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【藤原定家の字】本気とオフの落差 明月記の人間味 「かづらき」フォントは定家の書にヒント

東京国立博物館の特集展示(藤原定家「明月記とその書」2023/6/27 (火) ~8/6(日))へ行き、「ヘタウマ」と呼ばれていることを初めて知った。たまたま今まで、藤原定家の比較的綺麗に見える字を目にしてきていたのだった。明月記の原本はまさに私的な日記らしく「日常・人間味」が感じられるオフモード感あふれる字体だった 笑 

悪筆あくひつ(字が下手)能筆のうひつ(字が上手)という単語も知り、

今回の展示のような「オフモード」の字
フォントになった「本気モード」の字
定家の字の違いを見る楽しみが増えた

鎌倉殿の13人
和歌の藤原定家師匠から源実朝にお手紙が届いたシーン
(中央)源仲章が手紙を渡すところ。
師匠から実朝の和歌に対する添削が書いてある
(左)実朝の目が喜びでキラキラになっている

定家の字、さぞや達筆と想像していたけれど
ヘタウマで書かれていたら最高に面白い
明月記が書かれた時代は
大河ドラマ「平清盛」「鎌倉殿の13人」の頃なので
人間関係や出来事が分かって面白い

定家の字はそれ自体が面白いし、
明月記を調べていくと興味深い情報が満載過ぎる
藤原定家の関連情報と、書の面白さについてまとめ


■定家【オフ】モードの字

特集展示 明月記

東京国立博物館 特集展示 明月記の全体
奥に見える二つ目の柱までのスペースで展示
 ←明月記 巻物以外の書  明月記 巻物(中央の展示ケース)→

□明月記(重要文化財)藤原定家筆

明月記 嘉禄元年(1225年)秋・同三年夏
東博説明)定家66歳 晩年に差し掛かっている頃
後鳥羽院が敗れた承久の乱から4年余りが経ち、
同時代を生きた人々の死に関する記事が目を引きます 

ヘタウマはこれですか、と納得のクセ!
ひとまず展示されていた明月記は写真を撮ってきた
全部内容知りたい
会期中、展示替え(巻き替え)がありこれは後期のもの

藤原定家―『明月記』とその書―
東博HPに掲載の解説文

興味深い内容
リンク
鎌倉殿の13人 視聴者として見逃せない説明
『北条政子が死去した情報を入手。
定家の子為家の妻が、 北条時政の孫娘だったため、  
その為家の妻の母から届いた一報』
2023年8月4日愛子さまプライベートで特集展示明月記を訪問

学習院大学文学部日本語日本文学科の4年生で、
来年春の卒業を控えて卒業論文に取り組まれているという

五島美術館の西行展最終日に2時間20分滞在されていた
という熱意に感服していたら、東博来訪のニュース
これほど古典を愛されている姿勢が単純に嬉しい


ふと、もはやホームなのではの宮内庁三の丸尚蔵館へ
「ちょっと行ってきまーす」感覚で
日頃からご覧になって研究されていたりするのかなぁ





□明月記 西行との手紙裏面を再利用!

重要文化財 藤原家書状并円勘返状 藤原定家筆・円某筆
 平安~鎌倉時代 12世紀
京都・冷泉家時雨亭文庫蔵
-五島美術館 西行展-

画像は紙背文書シハイモンジョと呼ばれるもの
<<<この裏側を再利用して明月記が書いてある>>>


▼先に書かれた文書
(裏)藤原家書状并円勘返状
定家と西行の手紙 往復書簡の方式で、
定家が書いた文書の余白に西行が返事を書いているもの。
両者走り書きなうえに定家と西行の字が入り混じり、
現状書かれている内容が判読できないらしい
※文末の署名「圓」が西行の法名「円位」と推定されている

▼後に書かれた文書
(表)明月記  

等間隔で綺麗に書いたら読みやすいだろうに、
どうしてこのカオス文書に 笑
何往復もしていたりして、こうなったのだろうか
2人はちゃんと読めたのか気になる


■定家【本気】モードの字

□(子)為家(父)定家(祖父)俊成 三代の古書切

  二条家三卿之芳翰 平安〜鎌倉時代 
東京国立博物館所蔵

左から 拾遺集切(子 ) 伝 藤原為家  
   後撰集切 (父) 伝 藤原定家  
 日野切 (祖父) 藤原俊成
異なる古書切を一枚の掛け軸にしているので字の違いがわかる
これを並べて貼り付けようと思った方、ナイス!
日野切は枯れ枝を折ったような鋭く直線的な字

