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3.16ワールド

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ヨハネの福音書3章16節、永遠の命を思いめぐらせるワールド
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ヨハネ福音書3章16節

聖書の全体を、一節で代表させるとこの句。ということで、創世記1章1節の次に暗唱したほうがいいことば、かもしれません。 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 それで、この一節から思う事々を書いたものをまとめたのがここのマガジンですが、ちょっと一覧を作ってみました。

キリストの救い:神と共に歩む人生

聖書の神、って、ひとことで言えばどんなん? さすがにひとことでは言い尽くせませんが、聖書の全体を一句に凝縮しているようなことばが、ヨハネ福音書3章16節。その日本語口語訳が下。 ヨハネによる福音書 3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 (1)永遠の命を得る聖書の中の聖書といわれるこの一節が伝えている「聖書の目的」は、「永遠の命を得るため」です。 聖書を知らなかった頃、

生きる意味って?

私たちは、生きている意味とか目的とか、あるいは、自分はどこに向かっているのか、というようなことを、時々考えるものです。私自身、還暦を過ぎ、友人たちの中から訃報が届くようになってきて、人生の終わりのことを思い巡らせることが増えてきました。今、流行している病のただ中で、やはり頭によぎることは自分の終わりのことです。 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3章16節 進化論の中に埋もれ

神は世を愛して下さった。では私も?

 「愛」というのは、とても個人的な出来事です。他の人に代わってもらうことはできません。もちろん、代わってもらいたいとも思わないでしょう。  旧約聖書の創世記に登場するレアはヤコブの第一夫人でしたが、彼女は夫から愛されているとは感じられませんでした。そして、愛されたいと努め、戦ったのです(創世記29:30-32)。彼女が追い求めていた「愛」とは、何だったのでしょうか。身体的なものではなく、精神的なものでした。6人の子供を産んでも、彼女は決して満足できなかったのですから(創世記

この世を愛して御子の命を与える神

神が愛している「この世」は神の「命」を全く失っている…かのような口ぶりです。この世には永遠の命、つまり神の命が与えられなければならないのですから。 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3:16 インドネシアの市場で鶏肉や豚肉を買う場合、鶏はかごに入ってまだ生きているのをその場で処理してもらって買ってくることになります。豚はさすがにそこで屠殺ということはないですが、半分に切り開か

御子を賜った

神はこの世を愛してくださって、この世に神のひとり子を「賜った」、とあります。 原語は単純に「与える」という意味の言葉ですが、単純な言葉である分、様々なところで使用されているこの言葉は、文脈・状況に応じて日本語訳はいろいろな言い回しになっています。その一つが、「ささげる」。「犠牲をささげるため」(ルカ2:24)と訳されている言葉です。イエス・キリストは、神がこの世を愛した結果、犠牲としてささげられたのです。十字架での死が、それでした。 神はそのひとり子を賜わったほどに、この

滅びないため

御子を賜ったのは「滅びない」ため、と言われます。 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3章16節 滅びる、という言葉はかなり耳障りな感じがします。現実に死後の出来事に対する恐れが、日本でも昔から地獄絵図のようなもので語り伝えられているように、民族を超えてすべての人間に共通な問題だと言えます。つまり、人間は死んだあとに神のさばきを受けて、そこで罪があると定められたなら、「滅びる」

神のひとり子を信じる

新約聖書の時代、イエス・キリストが生まれて活躍したのはユダヤ人地域。十字架にかけられた時には、「ユダヤ人の王」と書かれた板が十字架に打ち付けられていました。もともと、ユダヤ人が「神のひとり子を信じる」とは、どういうことだったのでしょうか。 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3章16節 A.「あの」ダビデの子新約聖書を開くと最初に目に入るのは、「アブラハムの子であるダビデの子、

信じる者がひとりも...

「信じる」ということは、自明のことのようで、案外とうやむやなところがあります。特に、「宗教」ということで身構えてしまうと、それこそ、信じられないという気分に。 インドネシアで生活していると、簡単に人を信じるように見えて、でもあまり期待していないような態度を感じることがあります。民族・文化の違いのためかもしれませんが。信じるとはどういうことなのか、特に、神を信じるとは、と、考え直さないとと思わされます。 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を

キリストの愛の口約束

愛の口約束。そこに「永遠の愛の」とすると、今どきこれ以上に信じられない、ありえないものになってしまうでしょうか。行動が伴わない、それこそ単なる「口だけ」の約束なら、確かにそうです。 永遠の神の、永遠の愛の、口約束。なぜ「口約束」かといえば、キリスト本人がサインをした「契約書」、本人が書きとどめた「書物」がないからです。結婚の誓い、あるいは「キリストの教え」のような自筆の本はありません。 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとり

愛する人との再会ののぞみ

人生最後の、最大ののぞみは、やはり「天国」に尽きるでしょうか。死の報に接するとき、やはりつらい思いがでてきます。それが永遠の別れだとしたら、諦めか、そういうものだと悟ったふうに思うかしない限り、その人への思いは残ります。死別のつらさを味わいたくない。 誰も彼方から確かな証拠を持って帰ってきた人は身の回りにいませんから、普通は、天国について語るのも、いわば淡い望み、あってくれたらいいなー、というところかもしれません。でも、本当にあってほしい。それが、愛する人を失った時の、心か