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【書評】李 琴峰『五つ数えれば三日月が』

来日後たった3年の台湾出身作家が詩情あふれる日本語で書いた小説。

そういう見方が、好きじゃない。

李琴峰のデビュー作『独り舞』は、残念ながらそのような評価が先行していたように思う。

外国を出自として同性愛を公言する若い女性が書く小説も、純ジャパニーズでヘテロセクシュアルの中年男が書く小説も、本来は等しいはず。

まず小説を読んでみたら、素晴らしかった。とくに詩情あふれる日本語が胸を打つ。作者のプロフィールを見たら、なんと台湾出身で、日本語を学び始めてからも日が浅いので驚く。李琴峰は、そういう評価を受ける作家であればいいのになと思う。

2023年現在、李琴峰といえば、芥川賞作家である。賞モノには興味がない。むしろ、彼女の作品と日本語、そして言葉の「姿」が、どのように進化していくのか。そこに興味を抱いて、単行本としては2冊目となる『五つ数えれば三日月が』を読んでみた。

物語は、同じ大学院で学んだ台湾出身の妤梅ユーメイと日本人の実桜みおが5年ぶりに再会した真夏の一日を描く。

台湾の大学を卒業し、日本語教育学を学ぶために来日した妤梅は、修了後に日本の銀行に就職し、投資信託を販売する営業をしている。中国本土に留学経験がある実桜は、妤梅と出会ったことで台湾に興味を持つ。修了後は渡台し日本語教師になり、連れ子のいる男性と結婚している。

そんな二人が5年ぶりに東京で再会する。中華料理を楽しみながら、それぞれの5年間を伝え合い、それぞれの幼い頃も含めて回想する。妤梅はずっと実桜が好きだった。それを伝えたい、でも踏み切れない。そんな揺れ動く心をにじませながら、妤梅は日本にいることに、実桜は台湾に渡ったことに、それぞれ疑問を抱きつつ、身動きの取れない現状を噛みしめる。

全編にわたって自殺願望で黒く塗りつぶした前作『独り舞』とは大きく変わり、妤梅と実桜の表情がそれぞれ見える。とくに実桜は、日本人としての自分、学部時代に留学していた中国本土の影響を強く受けている自分、台湾の大家族のなかで妻や嫁、母として生きている自分という多層性に戸惑う心が丁寧に描かれていて、作中人物としては申し分ない。

ただ、5年ぶりに再会した二人の物語のはずなのに、二人の関係性がほとんど描かれていない。大学院時代の二人はどう結びついていたのか。妤梅は実桜に恋心を抱いているが、実桜は妤梅をどう考えているのか。態度にも言葉にも現さないから、「素っ気なさ」が二人の関係性なのか。すれ違いとはまた異なる。妤梅も実桜もそれぞれ丹念に描けているだけに、もったいなく感じる。

文章は相変わらず端正な日本語が散りばめられている。妤梅が実桜に詠む漢詩も見事だ。詩情あふれた文体は好感が持てるが、ちょっと描写過多かなという印象も抱く。二人が食する羊肉泡馍ヤンローパウモーが詳しく描かれているが、物語を前進させているとは思えない。これでは「来日後たった5年の台湾出身作家が日本語で書いた小説」だから芥川賞候補になったのだと言われてしまっても、反論できない。

併録されている『セイナイト』のほうが、李琴峰の自画像として興味深い。

東京・新宿二丁目のレズビアンバーで出会った、美大生の絵舞と台湾から来日して3か月の「つき」。クリスマスの夜にひたすらデッサンをするイベントで、絵舞が描いている様子を見ながら、絵をかかない「つき」が、二人の関係性をはじめ、日本語と中国語の受け止め方、思考の差異をつぶやいたり、言葉にならない想いの伝え方があるのかどうか自問自答したりする。

すべての表現が、告白であり、自画像である。先日教えてもらった言葉が、ぴたりとあてはまる。小説というより、李琴峰の言語論として、まだ見ぬ世界を示してもらった気分だ。小説を読む楽しみは、感情移入だけではない。知識を得たいわけでもない。作中人物の魅力も、物語の筋も、文体も、自分がまだ知らない、見たこともない世界があるからこそ驚き、嬉しいし、また読みたくなる。

台湾という出自も、若い女性ということも、同性愛ということも、自分にはない世界だからこそ、引きつけられる。そのうえで、日本人作家の文章と区別がつかない、むしろ最近では忘れられた「姿」をもった言葉で書かれているならば、なおさら読みたい。それも李琴峰の自画像であるはず。『独り舞』も『五つ数えれば三日月が』に対しても厳しい評価をしているが、期待しながら全作品を読んでいくつもりである。

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