中央の定家の字は、伝 定家なので絶対に本人筆とは限らないが
「オフモード」の明月記とも、
「超本気モード」のものとも違う字体

そんなわけでこのレベルを「本気モード」とする



■定家【超本気】モードの字

今回の明月記特集展示以外のお気に入りを並べる
名誉挽回 (?!)ヘタウマ知るまで定家の字はこれらのイメージだった
縦横の長さが同じ正方形の「枡形本」と呼ばれる形式の長期保存用と思われる冊子に書く時は本気の度合いが違う美しさ。

本気出せば ”綺麗に書ける” という認識でいたけれど、
調べていくと、場合によってはちょっと注意が必要なこともある模様

定家には、右筆(祐筆)ゆうひつと呼ばれる文書作成担当者がいて、定家の書風である定家様ていかようを使いこなして似せて書写しているものもあるという
「定家筆」が絶対に定家自筆とは限らないのだ 

※右筆が書いた文書は、定家監督下指示のもとで定家の文書を清書しているものなので、”定家本人の文書”には変わりない

□拾遺愚草(国宝) 藤原定家筆

冷泉家時雨亭文庫蔵
-五島美術館 西行展 展示-

「建久元年二月十六日、西行上人身まかりにける。 をはりみたれさりけるよしきゝ 三位中将 (藤原公衡)のもとへ」 「望月のころはたかはぬそらなれときえけんくものゆくゑかな しな」と詠み、続いて 「上人先年詠会、 ねかはくは花のしたに てはるしなんそのきさらぎのもち月のころ、 今年十六日望日也」

訳) お釈迦様の入滅した望月のころに 死にたいとかつて詠われたとおり 如月の望月に煙になって空に還られてしまった 煙が雲になって遠くへ行ってしまった... 悲しいことに... と、
感慨深く記している

定家が西行の死を嘆いている歴史的な内容


<<<今回の東博特集展示 明月記に足を運ぶきっかけ >>>

五島美術館の西行展は西行の書を目当てに行ったのだが、
一緒に展示されていたこの拾遺愚草の藤原定家の字を見て、
初めて「字」に一目ぼれ
西行は本人筆と断定できない「伝 西行」が多く、
紙も墨もそれほどいいものを使っていないため、
かすれてたり不鮮明だったり。一方、定家は公家なので、
良い墨と紙を使い、良い環境でしっかり保存され
後世に伝わり、西行の書状と比べると「墨汁、潤沢使い~!」とびっくりするほど濃い。 西行のものとの対比が面白かった 笑


□土佐日記写本(国宝) 藤原定家筆

国宝 土佐日記
文暦2年(1235年)土佐日記の現存最古の写本
藤原定家 74歳

NHK知恵泉 「紀貫之」 回で紹介されていて、この字好き!
貫之ってこういう字なの?と思って調べたら
原本ではなく藤原定家の写本だった  

拾遺愚草を見過ぎたために字のクセが脳内インプットされ、
定家様ていかようの字だと感知していた模様

「土佐日記」 紀貫之の原本は現存していない
日記の誕生から300年後にあたる1235年当時、
原本が三十三間堂の宝蔵にあり、体調が万全でない中
定家は大興奮で2日間で写本したという。
背景を知ると愛おしい写本
古今集和歌集撰者の紀貫之と、
新古今和歌集撰者の藤原定家をつなぐ話

三十三間堂の蔵ということは当時、平家や天皇家の方々が
土佐日記の原本見ていたのかも?!と思いを馳せてしまう

□更級日記写本(国宝)藤原定家筆

「更級日記」国宝(皇居三の丸尚蔵館)藤原定家筆
定家70歳頃に書写した更級日記は
平安貴族の菅原孝標女が自身の人生を回想した日記文学
作者原本は現存せず定家の写本が最古

