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【知られざるアーティストの記憶】第51話 行かれなかったタケイさんの治療院と、マサちゃんの入院

Illustration by 宮﨑英麻

*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*

全編収録マガジン
前回

第8章 弟の入院

 第51話 行かれなかったタケイさんの治療院と、マサちゃんの入院

T大学病院での次の検査日が近づいていた。マリは前回の血液検査における懸念を忘れたわけではなかったし、愉氣が進化したものとして捉えていたお遊びのようなハグの効果だけで、療法の補完が十分であるとも思っていなかった。けれど、彼は日常生活を送る上ではさしあたり元気そうに見えたので、その一点の曇りのような懸念は現実的な脅威として認識されるに至らなかった。それよりもマリは、彼との肉体的な距離をいかに縮めるかということに現を抜かしていた。

中医足つぼ師のメイから貸してもらうことになっていた光線療法器具のコウケントーは、先約があったため順番待ちとなっていた。すでにがん患者向けのカーボンカートリッジを取り寄せ済みであった。

国際中医師のタケイさんには、出張費を払って彼の家まで来てもらうつもりで話を進めていたが、3000円の出張費を支払うくらいなら2つ隣の市まで出向くほうがよいと彼が言うので、10月12日に彼一人分の予約を入れた。マリは片道40分弱の治療院までの道のりを、彼を助手席に乗せて運転して出かけるのが楽しみでならなかった。

その前日である10月11日の午後、彼は道で出くわしたマリに、
「マサさんが昨日から様子がおかしいんだよ。」
といつも通り落ち着いた静かな声で伝えた。
「わけのわからないことばかり言ってるし、部屋中に食べ物でも何でもぶちまけるし、そこいら中におしっこもしちゃう……。自分の名前は言うけど、今日が何月何日か答えられない。靴も左右反対に履いてるから、どうも左右の認識も逆になっているみたいだ。悪いけど、私はマサさんから離れられないから、明日は行かれなくなった。タケイさんに言っといてくれる?」
「……うん、わかった、連絡しておく。でもマサさんは病院に行かなくて大丈夫なの?」
「少し様子を見ているんだけど、やっぱり病院に診せたほうがいいかな?」
「なるべく早めに受診したほうがよさそうな気がするよ。脳のことだから。」
「じゃあ、ノリオさんに連絡するかな。このままでは私が参っちゃう……。ほんとうは、明日キミと食べようと思ってお昼のサンドイッチを作って冷蔵庫に入れてあるんだよ。」

彼がマリの分も作ってくれたというサンドイッチと、二人分買ってくれたお茶が嬉しかった。一緒に食べることは叶わなかったけれど、その光景を想像して準備をしてくれたその気持ちだけで、マリは十分幸せに満たされた。


©Yukimi 遺作の原稿『未来へのレクイエム』より


イクミさん、タケイさんの所は、もしもあなたにとって必要であるならばきっとベストなタイミングで行かれますよ。すべてはうまくいっています。成り行きを見ていきましょう。
切り干し大根、前回よりも薄味にしてみました……どうかなあ?(いつも同じものですみません……)元気出してね‼
            十月十一日     マリ

マリの手紙より(一筆箋・全文)

10月12日の朝、マサちゃんは階段を降りてきて、イクミに宛てたマリの手紙を目に押し当てるようにして読んでから投げ棄てた。視線が定まらず、マリが挨拶をしても答えなかった。

マリはこの日、タケイさんの施術をキャンセルする代わりに自分が受けに行った。入れ替わりでF町から駆け付けたノリオさんの車で、マサちゃんは市内の脳神経外科のあるK病院を受診し、そのまま入院となった。マサちゃんは病院に行くことを嫌がって暴れ、彼とノリオさんの二人がかりで車に乗せるのにとても苦労したと後から聞いた。

夕方になっても、彼が夕飯を食べる17時を過ぎても、彼は一向に帰ってこなかった。辺りがすっかり闇に包まれてから、マリがいつものように米の研ぎ汁を庭木に撒きに出ると、彼が家の窓辺に佇んでこちらをじっと見ていた。
「なんでここにいることがわかったの?」
駆け寄ったマリに彼は驚いたように訊いた。
「いや、わかったというか、研ぎ汁を撒きに出たらあなたが見えたんだよ。それよりどうだったの?ずいぶん時間がかかったね。」
「すごく時間がかかって、疲れたよ。朝から何も食べていないよ。」
「それは大変だったね。お疲れさま。早く何か食べて、よく休んでよ。」
「先生には、何でもっと早く連れてこないんだと怒られたよ。様子を見る必要があるからです、って答えたけど。」

マサちゃんは脳の血管から出血し、それが原因で記憶障害を起こしているとのことだった。施せる処置はなく、予断を許さない状況で、退院の見込みがあまり見出せなかった。やはり、以前の怪我の痕に飲酒が大きな負担になったのだ。マサちゃんは、わかったうえでわざと飲酒をしたのだろうか。それとも、やめられなかったのだろうか。兄が白血病を発病したとき、マサちゃんは
「兄貴、頼むから先に死なないでくれ。俺が先に逝くんだから。」
と言って泣いたそうである。


©Yukimi 若い頃の作品『LAGRANGE POINT JMN-003』(年代不明)P・1 表紙
※今回より、『LAGRANGE POINT JMN-003』の原稿を順に
掲載してみようと思います。よろしくお願いします。

こうなる前だったら、マサちゃんに何か声をかけてあげられただろうか。こうなってしまった以上、マサちゃんに対してしてあげられることは、祈りを届けることくらいしかマリには思いつかなかった。

「家族が大変な思いをしているんだから、私だけが満たされるわけにはいかないよ。」
そう言って彼は、まるで喪に服したように、マリとのハグや触れあいへの模索の一切をやめてしまった。それと同時に、作業デスクにも白い布を被せ、原稿の執筆も中止してしまった。
「家族とは、そういうものだよ。宮崎駿だって、家族の危機のときにはそうしたんだから。」

マリには彼のそうする理由が十分には理解できなかった。自分だったら、家族に対して自分にできる限りのことをしてあげて、常に心をかけ、祈りを向けるけれど、同時に自分の身の周りの生活や小さな幸せを大切にし、自分自身を満たすことも同じだけする。そしてその幸せなエネルギーを、弱っている家族にも循環するのがよいと考える。私は薄情なのだろうかと、マリはわからなくなった。

一応、マリは自分の思いを彼に伝えはしたが、頑なな彼の意思を尊重するしかなかった。

つづく

★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。



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