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西エルサレム、ハイファ、ナザレ、テルアヴィヴ(1948年以前パレスチナ、1948年以降イスラエル) 〜 1983年10月3・4・5・6・7・8日

前説

当時の筆者の日記を読み返すと、現地で会ったイスラエルのユダヤ人(道を教えてくれたりヒッチハイクに応じてくれたりした、老いた人から若い人まで)は、親切な人が多かった。それは書いておきたい。しかし、当然ではあるが、そのことと、いわゆる「パレスチナ問題」、あるいはイスラエルとパレスチナの問題を理解することは、また別の話ではある。

最初にことわっておくと、本投稿のタイトルに書いた 1948年以前「パレスチナ」というのは、厳密に言うと、正式名称としては「委任統治領パレスチナ」(Mandatory Palestine, イギリス委任統治領パレスチナ British Mandate for Palestine: 1920–1948年)、更に言うと、それ以前は、「オスマン帝国」支配下にあった地域ということになる。

つまり、1948年イスラエル「建国」と第一次中東戦争以降のイスラエル(例えば西エルサレム、ハイファ、ナザレ、テルアヴィヴ)と、1967年の第三次中東戦争以降イスラエルが国連安保理決議に違反しながら違法占領している(パレスチナの)東エルサレム・ヨルダン川西岸地区とガザ地区(後者は現在イスラエルが軍事封鎖中)、これらを合わせた地域は、1920年から 1948年まではイギリス委任統治領としての「パレスチナ」で、それ以前は、かつて「オスマントルコ」とも呼んでいた、しかし実態は多民族国家だったので「オスマン帝国」と呼ばれるようになった国の支配下にあった地域で、一方、この地域の「パレスチナ」という名称自体は、遥か昔、紀元前からあったとされているもの。(ウィキペディアによれば)古称は「フル」、さらに「カナン」で、この地域には住んでいたペリシテ人の名から「パレスチナ」という言葉が生まれたという説がある。

前振りはこのくらいにして、筆者は、1983年4月から翌1984年2月にかけてバックパック一つ担いだ海外「貧乏旅行」をしていて、1983年9月28日にヨルダンから陸路パレスチナに入り、陸路と言っても要するに橋を渡ったのだが、つまり、ヨルダン川を渡ってイスラエルが 1967年以降違法占領するパレスチナのヨルダン川西岸地区に入り、イスラエルが違法占領するパレスチナ(東エルサレム・ヨルダン川西岸地区およびガザ地区)とイスラエル国内を 3週間ほど旅した後、10月18日にガザ地区から陸路、エジプト(カイロ)に向かったのだが、

その旅の中で、本投稿のタイトルにある街で撮った写真を、以下に掲載しようと思う。

西エルサレム 〜 1983年10月3日

以下の写真は、筆者が訪れたヤド・ヴァシェム(Yad Vashem, 元のヘブライ語の意味は「ヤド」が「記念碑」、「ヴァ」が「と」つまり and, そしてシェムが「名前」)、展示物の中身に即して言えば、ホロコースト記念館(ホロコースト博物館)の建物のところで撮ったもの。

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同じ日、1983年10月3日には、東エルサレム域内にあるエルサレム旧市街も歩いており、同日撮った計 5枚の写真は、2020年10月3日付の以下のリンク先投稿に掲載した。

現在のイスラエルにおいて、ヤド・ヴァシェムや過去のホロコースト(つまりナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺)とも関わりつつ、イスラエルの違法占領やイスラエルによるパレスチナ人の人権弾圧に反対する声を挙げている、複数のイスラエル人(ユダヤ人)の記事なども、この投稿の中で紹介している。


また、以下の 2020年9月29日付投稿は、1983年9月28日にヨルダンからヨルダン川を渡ってイスラエルが違法占領するパレスチナのヨルダン川西岸地区に入った時のことや、翌 9月29日にエルサレムで撮影した写真などを掲載したもの。