2024年5月12日まで展示中
三の丸尚蔵館で研究員さんのとても詳しい解説聞いてきました


□後撰和歌集(国宝) 藤原定家筆

後撰和歌集の写本(1234年)藤原定家筆

後撰和歌集は、古今和歌集に続き
天皇の命により編纂された二番目の勅撰和歌集

ちょうど承久の乱が始まった頃、定家は院勘中で乱に加わらず
承久2年(1220年)2月に行われた内裏歌合に
不満をのせた和歌を持参し、後鳥羽上皇の逆鱗に触れ
院から咎めを受ける)

和歌の世界での公的活動を封じられてしまっていた時期であり、
後撰和歌集を書写していた。写本の奥書に
官軍も幕府軍も滅亡するのではないかと不安を綴っている

※この定家が受けた院勘とは、
伊豆に流罪になった頼朝も院勘の身だったほど重い処分


◼️現代まで受け継がれてきた書風「定家様」

定家の直筆は定家様ていかようとして現代まで受け継がれてきた
異色の書体
定家は筆に墨をたっぷり含ませ線の細太の差を大きく、横画を平行に、一字一字はっきり文字を書いた
 ※平安貴族の多くが文字を連綿とつなげる
 流麗な書風を好んだ中で異色

まねしやすい
定家は膨大な歌集や歌論書を書き写す作業をへて、
写本を作る際の写し間違いを防ぐ工夫として
この字体を考えたため、まねしやすい

本人は悪筆と思っていたけれど流行
定家本人は自分の字を悪筆と思っていが、後の時代に定家様は人気を博し、特に江戸時代は茶人の間で流行した。徳川家康も書道の手本にしたという

 

■ 「かづらき」 フォント 定家の字がベース

かづらき SP2N フォント

初めて定家の字を見たのが拾遺愚草(国宝)で、
初めてなのにどこかで見たことあるような気がしていた。
後で知った「かづらき」 フォントは
定家の字をヒントにしたという

なるほど、このフォント見たことがあったのだ。
フォントにしたくなるようなデザイン性のある字に
惹かれていたのだと理由が判明


◼️尾形乾山 焼き物の「字」定家様?!

時を経て思い出した
左)拾遺愚草 藤原定家筆 冷泉家時雨亭文庫
 右) 色絵十二ケ月歌絵皿 尾形乾山 MOA美術館
この字好きの既視感は乾山の焼き物の字を見たことだったかも
乾山、定家様の使い手だったのか?気になる
乾山のデザインとこの書体の親和性高い
レプリカ売ってる欲しいリンク


◼️必ずしも歴史的価値=上手いではない

藤原定家筆 消息(十月八日)国宝 (1211年)

やっぱり国宝となるものは本気モード?と思いきや、
明月記(国宝)と同じくオフモードで書かれている
国宝認定されているのがじわじわくる内容

<<<定家父さん 息子のミスはそちらのせいです!とオコ>>>

定家50歳、息子為家14歳の出来事
大臣任命の参内に規定の装束を着てこなかった為家について、
後鳥羽上皇からしきたりに詳しい定家に、 
「どうしてこうなった?!」と部下経由で問いあわせがあり、
定家が返事をしたもの

「(事前に自分が息子に指示した内容を記し)
息子のミスは認めますが、まだ14歳の子供ですし、
儀式が急に日程変更になって応じきれなかったんです。 
こちらが文句言いたいくらいですよ!」と。書いている。
※明月記にも記載がある話

後に、息子の為家は定家が絶賛するほど
早い出世を遂げる逸材になるのもアツい




■藤原定家本・源氏物語 2019年新たに発見

源氏物語定家本「若紫」 鎌倉時代
・注釈の小さい「あり」が定家の字
このページについては定家風の字ではあるけれど、
注釈以外は本人ではない筆跡

定家本・源氏物語は現存 4巻だったところ、
新たに5巻目「若紫」 が見つかる。
今でもこういった発見があるなんて驚き!

