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あそびとまなびの関係性について考えてみる。遊び人の大人たちから学ぶ日常の拡張のしかた。

 先日、2年ほど前から企画している「オトナテラコヤ」というイベントの第100回目を行いました(開催場所は尼崎市内にある西正寺という浄土真宗のお寺)。この企画は、尼崎にゆかりのある方に「先生」になっていただき、毎回異なるテーマで、2時間ほど学びの時間を過ごすというものです。これまで月に数回、自分のペースで続けています。

 そもそも、この企画も僕のあそび心や好奇心からはじまっているので、記念すべき100回目のテーマは「あそびを通じて日常を拡張する〜あそびとまなびの関係性」にしました。

 今回は、様々なバックグラウンドを持つ「あそび人」をゲストにお迎えし、場を進めていきます。

 特に「あそび」というキーワードを定義することなく話題に入っていったのですが、それぞれのお話しを聞く中で見えてきたのは、仕事や暮らしにおける疑問や違和感、またはこんなことやってみたいという素直な気持ちに従って行動していくということが「あそび」なのではないか、ということでした。

 そして、その「あそび」を進めていく中で、誰かに話を聞いてみないといけないとか、法律を調べてみないといけないとか、仮説を立てて検証してみたいとか、そういうことが起こっているようです。その状況における「まなび」には必然性があるので、楽しく主体的にできるもののように伺えました。

 僕自身「まなび」の場をつくることは多いですが、その主導権は、いつも学び手の側にあると考えています。狙いはあっても、狙いに縛られすぎると面白くない。そのバランス感覚が難しい。

 小さなチャレンジを積み重ねていくことで自信がついたり、選択肢が広がっていったり。そんな話も出ていましたが、それも広い意味では「まなび」であるように思います。大人になると、様々な理由で勝手な思いつきをなかったことにすることが多くなるのかもしれません。でも、その思いつきはその人のオリジナルなものであるし、だからこそ、そういうことを大切にできるといいなと思います。

 違う立場や背景の人との交流も、多くの「まなび」をもたらすと思っています。だから、このオトナテラコヤという場では話を聞くだけではなく、他者に働きかける機会も確実につくります。一人では学べない。他者との関わりから理解されることがたくさんあるように感じます。

 自分の日常を問い直す。この作業は難しいですが、自身の生きる世界を広げてくれるものだと思っています。大学の先生から教わった「無意識を意識化することが学問である」ということが、今もなんだか自分を支えてくれているなと。

(あ、人間以外も学びに来ていたようです)

尼崎ENGAWA化計画
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オトナテラコヤ
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