見出し画像

過去と未来を繋ぐための追想



 こちらの記事の続き。


 これから述べるのはいつになくシリアスでセンシティブなテーマだ。だから本当は公開するか迷ったのだが、いつも私の記事を読んでくれている読者諸賢の広い度量や、noteユーザーの高水準なネットリテラシーを信用して書くことにする。


 まだnoteという媒体を完全に信用はしていないけれど、良識を持った人たちが多い(と思われる)この場所でなら他SNSと比べても波風が立ちにくいだろう、ということで一種の賭けに出ることにした。



 幼少期の記憶なのではっきりとは覚えていないが、たしか3~5歳頃のことだ。


 一部始終を鮮明に覚えているわけではないので断片的な描写しか出来ないのだが、私は家の床に四肢をついて這いつくばった状態で祖母に尻を「しゃもじ」でブッ叩かれていた。


 今改めて思い返してみても意味がわからない。何故幼い私が家の床に四肢をついて這いつくばった状態で祖母に尻を「しゃもじ」でブッ叩かれなければならなかったのか。


 その時は母親と祖母が一緒にいて、何やらうるさかったことだけは覚えている。


 母親がその祖母の行動を止めようとして口論していたのか、それとも母親の私に対する躾を是正する手段として祖母がそうした行動を取ったのかは不明だが(是正?)、両者とも激しい怒気を含んだ口調で言い争いをしていた情景だけが私の脳に強く刻み込まれた。


 そしてもちろん私も幼い子どもだったから、尻をブッ叩かれて激しく泣き喚いていた。まさに阿鼻叫喚、地獄絵図だ。


 出来れば夢であって欲しいと思ったが、祖母はもう亡くなってしまったし、起こってしまったことは仕方がない。仮に夢であったとしても、そういう夢を見るということは深層心理的に何らかの問題を抱えていたということだ。


 ちなみに祖母はいつもそのような行動をしていたわけではなく、私が小学生ぐらいになった時にはもう真っ当に孫を可愛がるような、家に行くとお小遣いを恵んでくれるような、至って普通の優しいおばあちゃんになっていた。


 たまたまその時にヒステリックになってしまったというか、私の母親との口論の末にやむを得ず、どうしても孫の尻を「しゃもじ」でブッ叩かなければならなくなってしまったのだろう。どういう経緯でそうなったのかは未だに不明であるが。


 ただ子供心ながらに、祖母にその行動を取らせたトリガーとなったのは私の母親なのだということだけはなんとなく理解出来た。


 母親もまた、時にヒステリーを起こす。




 父親が仕事で夜遅くまで帰らないので、基本的に私の生活を管理するのは母親だった。


 母親は、簡単に言えば「子が自分の思い通りに生きないと我慢できない」類の人間だ。


 自身の理想を子に押しつけている。


 小学校4年生頃の私は気付けば塾に通い、自分でも知らずの内に中学受験をすることになっていた。


 費用を捻出しているのは親なのだからしょうがないと思えばしょうがないし、世の中には経済的な問題で勉強したくても出来ない子ども達がたくさんいることを考えると素直に感謝すべきなのだろうが、やっぱりそこに自分の意志が介在していないとどうしても自分の人生を生きている心地がしない。




 中学受験当日にも事件は起きた。


 小学6年生なので大体の生徒は親と一緒に受験校まで向かい、直前に「頑張ってね」などと声をかけられてから親と別れ、教室に入りテストを受ける。


 私の両親も例に漏れず直前まで一緒にいたわけだが、問題なのは別れ際の行動である。



 当時私が通っていた塾では、士気を上げるためにゆずの『栄光の架橋』を聴くことを推奨していた。塾の保護者会的な会合でもその話題は度々上がっており、受験シーズン真っ只中になると私の母親は自宅のCDプレーヤーを使って私に『栄光の架橋』を聴かせてきた。