定家本というからには定家直筆と思ってしまっていたが、
写本作業の大半は定家に仕える右筆や女性らがあたったとされ、
注釈部分は身分の高いものだけが使用できる青い墨で書かれた
定家によるものだと調べて分かった

他のページに定家のフリーダム字体が紛れているのか、
それとも本気モードなのか見てみたい 笑



■垣間見られる藤原定家の人間味

字のオンとオフの差が大きいということに垣間見られる
愛くるしい要素がたくさん


①和歌の名人定家も西行大先輩には敵わない

西行「定家さん早くして下さい」

円位書状】西行筆  宮内庁三の丸尚蔵館
1188〜1189年(文治4〜5年)
-五島美術館 西行展で展示-
貴重な西行真筆 最晩年の71〜72歳頃の筆跡
同時代の書状には類例の無い散らし書きとのこと

西行から藤原俊成宛に書かれたものと思われる書状
訳)「俊成殿はすぐ歌合いの判定の返事をくださったのに、
息子の定家殿、遅いです。
早く返事下さいと、定家殿によくよく伝えて下さい」
と西行からの強めの督促

俊成、定家父子と西行の縁は深く、
藤原俊成は西行より年上で、西行とは旧知の友の間柄
俊成は、【御裳濯川歌合】みもすそがわうたあわせ
西行の歌合判定担当者となり、
自分の寿命を考慮したためかすぐに判定して返したが、

定家は同時期に西行から【宮河歌合】みやがわうたあわせの判者を頼まれたたものの
2年以上経ってやっと西行に判定を返し、
文治5年(1189年)病床の西行に届けられた

歌合いの名前は伊勢神宮の川の名前で、
「御裳濯川」は伊勢神宮内宮の五十鈴川の別名、
「宮河」は伊勢神宮外宮を流れる川、
西行が伊勢神宮に奉納すべく編んだ歌合
晩年が近い時期だからこそ必死で督促


そして定家の返事が遅れた理由はこちら ↓


定家「西行先輩の和歌の判定容易じゃないです」

宮河歌合 飛鳥井雅綱筆 室町時代 中央大学図書館蔵
巻末部分
-五島美術館 西行展で展示-
※宮河とは伊勢神宮外宮を流れる川

藤原定家は西行の歌合いの判定者
「30歳にも満たない官位も低い自分が判者を務めるのは
おそれおおく時間がかかってしまった」
と遅れた理由が記載されている

西行は72歳頃、定家は28歳頃のことで
44歳も年上の西行からの依頼に戸惑っていたのだ
後の大歌人の定家にもこういった時期があり、
督促を聞いて「ま、まずい・・・・」と思っていたであろう
ことを想像するだけで面白い




②定家 疲れがち(窮屈=疲れた)

明月記断簡 建曆元年七月二十五日 藤原定家筆 
東京国立博物館蔵
特集展示 明月記
1211年 定家50歳

(東博説明)
定家は日記によく「窮屈」(疲れた)と書いているものの
疲労で寝込んだこの日も、情報収集は怠らず、
朝の人事の際や、後鳥羽院の御幸の予定を記す
本来は巻子に書かれた『明月記』であるものの、
 鑑賞のためにこのように「記録切」と呼ばれる
断簡になった部分が多くある 


疲れたと日記に書いたものが、 
後に切り取られて掛け軸にされてしまっている面白さ
定家も全く予想しなかっただろう 笑  
ちなみに、こういった断簡が存在していることは、
明月記の一部欠損の理由でもあり、
戦国時代あたり、茶の湯で掛け軸の需要が高まり、
特に定家の字の需要があったようで、
当時明月記は断簡にされ、流出が止まらず。
文書保存に危機感を持った徳川家康が、
明月記の写本を作らせたという

③定家 写本を紛失

書状 藤原定家筆  東京国立博物館蔵
特集展示 明月記
説明)定家が知人に写本の借用を求めた書状で、
後鳥羽院と九条良経が開催した漢詩と和歌の競技会「詩歌合」の写本を定家は紛失してしまったようで、宛先は文人の日野資実とみる説があり、その人物は行間に返事に写本は藤原清範が持っているだろうと答えている

定家)写本紛失してしまった。貸して欲しい
日野さん)清範さんが持ってると思いますよ



④定家 オタクパワー大発揮  脅威の天体記録

常に天文観察に努めていた定家は
後世で世界が驚く貴重な天体記録を残す

■19歳 大流星を見る

大流星イメージ
1180年(治承4年) 
「空に蹴鞠の鞠のほどの勢いのある光るものがあり、
色は燃える火のようで南西から北東に赴く。
暫くして破裂し、火は空中に破裂して終わった。
もしやこれは大流星かと驚いた。
大夫忠信や青侍あおざむらい等と一緒に見た」
(ニュアンスはこのような感じ)
※青侍とは貴族・公家の家政機関に勤仕する侍のこと