ハイファ、シオニズムアヴェニュー、バルフォアストリート 〜 1983年10月4・5日 

ハイファには、10月4日の朝、エルサレムからバスで行き、2泊した。これは歴史の事実を振り返れば当然のことだが、この街にも 1948年のイスラエル「建国」以前は多くのアラブ人(今で言うところのパレスチナ人)が住んでいた。しかし、イスラエル「建国」により、彼らのうちのかなりの部分が故郷を追われ、難民となった。筆者がたまたま最近知り合ったレバノン在住の日本人女性は現地に住むパレスチナ難民2世と結婚しているが、彼の親は元々はハイファの出身である(彼自身はイスラエルの入国制限により親の故郷ハイファに行くことができない)。

(因みに、たまたま今夜、NHK の BS1 で、22時~22時40分の枠の内の10分ほどと聞いているが、上記の日本人の知人と結婚しているレバノン生まれ、レバノン在住のパレスチナ難民2世のことが紹介される。彼はかつてのレバノン内戦に左派・パレスチナ人兵士として参戦した経験を持つ人だが、近年、内戦当時に敵対した人同士の和解、平和を目指す活動をしていて、その活動が取り上げられる予定である。)

一方で、ハイファには、第一次中東戦争での戦火による災禍に遭いながらも、様々な事情・背景で、少なくともハイファから出ていくことだけは免れ、今も故郷ハイファに住んでいるアラブ人(パレスチナ人)がいる。筆者はその人口やハイファの人口全体に占める比率について詳しい数字を持ち合わせていないが、現在もいるし、当然ながら、筆者がハイファを訪れた37年前の当時も、街でアラブ人(パレスチナ人)を見かけることは決して珍しいことではなかった。

とはいえ、ハイファは 1948年以降はイスラエル領。1983年10月5日付の筆者の日記によれば、同日夕方、特に他意なく市役所近くの庭園(公園)に行ったら、そこにはちょっとした彫刻の記念碑があってヘブライ語で色々と書かれていて(筆者は読めない)、併せて英語とアラビア語で「ハイファ解放 1948」と記されていた。

"Haifa Liberation 1948" にはアラビア語が併記されていて、筆者はアラビア語の数字だけは読めるようにして行ったので 1948 と読むことはでき、したがって察するにアラビア語でも「ハイファ解放 1948」と書かれていたに違いないのだが、これは当然ながら、ハイファに住むアラブ人(パレスチナ人)やレバノン等に難民として逃れ、つまり故郷ハイファを追われたパレスチナ人からしたら、到底受け入れられる文言ではないに違いない。

さて、イスラエルという国の現在の「かたち」は、1947年に当時設立間もなく欧米諸国の強い影響下にあった国連総会で採択された「国連パレスチナ分割案」と、翌1948年5月14日のイスラエルによる一方的な「建国」宣言(彼らは独立宣言と呼んでいる、一方の当事者である当時のイギリス委任統治領パレスチナにおいて人口に関しても土地所有率に関しても圧倒的多数派であったアラブ人 (今日通常言うところのパレスチナ人) の意思が完全に無視されたパレスチナ分割案に基づいていたわけだから、彼らからしたらイスラエルの「建国」が「一方的」であったことは間違いない)と、その直後の第一次中東戦争の結果によって形成されることになったわけだが、その背景には、19世紀末からの「シオニズム」によるユダヤ人のこの地域への移民の動き、何世紀も跨がる長期にわたったヨーロッパにおけるユダヤ人差別(シオニズムによる移民運動の最初の切っ掛けは 1894年にフランスで起きたユダヤ人差別の事件、いわゆる「ドレフュス事件」だったが、歴史的なユダヤ人差別はそれ以前の遥か昔からあったことだ)、そして 20世紀の戦争の時代のナチス・ドイツによるユダヤ人に対する差別・人権弾圧・大量虐殺(ホロコースト)、そしてそれより少し時代が遡ることになるイギリスの三枚舌外交(1915年の中東地域におけるアラブ独立を約束した「フサイン=マクマホン協定」、1916年のフランス・ロシアとの間で締結した中東地域を同三カ国で分割支配することを秘密裏に決めた「サイクス・ピコ協定」、1917年のイギリスの外務大臣アーサー・バルフォアが公にしたシオニズムを支持しパレスチナの域内でユダヤ人の国を作ることの支援を約束した「バルフォア宣言」)などが挙げられる。