 それだけならまだ良かった。


 先述したように事が起きたのは受験直前、別れ際のこと。母親は私に「ウォークマンに入っている『栄光の架橋』を聴いてから行け」と強要してきた。

 私は「もう時間ないし、聴かないでいい」と突っぱねたのだが、母親はどうしても私に『栄光への架橋』を聴かせたかったらしく、無理矢理引き離そうとしてもウォークマンを押しつけるようにしてついてきた。

 他の生徒の親たちが「頑張ってね」と普通に見送っている中で、私の母親だけが子どもに無理矢理ウォークマンで音楽を聴かせようとしている……私はそれがとても恥ずかしくて、これ以上押し問答を続けても周囲から奇異の目で見られるだけだと諦め、『栄光の架橋』を半ば義務感で聴いた。

 私はとても嫌だった。嫌で嫌で仕方なかった。でも母親は聞く耳を持たないから仕方ない。そんなモヤモヤした気持ちのまま試験を受けた。



 案の定というかなんというか、結果は不合格だった。別に言い訳にするつもりはないけど。  


 現地で不合格の結果を見た瞬間は特に何の感情も湧かなかったが、家に帰って布団の中で中学受験に費やしてきた時間を反芻していると、だんだん時間をかけてじわじわと涙が押し寄せてきた。

 単に落ちて悔しかったからだけではなく、様々な感情が交錯して、自分でもワケがわからなくなって泣くしかなかった。自分の人生が情けなくて仕方なかった。




 私は結局、第1志望校以外に受験して合格した学校の中で、一番偏差値が高い中学校に入学することを決めた。

 どこの学校に行きたいかなんて当時自分でもよくわかってなかったのだから仕方がない。偏差値でしか学校の優劣を判断出来ない未熟な若造だったのだ。



 中学時代はかなり辛かった。


 ここでも例によって母親の干渉の手が入る。母親は「悔いがないように絶対に部活には入れ」と念押ししてきた。「部活に入らないと絶対に後悔するから、運動部に入って健康的に身体を動かすと共に青春の想い出作りをしろ」ということだった。


 私は運動神経が悪かったし運動部になんて入りたくなかったが、入学してから数日間、帰宅すると母親が呪文のように「入部届出したの?まだ出してないの?今から学校にトンボ帰りして早く入部届出してきなさい」と唱えてくるので諦めてとある球技部に入部した。


 ここで諦めずに己の信念を貫き通せば良かったのだろうが、当時「部活に入らないと家に入れてやらない」とまで言われて実際に家から閉め出されそうになったから、流石に13歳のいたいけな少年に他に帰るアテなどあるはずもなく、ヤケクソで運動部に入部した。今思い返せば適当な文化部とかに入っておけば良かったかもしれない。


 当時あるスポーツ漫画に影響されており、盲目的になっていたというのもある(これから語るセンシティブな事例により特定されては困るので具体的な情報は差し控えるが)。




 しかしやはりというか何というか、そこでも私は上手く生きていくことが出来なかった。


 運動神経が悪いから当然チームスポーツにおいて私は足手まとい扱いだし、他の部員と比べて圧倒的に能力が劣っていた。


 それに加えて当時の私は河村隆一のGlassばりに誰にも心を開けなかったから、ほとんど誰とも口をきかなかったし、陰気で暗く鈍臭いという、この世全ての負の要素を集約したような人間として周囲のお荷物扱いだった。

 まあ私が円滑な人間関係を築けなかったのは自ら心を閉ざしたからで、自業自得以外の何物でもないのだが。



 私は精神的な問題以外にも、声が低く汚いというコンプレックスも抱えていた。私は人より早く声変わりを経験したのだが、喉仏は異常なまでに突出し、発声がしにくいだけではなくその低周波な声質を自分で思うようにコントロール出来ず上手く喋れないという欠陥もあった。


 「声」という自分自身で選択できない親からの遺伝的要素に苛まれているという事実がまた、私の心に暗い影を落とした。


 自助努力で何とかするしかなかったのだろうが、明らかに喉仏が他人より突出していたのでこの労苦は同じぐらい喉仏が突出出来る人間にしかわからないだろうと思い、また実際に可能な限り声を高くしようとしても喉の構造上というか喉仏に邪魔されて無理だった。