■65歳 比叡山あたりでオーロラを見る

1226年(嘉禄2年)大晦日
「比叡山あたりで広範囲に渡る、見たことのない火の光を見た」と日本最古のオーロラ記録。
実際に1200年頃は地磁気軸が今より日本海側に傾き
日本でオーロラが観測できやすかった模様

オーロラが最も見えやすかったのは「鎌倉時代」…
藤原定家「明月記」にある「赤い光」と合致
記事リンク


■69歳 超新星(客星)を見る

カニ星雲
※超新星(当時は客星と呼ぶ)
とは、
夜空にそれまで見えていなかった星が突然輝くのが「新星」で、
とりわけ明るい星を「超新星」と言う。
質量の重い星が星の一生の最後に大爆発を起こすことを
「超新星爆発」と言い、その爆発で輝いて見えるのが
超新星となる

1230年(寛喜2年)11月4日夜、
おぼろで光は薄いが勢いが強い寄星を見て、
定家は天文博士安倍泰俊
(時の陰陽師でもある人物。安倍晴明の6代目の孫にあたる)に
過去の客星出現例を問い合わせたところ、
注意すべき客星だと言うので、
定家は自身で客星が出現した例が書かれた古い記録を調べ上げ、
8例を記録として明月記に列挙

その8例の中に当時から遡ること176年前に起こった
「カニ星雲」の爆発記録が含まれていた。

1928年にカニ星雲の膨張を逆算すると、
900年前に爆発したものであると分かった
1943年にアメリカの天文誌に日本のアマチュア天文家が
明月記の記録を記事として投稿し、その記録が
900年前のカニ星雲爆発の記録にあたるものだと判明。

古代に書かれた客星記録の見直しがそれがきっかけで始まり、
研究の大躍進を遂げる一助になったという

<<<定家、800年後の現代の天文学を大躍進させる>>>


■72歳 星食を見たという話を延暦寺の僧から聞く

星食イメージ
2022年 24年ぶりに火星が月に隠れる「火星食」を
北海道・納沙布岬で観測したもの

1233年(天福元年)9月21日延暦寺の僧静俊が
「9月15日の夜午前2時に
大原で火星が月を追いかけて中に入り、
月の西側に出たが、欠けて見えなくなった」
話していたと明月記に書き留める

こういった好奇心旺盛なお坊さんがいたことが驚きだし、
そもそも、よくこれが見えたなという驚き
常に観察していたのか、凄く目立って光っていたのか

「火星が見えなくなったの見たのです」とテンション高く
定家に伝えたのかな 笑
しっかり書き留めた定家ナイス



■書の達人【本気】【オフ】モード 字の落差


□本阿弥光悦【オフ】モード

本阿弥光悦筆 書状 慶長10年(1605)
茶会に招かれたことへの礼状
 私的な手紙で奔放な筆遣い
根津美術館 【よめないけど、いいね!展】で衝撃を受ける

定家の字の落差を見て、光悦のこれを思い出した
書の達人光悦はいつでもあの芸術的字体で書いていると
思い込んでいた。 根津美術館でオフモードの字を見て、
嘘みたいなやる気のなさに笑ってしまった
定家のオフモードを見ても動じない心が仕上がる

□本阿弥光悦【本気】モード

鶴下絵三十六歌仙和歌巻 俵屋宗達画・本阿弥光悦書
江戸時代

 京都国立博物館

おなじみの芸術的な字 


□空海【オフ】モード

国宝 灌頂歴名《かんじょうれきみょう》
弘仁3年(812年)神護寺蔵
通常時、京都国立博物館に委託
真言密教最初の灌頂を行なった宗教史上重要な文献で、
書道の手本としても人気が高い
空海直筆の灌頂参加者の出席簿

