、わたしをどん底に叩き落とした。

 教授に対してエンターキーの素晴らしさを長々と話し始める隣の席の彼は、きっとわたしのような体験をしたことがないのだろう。
 このキーは、確かに一種のストレス発散法になり得るのかもしれない。
 だけれどわたしにとってはトラウマに繋がる扉の鍵だ。この大きな図体をしたキーのことは一生、好きになれないと思う。

 チャイムが鳴った。講義が終わる。
 わたしを含め、恐らく教室内にいたほとんどの人が彼のエンターキー談義を聞いていなかっただろう。

「やりたくならないのかなぁ」

「触れたくもないわ」

 呟くように吐いた言葉を、彼は敏感にキャッチした。

「なんだよ、エンターキーに恨みでもあるの?」

「そうよ。恨みしかない」

 暫く、あれ程騒がしかった彼が、嘘のように黙り込んだ。腕を組み、真剣な顔つきでわたしを凝視している。

「ごめん」

「え?」

「いや、まさかエンターキーに恨みを持っている人がいるなんて想像もしてなかったしさ」

「まあ、そうね。ドッグフードになら恨みを持っている人もいそうなものだけれど、エンターキーとスマホのホームボタンあたりに恨みを持っているのなんて、日本中でわたしだけかも」

 俄かに彼が笑いだす。
 わたしが眉を顰めると、彼は「ごめん、ごめん」とわざとらしく手を合わせて謝った。

「ドッグフードに恨みを持ってる人ってどんな人だよ」

 彼の笑顔があまりにも楽しそうだったから、わたしは怒るタイミングを逃してしまう。逃してしまってからそれが悔しくなって、大きくため息をついてやった。それでも彼は楽しそうに笑っている。

 だからわたしは、パソコンなんてものーーエンターキーなんてものにはもう関わりたくなかったんだ。




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