ここで何故、前段落のように、長文でざくっとイスラエル「建国」の背景を書いたかというと、筆者の 1983年10月4日付の日記によれば、ハイファで泊った宿の近くには「バルフォア・ストリート」という名の通りがあり、他にも、地図を見ると「シオニズム・アヴェニュー」などという名の通りまであったのだった。これらは当然、今もあるのだろうが、どう考えても、ハイファに今も住むアラブ人(パレスチナ人)の殆どからしたら、そしてもちろん、イスラエル「建国」と直後の戦争の中で難民となってハイファを追われたパレスチナ人からしたら、到底受け入れ難い命名であることは間違いあるまい。

以下の写真は、1983年10月4日にハイファの街でたまたま会い、言葉を交わした、その時の思い出が強烈で今も忘れられない当時ハイファ在住(年齢からしたら今日現在の時点で健在とは思えない)のアラブ人、パレスチナ人の老人の写真。

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この時のことは、昨年、2019年10月5日付の note 投稿のテキスト内で取り上げた。


ナザレ 〜 1983年10月5日 

前章で書いた通り、ハイファには 10月4日と 5日、つごう 2泊したのだが、2日目の 10月5日には、ハイファから日帰りでナザレに行った。

ここナザレはいわゆる「聖母マリア」の故郷であり、彼女が「受胎告知」を受けたとされる地で、また、ベツレヘム Bethlehem で生まれ、エルサレム Jerusalem で生涯を閉じたとされるイエス・キリスト Jesus Christ が少年時代の大半を過ごし、かつ最初の説教を行なったともされている、言わばキリスト教、もっといえば「聖書」ゆかりの地であって、信徒にとっては「聖地」「巡礼の地」のひとつである。

筆者はここで St. Gabriel's Church(「聖母マリア」が水汲みに行った井戸で受胎告知を受けたという伝説、筆者のような非キリスト教徒であり無神論者である人間からしたら「御伽噺」と言い換えてもいいのだが、そういう物語に基づくギリシャ正教の教会)や Mary's Well, つまりその「マリアの井戸」などを観光したのだが、この地はイスラエル領内にありながら、アラブ人(パレスチナ人)が非常に多いところとしても有名だ。

同日の日記に筆者は、「アラブ人はかなり多い。相当なパーセンテージになると思う。むろんユダヤ人も多いだろうが、アラブ人の方がもしかしたらずっと多いのではないか」と書いているのだが、どうやら圧倒的大多数がアラブ人(パレスチナ人)というのが実態であるようだ。

英語版 Wikipedia の記載から拾っておくと、ナザレは北部イスラエルの最大の都市で、"the Arab capital of Israel", 「イスラエルにおけるアラブの首都」として知られる、その人口は 2019年時点で 77,445人、"The inhabitants are predominantly Arab citizens of Israel, of whom 69% are Muslim and 30.9% Christian", つまり「住民は大部分がイスラエルのアラブ系市民であって、その 69% はイスラム教徒、残る 30.9% はキリスト教徒(計算上 0.1% はユダヤ教徒であるユダヤ人なのか、あるいは例えばの話、無神論者とか別の少数派の宗教の信徒なのか、その辺は不明)となっていて、このナザレ旧市街とは別に、2014年の統計で 40,312人の人口を数えるユダヤ人の街 Nof HaGalil が建設されていて(イスラエル「建国」前には無く、「建国」後に作られたということだろう)、そこは以前 Nazareth Illit (意味は "Upper Nazareth") と呼ばれていたが 1974年以降はナザレ市とは別の行政上の市となっている、とのこと。

再び筆者のその日の日記から、該当部分を一字一句そのまま転載すると、「ファラフェル(転載にあたっての注:パレスチナを含む中東地域伝統の食べ物)を食ったところで、アラビア語の新聞を見たので、出るときに店の若い男に Excuse me, Are you arabic? ときくと、彼はけげんそうな顔つきでうなずいた。フィラスティーン(転載にあたっての注:アラビア語で「パレスチナ人」)?ときき返すとニッコリした」。