※灌頂とは、頭に水をかけて、
悟りの位に進んだことを証する儀式のこと
ぶらぶら美術館で、「空海の誤りの箇所を見るとホントに嬉しくなる」と貫主の谷内弘照さんが話されていて、おぎやはぎとの会話の間が絶妙で笑った。谷内さん、お話上手で品があってユーモアあって素敵!!
谷内さん「ミスしてるけど堂々としてるでしょ」
と畳み掛けるw
谷内さん「恐らく(空海は)儀式をやりながらメモしてるから、番号打ち間違えてますよね。最後の方でミスが多くなるのは、あ〜その人知らんけどこういう字やったっけ?…みたいな感じで書いてるわけですよ」
一連の言い方が最高に面白くて、ここ何回も見てしまった
・3行目に最澄の名前 
後輩の空海に密教を学ぶ最澄の人柄が分かる
・空海の自由闊達な書風を知ることができる貴重な資料
・最澄、空海が決別する原因のひとつとなった泰範の名がある
・天仁元年(1108)白河院の御所のおまもりに取り上げられていたこともあったという
全体

神護寺とは
空海が東寺や高野山の前に一時住職をしていた寺で、
正暦五年(994)と久安五年(1149)の二度の火災にあい,鳥羽法皇の怒りに触れて全山壊滅の状態となった。 わずかに本尊薬師如来を風雨にさらしながら残すのみであった惨状を見た文覚は、生涯の悲願として神護寺再興を決意するが、厳しい状況だった。上覚や明恵といった徳の高い弟子に恵まれ、元以上の規模に復興された。復興には後白河法皇や源頼朝の助けもあった

<<平清盛 と 鎌倉殿の13人 要素満載のお寺>>

灌頂歴名かんじょうれきみょう2024年 奈良と東京で展示!

\生誕1250年記念特別展「空海 KŪKAI-密教のルーツとマンダラ世界」奈良国立博物館/
会期:2024年4月13日(土)~6月9日(日)
灌頂歴名かんじょうれきみょう展示期間
4月13日(土)~4月29日(月・祝)まで ←短い



\祝!特別展 神護寺 東京国立博物館 開催決定!!/
2024年7月17日から9月8日まで開催
灌頂歴名かんじょうれきみょう展示予定

↓発表会での谷内貫主
住職(貫主)谷内弘照さん
ブラ美でこんなに山田五郎さん笑わせてるし、
おぎやはぎからプロって言われてた
話術最高



□空海【本気】モード

【聾瞽指帰】ろうこしいき国宝
延暦17年(797年)
高野山所蔵
空海24歳の時の出家決意の書 

タモリさんに、
「高野山で見てきたものが全て吹っ飛んだ」
と言わしめるほど、空海の思いが溢れてる

<<<< 弘法の筆の誤りなし >>>>

聾瞽指帰は、たまに高野山霊宝館で展示されていて、
いつか絶対に行くと思ってちょくちょくサイト見てたのに
直近で展示されてたことに気づかず終わっていた、、ガーン

特別展 宗祖弘法大師御誕生1250年大法会記念展
「お大師さまから・お大師さまへ」一期・二期にあたる
2023年4月15日(土)~ 7月9日(日)で展示 リンク 

多分また2年は見られないだろうなと
ガッカリしていたら、
\祝!空海展に聾瞽指帰 展示決定!/
奈良国立博物館特別展
「空海 KŪKAI ― 密教のルーツとマンダラ世界」
2024年4月13日から6月9日まで開催



◼️古文書アプリ初トライ 

明月記を読み込んでみた
東博展示の明月記は、簡単な解説はあるけれど
全ての現代語訳まではなかった
古文書解読アプリを利用するチャンス!と
使ってはみたものの、くずし文字を読めるように文字変換
してくれるのであり、
変換された字を見るだけでは全然分からないナ

と、いうわけでおとなしく本に頼る
目次を読むだけでテンション上がる

◼️定家「明月記』の物語 稲村榮一著

定家「明月記』の物語
元島根県立松江南高等学校の校長先生の著書
元高校の先生が、 明月記が大好きで
最終的に本まで出版された熱意!

