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不本意な収穫

父は庭の一角に小さな葡萄棚をこしらえた。
水捌けのよい土壌を作り、栄養たっぷりの肥料を与え、害虫を駆除し、雨除けを設け、暑さ寒さを管理し、また日光にもたっぷりと当てて、丁寧な枝の剪定も行った。



しかし、父の葡萄棚はなかなかまともな実を付ける事がなかった。あれこれと工夫を重ねているにも関わらず、上手くいかない原因は何なのか、父にはこれと言った理由が特定出来なかった。


だが父は諦めなかった。様々に試行錯誤を続けること数年あまり、とうとうある年、父の葡萄は勢いのある枝ぶりを見せてきたのである。


父は興奮して言った。
「見ろ。遂に葡萄が実るぞ。光と風と土が味方してくれた。この時を待っていたんだ。さあ、ここからが大事だぞ」
父は目を輝かせて青空に浮かぶ葡萄棚を見上げた。


父の本業は計算であった。
計算の為に父は、常に仕事場へ最新鋭の機器を導入していた。職場へ着くとまず父は、自分の両手の平を重ね合わせ、それをよく揉み込み、次に右手人差し指と左手の平を使ってぶつぶつと呟きながら父しか知らない暗算をしたあと、最新鋭機器の前に置いてある特製計算用ワーキングチェアに座り、目の前に聳え立つまるでキャビネットのような大型コンピュータの一角からキーボードをするりと引き出すと、カタカタカタカタと長い計算式を入力する。するとコンピュータは、ゴウゴウ、ウィンウィンと唸りだし、しばらくして静かさを取り戻す。父は隣の部屋へ移動して、そこにも同様に壁一面に設置されている大型コンピュータの中から最終決定ボタンを選んでポンと押す。すると出力スリットから帯状になった紙が、無数にベラベラと吐き出されてくるのであった。


そこへびっしりと羅列された数字や記号を確かめながら、父はうんうんと頷いた。そうやって自分の暗算と機器の計算を照合し、それが同じである事を確認すること、自分の頭の中と世界の最前線が常に同等である事が、父が自分に課している父としての条件なのであった。


また「数字こそ曖昧」が父の口癖であった。
「実は数字や記号ほど曖昧なものは無い、曖昧な概念を無理矢理ひとまとめにしているのだから」
そして、「あらゆる方面から割り出した計算によると…そう、葡萄はきっと見事に実るよ。間違いない。まるで宝石のように…いや宝石よりも美しく実るよ」と言った。
父は本業の傍ら、葡萄棚に費やす時間をさらに増やしていった。



そんなある日の夜──
漆黒の外套を身に纏い三日月の剣を背負って、小さな黒い影が暗闇に現れた。麗しの夜の帳を翻し滑らかな身体の曲線美を波打たせ、スルスルと電線を渡り父の庭へ飛び降りた真夜中の訪問者は、一匹のハクビシンである。


寝室で寝ていた父はその邪気を瞬時に感じ取ると、かばっとベッドから起き上がり、鉄砲玉の如く庭へ飛び出した。
そして物置から硬い岩をも打ち砕く頑丈なスコップを持ち出して、目を血走らせながら動物の足音のする暗闇に向かってぶんぶん振り回し、鬼の形相で敵を応酬した。

そしてしばらくの格闘の後──
気づくと動物の気配は庭からはたと消えていた。
どうやらハクビシンは、父の決死の抵抗に尻尾を巻いて逃げ出したようである。
「畜生逃げたか憎たらしい小悪魔め。意地汚い泥棒め。もしまた俺の庭にやって来たら、今度はこの手でぶちのめしてやる。俺が何をしているのか思い知らせてやるぞ」


父は懐中電灯で庭の隅々を照らしながら、敵が未だ何処かに潜んではいないか目を凝らして探し、また大切な葡萄に被害が無かったかどうかを一房一房丁寧に確認した。幸い葡萄は無事だった。しかし父は思った。ここまで大切に守り育てた葡萄を、あんな非常識な侵入者に食い荒らされたりしてはたまったものではない。それにハクビシンだけではない。葡萄がもっと美味そうに育ってきたら、鳥達だって狙いに来るかも知れない。父は、葡萄の房のひとつひとつに下から袋を被せる事にした。



父は自分ひとりで葡萄の世話をしていたが、実はそうではなかった。父の庭の土の中には、父を支えるたくさんの生物達が居たのである。それは屋台で掬った金魚や、学校課題のカブトムシ、三毛猫のサリー、インコのアトム、オオヘラジカのリュウ、夕食に出た魚の骨と、幼くして亡くなった叔母、曽祖父のそのまた曽祖父のダニエル、それに地中に蠢めく数え切れないほどの小さな虫や微生物たち。そんな錚々たる面々の誰も彼もが、父の懸命な葡萄作りに心を寄せ、土がもっと良い環境になるよう土壌を肥やし、葡萄が大きく育つ方法を皆であれこれ相談し、連携して協力し合っていた。そうしていつか土の中にいる誰もが、父の葡萄の成熟を心待ちにするようになっていたのである。


父はこの様な大地の恩恵を知ってか知らずか、葡萄の世話にますます精を出すようになった。
葡萄は季節を問わず一年中細心の注意を払い手を掛けなければならなかったが、どんな面倒な作業もいつかやって来る収穫を思えば、父はまったく苦にはならなかった。



そうして葡萄の粒が段々と大きくなってくると、父は葡萄の一粒一粒に声をかけ始めた。
順調な実にはその調子だとても素敵だと褒めちぎり、育ちの遅い実に対しては、周りを気にする事はない自分のペースで頑張れと言って熱く励ました。