 やはりここでも母親はそんな声をしている私のことを疎み、「もっと高い声で話せ」と強要してきた。もうこれ以上高い声が出ないという私の主張も聞き入れられず、母親は怒り猛り狂った。私はもう声を発することそれ自体が嫌になった。すべて、何をやっても無駄なんだという無力感だけがじんわりと募っていった。



 そんな異質な声の問題もあり、当時の部活の同期などからは、いじめとまではいかないが「弄りの極限」みたいな行為をされたり馬鹿にされたりもした。


 集中砲火的にいじめられなかったのは、当時その部活において私以外にいじめられていた部員がいたからだ。その部員は過呼吸症状を起こすなどして途中で辞めてしまったが、私は結局最後まで辞めることなく部活を続けた。正直辞めたくて仕方なかったが、辞める勇気がなかったのだ。辞めたら負けだという反発心もあった。


 私がなんとか持ち堪えることが出来たのは、私を弄ったり馬鹿にしたりしてきた奴は大概他の弱そうな人間にも同じことをしているということがわかっていたからだった。


 部活動以外でも、クラスで幅を利かせて威張っているような人間だ。攻撃の対象になるのは自分だけではない。


 それに私は辛い状況を何とかやり過ごそうと、あえて道化じみたキャラクターを演じるようにしていた。基本的には無口で陰気な張りのない暗い奴だったが、場を可能な限り面白くするためにタイミングを窺ってあえて変な奇行をしてみたり、突拍子もないことを口走ってみたりしていた。

 それが奏功したのかどうかはわからないが、本格的ないじめの対象となることはなく、私の阿呆みたいなアクションを面白がってか一定数好意的に接してくる人間なども増えてきて、自分以外敵しかいないという状況は免れることが出来た。


 ただ、もう二度とあの頃には戻りたくない。



 ここだけの話だが、自ら命を絶とうと思ったことも何回かあった。

 親の手によって人生を歩まされ、こんな苦難をこの先も延々と受け続けなければしれないのだとしたらもうやっていられないと思い、自宅の階段から故意に落下してどうにか意識を失えないものかと何回も画策した。

 結局実行には移さなかったけれど。それもこれも勇気がなかったからだ。



 勇気がなかったから私は部活を辞められなかったし、学校に行かないという選択肢を取ることも出来ず、しまいには中学校3年生の卒業式で皆勤賞を授与された。


 もしあの時勇気を出して「もう僕は精神的に無理だから学校には行けない」という意思表示を出来ていれば、今よりもだいぶ楽な精神状態で生きられたのかもしれない。



 だから私は精神病であることを公表出来る方の心が弱いとは思わない。自身が何らかの病名がつく精神的疾患であると気付くまでには恐らく激しい葛藤のようなものがあったはずだ。 


 自身をそういった精神病だと認められる人間には、きちんとそれを受け止められる強さがある。昨今の世の中、特にインターネット上なんかではうつ病は甘えだみたいな風潮があるけれど、実に嘆かわしいことだと思う。


 うつ病の方たちは多分、自分がうつ病であることを公表すると周囲に気を遣わせてしまうだろうという考えが働く人たちだ。


 だから精神的な限界点に到達するまで我慢してしまう。


 うつ病を患っているという事実を表面的な情報だけで判断してはいけない。それぞれの心の中では激しい自分との闘いが繰り広げられているのである。極限まで自分の精神と格闘出来る強さを兼ね備えている人間こそがうつ病になるのだ。



 私は軟弱な臆病者だから、ただ社交性が壊滅的で、コミュニケーション能力がマイナス値に振り切った人間のフリをして生きている。紛れもない社会不適合者だ。


 未だメンタルクリニックに行く気もないし、自分が精神疾患だと認める気もない。いや、勇気がないと言った方が正しい。


 リスキーな生き方をしていることは承知している。嫌な現実から逃避するように、感覚を麻痺させたようにして日常をやり過ごし、皆勤賞を貰うような生き方もいずれは限界がくる。