説明)『明月記』は56年にわたる克明な記録で、
歴史的価値の高いものであるが、難解な漢文で書かれており
理解は容易でなく、本書では『明月記』に平易な解説をほどこし
誰もが『明月記』をとおして中世の世相や風俗を知ることができるよう配慮されている。 

【目次】 はしがき 序『明月記』転変八百年
 1俊成の五条京極亭焼亡——洛中の火災頻々
2俊成と子女たち——一夫多妻時代
3世界が驚いた天文記録——大流星・超新星 
4紅旗征戎は吾が事にあらず——乱逆の軽視
5高倉院崩御——末代の賢王を慕う
6剛毅の女房の生涯——健御前の『たまきはる』
7九条家四代に仕える——浮沈を共にする主家
8定家の家族と居宅——西園寺家との縁組
9荘園経営の苦労——横領・地頭・経済生活
10式子内親王と定家——「定家葛」の伝説を生む
11後鳥羽院と定家——緊張した君臣関係
12熊野御幸に供奉——山岳重畳、心身無きがごとし
13官位昇進に奔走——追従・賄賂・買官・婚姻
14日記は故実・作法の記録——殿上人の日々
15禁忌・習俗——穢を忌む
16南都・北嶺——紛争止まぬ武闘集団
17救いを求めて——専修念仏・反念仏・造仏・写経
18「至孝の子」為家——後鳥羽院の寵・承久の乱前夜
19承久の乱——「武者の世」成る
20文界に重きをなす——古典書写・新勅撰集
21群盗横行の世——天寿を全うしがたきか
22京洛の衰微——焼亡ありて造営を聞かず・豪商
23寛喜の大飢饉——路頭の死骸数を知らず
24定家の身辺事——病気・保養・楽しみごと
25世事談拾遺——定家の説話文学
明月記抄——定家年齢譜
参考文献


■ 「書」に興味をもつきっかけとなった展覧会


①限定的な興味だった頃

 ・有名な戦国武将や偉人の書状    
・本阿弥光悦や尾形光琳の書(光悦流の字体が好き)
これら以外は字の個性の判別がつかず、
特徴的なもの以外興味が持てず

ところが、2つの展覧会に行って楽しめるようになった

②書を鑑賞する楽しみに気づく
今まで、絵画や絵の展覧会を主に見てきて
根津美術館の「読めないけどいいね!展」で
初めて「書」だけの展覧会へ行った
駅に貼ってあったポスターのインパクトでたまたま行き、
面白い背景解説やキャッチフレーズ付きの展示を通して、
書いた人の個性などを知り、書の面白さを知る。
ありそうで無い「古文書が読めない一般人目線の展示」よかった

③字の個性だけで歴史上の人物を好きになる
西行展で定家の字にひとめぼれ!
飛躍的進化(対 今までの自分比)



【個人的希望】
書は、面白い現代語訳の解説があれば
興味のきっかけが持てそうだけれど、無いことが多く、
興味に至る前に終了ということが多いので、
美術館や博物館の展示の際は可能な限り現代語訳つけて欲しい。
判読不能のものは、それすらも知りたいよ〜


■ 大河ドラマから ここまでよくきたものだ

大河ドラマ 平清盛 西行
ドラマ上、定家は出てこないけれど、
この西行から歌合いの督促受けていると思うとw
西行展に行くきっかけ
大河ドラマ 鎌倉殿の13人 源実朝
藤原定家は実朝と文のやりとりをしている 
定家はドラマ上顔出し出演は無い
定家師匠に憧れている実朝にキュン


まさか藤原定家の明月記を見るために
東博の総合文化展に行くまでに至るとは
特別展以外で行くの初!   高校の古典の授業以来、
藤原定家が何をした人か、
古今和歌集と新古今和歌集どちらが誰かも分からない。
そんな状態だった。ところが2022 年鎌倉殿の13人を見始め、
同時代が舞台の2012年の平清盛も見始め、
平安末期から鎌倉時代 (1200年代あたり)に
親近感すら感じてしまった。
そしてまさに同じ時代が書かれた明月記に興奮。
興味範囲が相当広がったことで
博物館や美術館へ行く楽しみが増えた。
なんでもきっかけや出会いって大事だ


◼️徳川家康と秀忠  天皇 稲盛和夫さんのアシスト 冷泉家の書物 蔵 邸宅守る

とにかく800年守り伝えられた書物とそれを今も守る冷泉家の蔵(御文庫)が凄い、藤原定家を御神体としている蔵


◼️明月記が現存する奇跡レベルとは

◼️【参考】今回の記事につながった記録


#聾瞽指帰  
#灌頂歴名
#灌頂暦名

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