以下の写真は、ナザレ市街。

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なお、以下の、2019年12月24日付の note 投稿は、1983年9月30日に筆者が訪れた、イスラエルが 1967年の第三次中東戦争以降、国連安保理決議に違反しながら違法占領を続けているパレスチナのヨルダン川西岸地区にあるベツレヘムで訪問し、撮影したキリスト教の教会(聖誕教会または降誕教会, Church of the Nativity)の写真を掲載しつつ、イスラエルとパレスチナの問題の「今」について書いたもの。


テルアヴィヴ 〜 1983年10月6・7・8日 

10月6日の朝、ハイファの宿を出て、バスでテルアヴィヴ Tel Aviv に向かい、テルアヴィヴには 3泊して、10月9日の朝に泊っていたユースホステルを出て、バスでエルサレムに戻った(エルサレムには、9月28日にパレスチナ・ヨルダン川西岸地区に入ってから 10月4日にハイファに移動するまで 6泊していた、その最初の 6日間はエルサレムを拠点に、東西エルサレム、ベツレヘム、廃墟となっていたジェリコのパレスチナ難民キャンプ、マサダと死海などを観て回っていた)。

以下には、テルアヴィヴで撮影した写真 5枚を掲載する。筆者は 10月7日、たまたまその日、イスラエルが違法占領するパレスチナのガザ地区から来ていたパレスチナ人一家と会い、親しくなって懇談した。これは悲しいことに、現在では起き得ないことである。

何故なら、その後、筆者が訪れた当時のガザ地区はイスラエルの軍事占領下にあり、夜間外出禁止令なども出ていたが、現在のようなイスラエルによる軍事封鎖は行なわれておらず(イスラエルは現在まで 14年間にわたってガザ地区のパレスチナ人の同地区からの出入りや物資の出し入れを厳しく制限するというジュネーヴ条約に抵触する封鎖政策を採っている)、ガザ地区のパレスチナ人がイスラエル領のテルアヴィヴに出て来ることは可能だったのである。

彼らが語った話の中身は、当時、パレスチナやイスラエル国内で知り合った他のパレスチナ人たちとの会話同様、興味深く、刺激的な内容だった。「ここ(テルアヴィヴ)はイスラエルではない。パレスチナだ」と語る人もいれば、皮肉を込めて、「ここ(テルアヴィヴ)はイスラエルでなくアメリカだ」という表現をした人もいた。

2020年の今現在、アメリカ合州国(以下、アメリカ)はイスラエルに対して 1日当たりにして(1日当たり、ですよ!!)10~11 million US dollars, つまり 1日当たりにして 11億円程度の軍事援助をしていて(年間 38億ドル、つまりは約4,000億円)、しかもこれは共和党トランプ政権でなく民主党オバマ政権の時代に決められた向こう10年間の援助協定によるものなのだが、こうしたことに象徴的に見られるように、そして忘れてはいけないのは、国連安保理でイスラエル非難決議が何度されようとしても、その殆どのケースで 5カ国の常任理事国の一つであるアメリカが拒否権を発動し、その決議案を無効にしていることなどを踏まえても、要するにアメリカは一方的にイスラエルに肩入れし続けているわけで、それは何も今に始まったことでなく、イスラエル「建国」(1948年)の根拠となる1947年の「国連パレスチナ分割案」時代からずっと続いていることであった。

当然、筆者がパレスチナとイスラエルを旅した 1983年当時もそれは同じで、当時会ったパレスチナ人たちが「ここはイスラエルでなくアメリカだ」と言いたかった気持ちは、その意味で至極当然なものであったと言っていいだろうと思う。

以下、最初の 3枚はちょうど 37年前の今日、1983年10月7日撮影、同日たまたまイスラエル占領下のパレスチナ・ガザ地区からイスラエルのテルアヴィヴに来ていたパレスチナ人たちの写真で、次の 2枚は 10月8日撮影、4枚目が公園で遠目に撮ったイスラエル人(ユダヤ人)家族の写真、最後の 5枚目は、テルアヴィヴ在住のイスラエルの市民権を持つアラブ人(パレスチナ人)の写真である。

