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車窓から覗く胸の痛み (『ドライブ・マイ・カー』考察)

 車の中から、窓の外を見る瞬間が好きだ。

 晴れだろうと雨だろうと、私は守られている存在で、一歩引いた姿勢で景色を楽しむことができる。流れゆく折々の場面は、ひとの人生を体現しているようにも思えて、ほんの少し切なくなることもある。高速道路を猛スピードで駆け抜ける車、突如として広がる海の青さ、激しい雨が窓を穿つ音。

 自分で運転をすることも好きだけど、誰かが運転をする車に乗ることも同じくらい好きだ。外を眺めることに集中することができる。巡りめく景色の中で、自分がこれまでどのように生きてきたか、今は何をしたいのか、これからどうしていきたいのかをぼんやり考える。

 せわしなく生きることを余儀なくされたこの世界で、私は遠く過ぎ去った季節を思い出している。

*

 ちょうど仕事がひと段落した折、午後に半休をとって映画館へと足を向けた。目的は、濱口竜介氏が監督を務めた『ドライブ・マイ・カー』を観るためだ。カンヌ国際映画祭で四冠、第94回米国アカデミー賞作品賞にもノミネートされた作品で、もともとの原作を読んだこともあり、ずっと気になっていた。

◆『ドライブ・マイ・カー』(2021)
 舞台俳優で演出家の家福悠介は、脚本家の妻・音と幸せに暮らしていた。しかし、妻はある秘密を残したまま他界してしまう。2年後、喪失感を抱えながら生きていた彼は、演劇祭で演出を担当することになり、愛車のサーブで広島へ向かう。そこで出会った寡黙な専属ドライバーのみさきと過ごす中で、家福はそれまで目を背けていたあることに気づかされていく。
映画.comの解説より一部抜粋

 もとは、村上春樹の『女のいない男たち』に収められている中の一遍である。とは言うものの、もちろんその小説の要素はあるが、個人的には映画と小説ではまったく印象が違ったというのが正直なところだ。

 なぜか観終わった後に、もう少し自分の中で本作品をさまざまな角度から見つめ直したいと思い、半ば自己満足的な形で言葉を連ねることにした。ふと、昔大学で書いたゼミのレポートを思い出した。なぜかは、わからぬ。

The Beatlesの視点から

 『ドライブ・マイ・カー』とは、おそらくThe Beatlesの同名タイトル「Drive my car」から着想を得ているように思える。曲の歌詞としては、スターになることを夢見る女性と、彼女を乗せた男性運転手とのやり取り。

 ブルースでの隠語を捉えるのだとすれば、歌詞から見ても女性側が男性を誘惑していると見ることもできる。彼女が、なぜにそんなにも男性運転手に固執したのかは見えてこない。僕は将来有望なんだ、と主張する男性。将来私といれば安泰だよ、と言う女性。

 二人の主張は交わらないまま。お互いが、自分の主張を頑なに押し通そうとする。方向性さえ異なれば、お互いを高めあえる存在になれるかもしれない。でも、自尊心が邪魔して素直になれない関係性。話は平行線のままだが、そのやりとり自体を彼らは楽しんでいるのかも知れない。

 自分の本音を言葉にできないまま、進む人と人とのつながり。相手に対して、正直に態度で示せないこと。一線を越えることに対して、怯えを感じている。家福と妻の間にある距離感にも通ずるところがあると感じた。彼らは、結局自分の中にある本音を伝えることなく別れてしまう結果となる。

千夜一夜物語の視点から

 映画を観ながら妙な違和感を覚えて、その理由が漠としてわからないまま劇場を後にした。改めて村上春樹氏の著した原作を読んで合点がいく。家福の妻が夜の営みの中で口にした物語は、「ドライブ・マイ・カー」に収められたものではなかった。正しくは、「シェエラザード」という短編の中に出てくる物語だった。

 タイトルのシェエラザードとは、千夜一夜物語に登場する姫の名前のことである。千夜一夜物語は、日本では「アラビアンナイト」として広く知られている。昔々、ペルシャにシャフリヤールという王様がいた。彼は、ある時妻の裏切りによって女性不信に陥る。心の傷を抱えたまま、毎晩女性を呼んでは殺すという残虐な行為を繰り返す。

 ある時王の行為を見かねた側近が、自分の娘であるシェエラザードを王のもとへと嫁がせる。常であれば、彼女もすぐに王様に殺されてしまう。ところが、彼女は果敢にも王と夜を共に過ごす際、古くから伝わる物語を語って聞かせる。彼女の話は、王の関心を惹く。続きが気になる王様は、彼女を殺すことなく次の日も続きの物語を語らせる。

 彼女は毎晩様々な話を王に語り、それが千と一夜続いた──。

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 奇妙にも、千夜一夜物語に出てきた王の状況は、妻の不貞の現場を目撃してしまった家福の状況と重なる。但し家福の場合は、決して自分が見た事実を妻へ突き付けることはしなかった。彼女が死ぬまで。もし私が彼だったら、おそらくペルシャの王様と同じように苦しんだことだろう。

 家福は、なぜ妻のことを問い詰めることをしなかったのか?彼は、真実を告げることによって、妻の気持ちを正面切って見ることに恐れを感じていたのかもしれない。

偶然と想像の視点から

 濱口竜介監督の映画に秘めたる思いをもう少し知りたいと思い、彼が他にも監督を務めた作品を見たいと思った。ちょうど、『偶像と想像』が公開されていたので、劇場まで足を運ぶ。3つの異なるショートムービーが連なる作品。それぞれ展開は違うけれど、何か共通点のようなものを見た。

