見出し画像

「正月家族と千年家族」2019/1/3

新年、明けましておめでとうございます。
2019年の書き始めに、お正月に感じる切なさについて記録しておきたい。

私が1年の中で一番好きな日、それは1月1日。元旦。

千葉の実家で親戚に挨拶をし、家族みんなで小塚大師と安房神社に初詣に行って、イオンに行って、みんなでおせちを食べながらウルトラマンDASHを見る。

これが毎年の水嶋家の恒例行事である。

さて、突然だが「千年家族」というゲームソフトをご存じだろうか。

今から14年前、2005年に発売されたゲームボーイ用ソフトで、私は小学生のときに、まだ分厚かった初代ニンテンドーDSでプレーしていた。

キャラクターを設定し、その家族の行く末を見守るというゲームだ。
キャラクターは画面の中でどんでもない早送りで家を動き回る。

数分で1日が経つようになってたと思う。

キャラクターは絶えず結婚したり死んだりして、今度はその子供の世帯になったりを高速で繰り返す。
神様であるプレイヤーは、例えばキャラクターが恋愛に思い悩んだりしている様子があると天から、「がんばれの矢」「キューピットの矢」的なものを打って好きな人とくっつけてあげたりして、その一族が滅びないように操作してくというもの。

プレイヤーは神様なので、絶えずDSを起動しておかないと一族が滅んでしまうとうトリッキーな仕様だった。

それって面白いの?と思われるだろうが、そんなことはある。特に面白くはなかった。小学生女児えりちゃんは面白さを求めることすら忘れ義務のようにやっていたと思う。

そのゲームのことを、毎年の元旦には必ず思い出してしまうのだった。

私の家族は、父と母、2つ下の弟、近所に住んでいる祖父、祖母がいる。これが私にとっての「家族」だ。私はこの家族しか知らない。
上に果てしなくある祖先の家族のことも何も知らないし、父や母が子供のポジションだった1つ前の家族のこともよく知らない。
いるかもしれない子孫の未来の家族も、知らない。

私が知る唯一の家族ができて23年が経ち、私も弟も家を出た今、どちらかが結婚すれば間もなくこの家族も事実上の解体を迎えようとしている。

こうして家族全員で1年に1度の贅沢をする1月1日を、あと何回迎えられるだろうか。

みんなでわいわいとご馳走を食べながら、そう思う。本当に儚いと思う。

もう近い将来、この家族もなくなっちゃうんだ。
イオンに行くのに渋滞にはまるので神社でトイレを借りて、焼きそばや大判焼きを買って渋滞中に食べる楽しみだとか、ウルトラマンDASHを見る決まった席の配置だとか、ばあちゃんの漬ける数の子の白いやつは塩でちょっと茶色いのがタレなことだとか、そんなことは神様はきっと知らない。私たち家族の大事で尊い当たり前のことが、神様からしたら、1秒にも満たない、見もできない刹那のことなのだ。
この家族がなくなれば、そんなことをいちいち語りつぐこともないだろう。
消えていくのだ、私が前の水嶋家のことを全然知らないように。

先祖もこうして幾度も幾度も生まれては儚く消えていき、子孫にその存在を知られることもなかったんだ。私たち家族もそのちっちゃな1つの家族でしかない。この長く濃く尊い23年間も、神様から見たらたった数日なのだし。

ずっと子供でいたい。常に未来に期待して生きたい。
何も知らず、夢に、大人に、将来にわくわくとするのだ。
なのにもう23歳になってしまった。これは大人という、小さいころの私が、常に未来にあってほしかった、何かすごく素敵な自分になっているはずの年齢だ。
母が母になった、子供から親のポジションになり世代が変わった年齢に近づいている。

私の家族が、終わってしまう。

タイムスリップして祖先の家族を見てみたいと思ったことが数えきれないほどあるのは、幼いころの千年家族の影響かもしれない。

どうしても切ない気持ちにはなってしまうが、私も祖父祖母が元気なうちに家族を持って、子供に、私の家族を教えてあげたい。
ひいばあちゃんの数の子はね、味がふたっつあってね、と。
自分が母のポジションである家族が生まれることは受け入れがたいけれど、それを楽しいと思える将来が来たらいい。

きょとんとDSをプレーしていた女児えりちゃんは今、平成最後の正月を終え、家でぎんなんと白子で熱燗を舐めながら、一人寂しくこれを書いている。まったくどうしたものか。家族を持つんじゃなかったのか。

もし今の私を千年家族の神様として見ていたら、相当やばいと焦りながら「がんばれの矢」を打ってあげているに違いない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?