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同じ書物を読む人は遠くにいることを知る——岡崎京子「万事快調」、向田邦子「胡桃の部屋」

拝啓

向暑のころとは思えない朝夕の気温差と、1日ごとの寒暖差です。それでも我が家の庭ではコンペイトウという淡い青の紫陽花が咲き始めました。梅雨が近づいていますね。

あなたと「同じ書物を読む人は遠くにいる」という言葉で通じ合えたことで、小躍りしたい気分になりました。それが、さらなる胸の弾みにつながったのは、あなたが岡崎京子『pink』を紹介していたことでした。岡崎京子の作品では、『リバーズ・エッジ』も『ヘルタースケルター』もいいのですが、迷う気持ちを振りはらい、敢えて最も好きなものを選ぶとすれば『Pink』なのです。残念ながら『ROCK』は未読です。ああ、また岡崎京子熱が再燃してきた。

あくまでも、このなかから選んだのが『pink』です

さらに目にとまったのは、向田邦子についての言及です。そこで突然、眼の前がパッと開けたように明るくなった気がしました。もしかしてと岡崎京子『UNTITLED』を手に取りました。そう、これに収録されている「万事快調」は、まるで向田邦子の小説のようです。岡崎京子は当時のインタビューで、小津安二郎の映画について幾度か触れているのですが、「万事快調」は小津映画ではない、向田邦子に近い。久しぶりに読んでみて、その思いを深めました。

「万事快調」(『UNTITLED』所収)

岡崎京子「万事快調」は、母親は8年前に若い男と家を出て、父親は4年前に死別し、認知症の祖父を抱える長女ゆきこ、次女みちこ、長男たかしという三姉弟の物語です。家族を支えるしっかり者のゆきこが、断った見合い相手と逢瀬を重ねる第一話。家族にも恋愛にも奔放なみちこがストーカーにつきまとわれる第二話。家計を支えることのない大学生たかしが未熟な欲望と後ろめたさから山に登る第三話。三姉弟それぞれの視点から語られているのも、連作の短篇小説のようです。

はじめて「万事快調」を読んだときには何も気づきませんでしたが、向田邦子の短篇に、似た話があるのです。それはテレビドラマにもなった「胡桃くるみの部屋」です。

「胡桃の部屋」『新版 向田邦子全集 第3巻』所収。ほかには文春文庫『隣りの女』所収

ある日、地味なサラリーマンだった父親が失踪。三十路の長女・桃子が捜していくと、実は父親の会社はすでに倒産していたのに加え、おでん屋を営む中年の女のところへ逃げ込んだことが分かります。残された母と妹弟を支えようとする桃子は、自分を犠牲にしながら父親の役割を果たすことでむしろ自信を得たり、相談を口実に父親の部下だった妻子持ちの男性と定期的に会ってほのかな恋心を抱いたり、一つひとつの行動に余計な力が入り始めます。ただ、大学生の弟が家を出ていくことがきっかけで、自分が独り相撲をとっていることにようやく気づくのです。

「万事快調」と「胡桃の部屋」は、いずれも三姉弟の長女が父親代わりに家庭を支えているホームドラマだという点で思い出したのも事実です。しかし、そんな設定にとどまらない強い印象を抱いたのは、それぞれの登場人物が家族の幸せを考えれば考えるほど、自分自身が孤独になっていく人間の姿が描かれているところでしょうか。

向田邦子の小説は、ちょっと情けない男が必ず出てきます。そんな男の弱さと憎めなさを描くのが得意でした。教科書にも載っていた「父の詫び状」や「字のない葉書」などの随筆で描かれる父親が筆頭です。「胡桃の部屋」でも父親はちょっとダメな男です。その父親の代わりを演じる桃子も、どこか抜けている。

岡崎京子の漫画は、落ちていく、壊れていく女の子、女性が出てきます。『ヘルタースケルター』の主人公りりこが筆頭です。弱さや健気けなげさとはちょっと違います。強がりでは隠せないもろさでしょうか。

そして、平凡で、何の代わり映えもしない日常で、いつもと何ら変わらない表情のうらに、男の弱さや女のもろさがじわりと滲みます。昨日と同じような今日を送り、今日と同じような明日を迎えるなかで、顔に表わさない哀しみや淋しさを読み手にそれとなく示すのです。

アラサーやアラフォーといった年代を表わす言葉、おじさん構文の「おじさん」、そんなのは「昭和」だ!といった言い方。大雑把に、乱暴に、相手をひと括りにする「大文字」の言葉と圧力がだんだんと目立つ現在。すでに古さを感じる時代の、ありきたりな暮らしを送るありきたりな人々の、一人ひとりの細やかな心のひだを見つめ、でてくれるような物語に、たまらなく惹かれます。

語り得なかった言葉は何か。描き得なかった絵を、どのように観るか。現代文や美術の試験ではないので、正解はありません。ただ、自分の心から湧き上がる思いがある。それを表わすのにふさわしい言葉や表現がなくて、もどかしく、じれったいかもしれない。苦し紛れの妥協であったとしても、自分だけの言葉や文章を紡いだとき、はじめて「読んだ」という実感が得られます。それと同じもどかしさを抱きながら、同じ本を「読む」人がいるのだと信じるならば、読書は決して孤独な営みではなくなります。

岡崎京子と向田邦子を読む人と出会えて、本当によかった。

今回の「手紙」は、あなたにプレッシャーをかけぬよう、あえて便箋に書きませんでした。手書きでなくとも、想いが伝われば、立派な「手紙」です。

『ROCK』、すでに古書店へ注文しました。早く読んでみたいです。

あなたの手紙、お待ちしています。

敬具

既視の海

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