 忍耐力だけは養成されたと自負しているが、それが風船のように膨らみ続けて、いつはち切れてしまうかもわからない。



 私は怖くて仕方がない。母親の過干渉がどうしても嫌になって、取り返しのつかない事態が発生してしまうことが。


 もちろん他者に危害を加えることは絶対にしないが。そんなことをしたら人生という勝負に敗北したことと同義だ。敗北者にはなりたくない。怒りの刃を向けるとしたら己自身だ。



 中学時代に感じた希死念慮を今もたまに感じることがある。



 でも、まだ人生を辞めるわけにはいかない。


 これに関しては単に勇気がないからじゃない。


 悲惨な自死を遂げた自分のことがニュースで報道されて、当時のクラスメイトが「どんな人物だったんですか?」とインタビューされた時に「そうですね……大人しく真面目で……あんまり喋らない印象」などと答えられるのを危惧しているからでもない。
 実際そうだったんだから仕方ないけど。でもそんな報道は、語弊を招く表現かもしれないが「世間の思うツボ」過ぎてされたくない。




 中学を卒業して、高校、大学、社会と進み、交流の数こそ少なかったものの、色んな人間と関わりながら生きてきた。


 嫌な人間や、どうしても許せないような言動をしてきた人間も数多くいたけれど、こんな自分に恩情を与えてくれた人たちもいた。


 まだその人たちに恩を返せない内に、この人生を捨てるわけにはいかない。


 幼少期に優しく接してくれた叔母や、高校時代に短期留学した時お世話になったアメリカのホストファミリーなど(留学においての金銭的な援助を親に受けているのもこれまた複雑なのだが)、向こうは私のことなど何とも思っていないかもしれないが、確かな恩義を感じたのだ。
 そこには過干渉な母親からは決して受け取ることの出来ない、柔らかく温かい慈悲があった。



 私は、私のことを一人の人間として尊重してくれた人たちへの恩を返すために生きる。



 中学受験の塾に通っていた時に、算数を教えてくれていたU先生という人がいた。当時30代半ばぐらいで、及川光博をやや厳格にした顔つきのその先生は見た目通り厳しかったのだが、私に対してだけは何故か優しく接してくれた。


 後から聞いた話によると当時の私は毎週課された宿題を真面目に全部やって提出しており、それがU先生の好感を得たらしかった。他の子たちは大体サボって宿題を真面目にやらなかったり適当にやってたりしたから珍しかったのだという。


 特段難しい宿題が課されていたわけではなかったが、私は過干渉な母親によって「命令されたタスクは何が何でも完遂しなければならない」という意識を半ば洗脳的に植え付けられていたから、それが逆に良かったのかもしれない。


 U先生はいつだか「俺はちゃんと真面目にやってる子にはまともに向き合うけど、そうじゃない奴にはそれ相応の態度しか取らない」と言っていた。


 私がU先生に提出した宿題ノートを返却してもらうと、いつもそこには「えらい!」とか「この調子!」みたいなコメントが書かれていた。普段の授業中はそんなことを言うような人には見えないのだが、とにもかくにも私はそれが子供心ながらに嬉しかった。


 私はそのU先生の生き方というか、信念を継承して今を生きている。もう15年上も前のことだからU先生が現在何処で何をしているのかはわからないけれど、私に生きる指針のようなものを教えてくれたのはU先生だった。



 だから私は恩義を返すために生きる。私をこれまで生きながらえさせてくれた人たちにはちゃんとまともに向き合う必要がある。

 逆に悪い感情を催させられた人間にはそれ相応の態度を取る……というとまた物騒な話になってくるのでこの問題は保留にするが、まずは何にせよ、地を這いつくばってでも生きることが最優先だ。



 自分の中での生きる意味を改めて再定義出来ただけでも、この文章を書いた甲斐があった。




 ここまで読んでくださった方々、気の滅入るような話ばかりで申し訳なかったけれど、お付き合いいただいて本当にありがとうございました。

 きっと私以上に辛い思いを抱えながら生きている方たちも多いと思いますが、私の記事が微力ながらでもお力になれれば幸いです。



2024年5月 名も無き隠遁者より




おわり

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?