なお、3枚目の写真の下に、昨年10月9日付の投稿へのリンクを付ける(自分自身の覚書、備忘録を兼ねて)。

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真ん中は当時23歳の筆者。テルアヴィヴで知り合った、ガザ地区から来ていたパレスチナ人たちと記念写真を撮ったもの。


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ガザ地区から来ていた、パレスチナ人一家。子供たちが本当に可愛らしい。写真に写っている子供たちは今 40歳から 40代半ばぐらいの大人になっていることになるが、今も元気であってほしい。


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同上。どうかどうか、彼らのその後の身に、不幸がなかったことを祈りたい(筆者は「神」の存在など信じないので、せいぜい宇宙か地球上の其処彼処に存在しているのだろう、「神」なるものとは全く違う、何というか物理的な意味で「偉大な」力、にでも祈るしかないのだが)。

残り 2枚を掲載する前に、以下、昨年、2019年10月9日付の note 投稿へのリンク。


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「安住の地」になるはずだったイスラエル、テルアヴィヴの公園で、「平和な」休日のひとときを過ごすイスラエル人、ユダヤ人の家族連れ。もっと近づいて撮ればいい写真になっただろうが、その前日、そんな類の写真を撮ろうと、孫と思われる子供たちと楽しそうに過ごしているイスラエル人、ユダヤ人の老夫婦の様子を写真に撮ろうとして本人の許可を求めて断られた経験があり、それはそれで当たり前の心情かもしれないなぁと当時思ったので、この日は最初から遠慮して、遠くから撮影した。当然ながら、彼らのその後も、平和な日々であったと思いたい。


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1948年のイスラエル「建国」と直後の第一次中東戦争によって 80万人規模のパレスチナ人が難民となって故郷を追われたのだが(我々が理解する必要があるのは、それだけでなく、その後も、残るパレスチナの地の中の東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区に多くのイスラエル人・ユダヤ人の入植地が建設され、パレスチナ人の土地はイスラエルに侵食され続けているということ)、色々な事情・背景や好運が重なって(それが本当に「好運」だったのかどうか、そこは難しいところだが)イスラエル領となった域内に残ったパレスチナ人とその次世代のパレスチナ人たちが、テルアヴィヴを始めとするイスラエル国内に住んでいる。もちろん、筆者がこのテルアヴィヴを訪れた当時も、そこでテルアヴィヴ在住のアラブ人(パレスチナ人)と会い、彼らと話をすることは容易なことだった。

当時の筆者の日記を読み返すと書かれていて記憶も鮮明に蘇ってくるのだが、話をした中には、周囲に聞こえないように気をつけた小さな声ながら、筆者に対して、「ここはイスラエルではない。フィラスティーン(アラビア語の「パレスチナ」)だ。イスラエルとアメリカが乗っ取っているんだ」とハッキリ語る、イスラエル市民権を持つアラブ人(パレスチナ人)もいた。要するに、上に書いた、ガザ地区からテルアヴィヴに来ていたパレスチナ人が語ったことと、かなり共通する内容のことを語っていたことになる。

今日の投稿タイトルのもとでの主題に関してはこれで終わりとするが、次の章では、イスラエル・パレスチナの問題に絡み、明らかに問題や疑問点を孕む言動がありながら、ほぼ全てのマスメディアや、自称「リベラル」の人たちの多くが、決して批判しようとしない 3人の著名人について、筆者が書いた過去の note 投稿を、あらためて紹介しておきたい。


付録: イスラエル・パレスチナ問題に絡み、マスメディアもしくは「リベラル」な人たちが決して批判しようとしない 3人の著名人 〜 ボブ・ディラン、ユヴァル・ノア・ハラリ、ルース・ベイダー・ギンズバーグ

以下は、上記の見出しタイトルを読んで字の如し。

1) ボブ・ディラン(投稿、3点)


2) ユヴァル・ノア・ハラリ(投稿、4点)


3) ルース・ベイダー・ギンズバーグ 


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