家へやって来る客人は、庭にたくさんぶら下がっている袋を見て「あれは何です?」と父へ尋ねた。
すると父は「なんでもありませんよ。あれはただの袋です。中には葡萄が入っていましてね。ですが、大きく実らせて食べようというのではありません。そんなつもりでああしている訳ではないんです。私は生命を育てることに関しては全くの素人ですからね。ええ、まさか私が生命を育てるなんてことは!ましてや食べようなどとは…。ああして袋を被せているのは、葡萄に袋が必要だからです。そうして欲しいだろうと思うからですよ。それ以外に、何か理由がありますか?」と答えた。


また別の客にはこんな風に言った。「あれは生命の実験中なんです。放っておくといつまでも時間が止まったままの生物がいますね。もしくは止まったように見える生物。命の危険に晒されなければ、生きようとしない生物。そういうものたちに、生きているという事を思い出して欲しいんです」


あれは何?と葡萄の袋を指差す近所の子供達にはこう言った。「この袋の中には何が入っていると思う?実は宇宙が入っているんだ。この袋の中には、宇宙が入っている。だからこうして守ってやらなくてはね」



葡萄は父のお陰で順調に育っていった。
葡萄の枝葉は血管のように四方八方へどんどん広がっていくので、父はそれに合わせて棚を次々に拡張し、やがて葡萄は庭いっぱいに緑色の屋根を形成していった。


「剪定の時に大切なのは、残す枝と切る枝をしっかり見極めなければいけないことです。けれども私には葡萄作りの所謂専門的な経験がありませんので、どちらの枝も同じように良い枝に見える場合には、どちらを切るかを決める事がとても難しい。しかし決断する必要があるんです。そして自分が選んだ枝で、もし良い葡萄が出来なかった場合に、もしかしたら切った方の枝の方が良かったのではないか、と自分が後悔しないかどうかを考えるんです。重要なのは自分が納得できるかどうかです」


こうして、父の庭は一面葡萄畑となったのである。


だが、この異常とも言える父の葡萄への献身はある日の母の突然の失踪によって中断された。
それまで一度たりとも父の元を離れた事のなかった母が、突然家から居なくなったことで、父は激しく動揺し狼狽した。ろくに眠れないままその日の夜が過ぎ、ものも食べられないまま二日目が過ぎ、警察へ捜索願いを出そうとしていた三日目の朝、居間でついうつらうつらとしていた父は、家中をむっと満たす甘い香りに呼び起こされて目を覚ました。


そのむせかえるほどの芳香に導かれて父は、よろよろと庭へ出た。そして父は息を飲んだ。
そこには、葡萄畑の中にひとりぽつんと立つ母の姿があったのである。薄い朝靄の中、豊潤な甘い香りに包まれて、細い葡萄の木々に寄り添うように、母はこちらを向いて立っていた。まるで、たった今そこに生み落とされた光のように。


父は母の方へ歩み寄り、そしてしっかりと捕まえた。母は大きな呼吸をひとつすると、すっと手を上げ、真上にある一房の葡萄を指差した。そこで父は気が付いた。父と母の頭上には、無数の紫色の粒粒が鈴なりにぶら下がっていたのである。


丸く大きく育った葡萄の粒は、今や袋を突き破り、たわわな実をいっぱいに付けた房は、紫色のシャンデリアのように彼方此方にキラキラと輝き垂れ下がっていた。そしてどの房も甘く強い芳香を放ちながら、今にも地面へ落ちそうに重く天井の枝を引っ張っていたのである。


父は、母の指差した一房の葡萄を震えるハサミでそっと切り落とした。父は自分の手の上にやって来た葡萄の重さに驚き、そして目を潤ませ、言葉もなく胸に抱いた。


そして父は、私の方を見ると、その葡萄を私の目の前へ差し出してきたのである。
「これを、君に食べて欲しい。さあ…さあ!」



父は少年の様に目を輝かせながらその葡萄を私の眼前に差し出した。
葡萄の皮ははち切れんばかりの艶と張りを持ち、人を酔わせるような甘い匂いに私は頭がくらりとした。紫色の丸く豊潤な佇まいは、この球体の内部にある濃厚な味と舌触りを容易に想像させた。父の言った通り、そこには確かに宇宙があった。私は宇宙を丸かじりしてみたい欲求に襲われた。私は房からぷちりと葡萄を一粒捥いだ。捥がれた果実の小さな穴から、今にも果汁が溢れ出さんばかりだ。私はその大きな実を口の中へ入れた。ブツリと皮が破かれると、果肉と果汁が歯の間を通り、得も言われぬ薫香が口腔内を満たした。それは、今までに口にしたどんな食べ物よりも美味しく、身体中がざわめくようで、脳の幸福度はいっぺんに上昇し、また何か一番大切なことを思い出すようでもあり、私はその味を形容できる言葉を見つける事が出来ずにいた。痺れるほどの糖度が鼻と喉を突き刺し、私は思わず気が遠くなるような心地がした。父の庭の土を吸い上げて育った葡萄の果汁が、容赦なく私の血管を縦横無尽に巡った。心臓がドクンと高鳴った。私は、この快楽に飲まれまいと必死に抗った。果肉が喉に詰まって息が出来ない。葡萄を育てた父の疾走が、走馬灯の様に眼前を駆け巡った。父母の顔がぐにゃりと歪んだ。あの日以来忘れかけていた感覚が、ぞわぞわと全身に甦ってきた。私は内臓が果汁に侵されていくのを感じながら、暴力的なまでの葡萄の生命力に抵抗を止めて身を委ね、そしてゆっくりと瞳を閉じた──

甘く成熟した果実が、静かに力強く押し潰されてゆく新たな気配のうちに──







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