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恥ずかしい日本語

オギヤハギのあれが「恥ずかしい言葉」という形容をしていたことが永遠に頭の中に残っていて、その考えを出力しておきたい。ヘッダ画像をお借りしています。

もともとぼくは東京笑いが好きではあるのだが、オギヤハギ周辺の下品な大学生のサークル延長的なそれについて忌避したい。佐久間が関わる系といえばわかるだろうか?対照的に関西のそれを意味不明に関東に持ち込んで「純下品」をやるのが梶といえば伝わるだろうか。対照とは言ったものの、どちらも同レベルに不要である。あちこちオードリーは若林と好きな相手がどのように会話するのかが知りたいときだけ見る。

ともあれそのオギヤについても、学生延長の東京笑いのはずがいつの間にか婚姻関係等の影響でいつの間にかセレブ芸になっていてこれについても失笑するしかないんだけど、サマーズの番組に出た時に、「コラボ」という単語に拒絶反応を示しており、これにぼくは強く同調した。

つまり、単なる知り合い同士が同じつべチャンネル内で登場するだけのことなのに、それにいちいちCollaborationなどという単語をつけ、特別扱いでもするかのような、むざむざ希少価値を高めるような言い方をして、消費者を煽る(この後半部分はぼくが勝手に想像したものだ)、ブランディング・マーケティングすぎる物言いについて、テレビというショービズな世界にいながらにして「いい加減キメえ」とのたまったわけである。

上記のような生活をしていて、意外と消費者目線に立てるものである。単にそれを若者言葉のように感じ、ついてけねーよ然としたほころびが生じただけなのかもしれないが。

これと同様の例としてばずるとか伸びるとかがあると思う。それぞれRTの数がガンガン増えていくことを意味するし、「単純な承認欲」という観点でのみ言えば、プラス、ポジティブと評することができるのかもしれない。

しかしながらRTとはそれすなわちポジティブな意味を持たない。なんなら「馬鹿の晒し上げ」みたいな意味で使うことに自分の存在理由を見出すようなSNSユーザがクソ多いとぼくは思う。

あるとき調べ物をしていて、ぼくが尊敬したいなと思ったマーケターがRTなり引用RTで異なる思想の人間だと思われる連中を論(あげつら)っていたのを見たときには、失望と同様の複雑な感情を抱き、リストから排除した。還暦とかまで行ってたかどうかは覚えてないが、そりゃ遥かに年上な人だし、だからといって歳が高い人のSNSの使い方を肯定する気は微塵もない。ただ情けないと思うのみである。

そしてば……ば……ずり(ああ、なんて恥ずかしいんだろう)とかいう単語を平然と使えたり、絵を書いたりする人が「これ伸びないんですけど」などと、自分が書いた物品に対して感想をつけ、いわゆる「上げる」=自分で自分にリプライを書き、自分をフォローしてくださっているような貴重かつ得難い相手に対してまるでルネサンス期の貴族と乞食のように言う様を見るにつけ、肥大化した欲望はどこまで行くのだろう?と小学生程度が抱くような感想を持つことしかできない。

もっとも絵を書く人のそれについては、フォローと被フォロー関係をガチで金目線でしか考えてない例があり、しかもそれが何かとPTAなりそれ系の人々から目をつけられやすいエロ漫画業界で起こってたのでもはや自滅すらあるんじゃねと思えてしまう。


まともな感性で通常程度の広報なり発信のためにSNSを使っているはずの大多数のエロ漫画屋に対してこんな一匹が狼少年化するだけでそれほどの懸念が浮かばざるを得なく、そこまで中傷復讐怒りが集中することが予想され得る現代日本のSNSを憂いざるを得ない。ぼくはエロ漫画市場が尊重されるべきだと捉えている。

ぼくは全く児童ポルノ等に興味がわかないが、現実での写植等が異常に規制され始めている以上、当該規制をしたい連中がおり、それを求める人々を犯罪者予備軍と位置づけているのであれば、合法的な「抜き物」が存在しなければありとあらゆる児童が性被害を受ける時代が来る、とそっちのほうを心配する。猛獣を猛獣と思うのであれば、檻の中に閉じ込めておくこともできないのか。おまえたちがしていることは、猛獣を檻の中に入れ、水も米も与えずにその檻を破壊するほどの怒りを与えているだけなのではないのか?

このような価値観が法規制まで造る今の日本ならば、SNSで斯様な恥ずかしい日本語を連発するような連中で溢れかえっても仕方ないのだろうか。自分の書き込みなり、絵を記載した書き込みが「伸びる」だの「伸びない」だの、人前で言うべきことか?これと同レベルに理解不能なことが「フォロワーが減った」的言動である。だから何だよ……と。

まずフォロワーという単語が意識高すぎ新作すぎて笑う。被フォローである。いわゆる訴求力を挙げたり、出版社やプラットフォームの目につきたいと思われるアカウントが#フォローが増える 的タグを付けて投稿していることもあるが、フォローを返さないのにそれを望むのかよ以前にそこまでの乞食行為ができるアカウントですよと表明する行為に疑問を持たないのか?と。赤信号をみんなで渡っているつもりであり、それが新しい常識だとでも発しており、その同調圧力や帰属意識で充満したフィルターバブルに守られているとでも思うのだろうか。こうして新しい言葉が登場し、これまでの精錬かつ高潔だった概念を駆逐してしまうのだろうか?

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