 タクシーの中で恋バナを始めた二人の女の子、自分の中にある言葉を形にしようとする男性講師、忘れられない親友の幻影を探し続ける中年女性。思い通りにならない人生の中で、それぞれが忘れられない思い出を秘めている。次にどのような展開が待っているのかわからず、思わずスクリーンに釘付けになる。

 全体を通して、主人公たちはみなどこか空虚な気持ちで生活をしている。過去の自分の行動を、後悔しているようにも思える。あるいは、どうにもならない気持ちに対して、折り合いをつけようとしていたのかもしれない。彼らは、最終的に偶然と想像の中で自分なりの希望を見出そうともがいていた。

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 『偶然と想像』に登場する人物たちの葛藤する様子は、家福と運転手である渡利みさきがそれぞれ抱えている記憶にも重ね合わせられる気がした。言葉はただ受けての経験と結びつく。口下手な二人は、狭い車の中で静かに言葉を重ね、お互いのことを理解しようとした。

 本人たちも気づかないまま紡がれた糸。一見偶然のように生まれた出会いも、もしかするとあらかじめ定められた必然だったのかもしれない。

ワーニャ伯父さんの視点から

 様々な視点を通じて、改めて「ドライブ・マイ・カー」に対して私が思ったこと。それは、どの視点においても中心となる人物たちに見え隠れしていたのは、胸の中にぽっかりと開いた深い穴の大きさだった。日常はうまくいかないけれど、それを外に出すのも情けない。大人としてのプライドが、それを許さない。

 本当は崩れるほど、泣きたい。でも、誰が自分の深くて暗い穴をのぞき込んでくれるのだろうか。最初家福が頑なに運転手を乗せることを拒んだのも、きっと誰も理解できない自分の世界に入ってきてほしくはなかったからではないだろうか。

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 『ワーニャ伯父さん』は、ロシアの作家であるアントン・チェーホフの四大戯曲の一つとして有名な作品だ。舞台は、田舎に引っ越してきたアレクサンドルとその妻であるエレーナを中心に始まる。アレクサンドルはなかなかに複雑な経歴を持っており、前の妻との間にソーニャという娘がいる。

 タイトルにもなっているワーニャ伯父さんは、アレクサンドルの妻の弟という間柄である。前妻は既に亡くなっているにも関わらず、なぜワーニャ伯父さんとアレクサンドルの関係性は続いているのかという疑問はさておき。さらにワーニャ伯父さんは、アレクサンドルの後妻であるエレーナにゾッコンになってしまうからまた不可思議な話である。

 最後の幕において、ソーニャがワーニャ伯父さんに対して語る言葉が印象的で、深く心の中にある闇を一片の光が差す。長く、先の見えない1日1日を過ごすこと。どうしようもない日々の中に、垣間見えた明るい兆し。ソーニャを演じたパク・ユリムは言葉を口にすることはなかった。彼女は、身振り手振りによって体を震わせ、無意識の言語化を試みた。

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 家福が演出を務める劇では、一つの言語にとどまらず、様々な国の言葉が用いられた。その中でも、特に手話での表現方法は異質とも言えるものだった。今思うと、言葉がない中での演劇によって、観客である私たちの想像力を掻き立てる効果があったのかもしれないと勘繰ってもしまう。

 それほどまでに、圧巻とした演技だった。息つく暇もなく、それが練り上げられたまやかしの現実であることを忘れるくらいに。もしかすると異なる言語体系を通して、自分の中にある真実や本音を包み隠すことなく吐き出そうとしていたのかもしれない。

 ぽっかりと空いた、胸の中の暗闇を。

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最後の傍観者 

 家福は、果たして自分が運転しない車の窓から何を見たのだろう。亡き妻の幻影に対して、最後彼女が自分に告げようとした言葉の真意を探ろうとしたのか、はたまた自分自身の至らなさを責め立てたのか。誰にもわからない。土砂崩れによって、失われたみさきの家族。

 二人は、自分と近しい人たちを「喪失」したという意味では同じ土俵に立っていた。そして両方とも、うまく自分の中にある感情の塊を伝えることなく、相手はいなくなってしまった。宙ぶらりんで、先へと進むことができない状態。

 ジグソーパズルで隣り合ったピースを見つけるかのように、そして異なる磁性体が相対するかのように、二人は自然とお互いを見つけた。彼らの関係性と過去を結ぶものとして機能しているのが、物語の中に散りばめられたメッセージであり、当初ワーニャ伯父さんとして演じることになっていた「高槻」の存在だった。

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 日々暮らしていく中でぽっかりと空いた、心の穴。次第に拡大していく深く暗い穴は、結局他人の心でないと塞ぐことはできないのかもしれない。自分のこれからの生きる末を、もう少し真剣に考えてみようと思った夕方4時の空。車窓から眺める夕日は、ただオレンジに染まって美しく、「綺麗だ」と小さくつぶやいた。

 生きる上で苦しめる、過去の幻影たち。その正体の片鱗を、映画を通してぼんやり掴めたような気がした。

■ 参考図書

かもめ・ワーニャ伯父さん:アントン・チェーホフ

女のいない男たち:村上春樹


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