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短編小説 | 月か花

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短編小説 | 月か花 #4

短編小説 | 月か花 #4

「ハア、私ねえ」

と、女はおもむろに、何故か焦れたようにため息を吐くと、小林の勘定を介せず口を割った。

「私ね。おなかに子供が居たの」

「……子供、ですか」

唐突な言葉だった。脈絡もない。何を今から聞かされるのだろうか。しかしともかく居た、という言葉尻に、小林はただ身構えた。

「でもねえ、生まれる前に行っちゃって」

つまりそれは流産だろうか。小林はその言葉を口に出せず、感慨深そうに頷い

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短編小説 | 月か花 #3

短編小説 | 月か花 #3

 書は墨が潤沢に使われ、太い筆に字の形は気ままに崩されている。水を多く含ませ書かれたのか、墨の色は黒から灰色、白と、所々まだら模様に移ろい、全体的に滲んだ墨から、字の輪郭は曖昧である。また、それが「花」の字だとしても、草冠と思しき部分はずくずくとした墨汁に、前後左右のでっぱりはほとんど消え、一塊となって形を成さない。

 筆脈は草冠の左部からそのまま「花」の字の「イ」らしき下部につながり一筆に垂れ

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短編小説 | 月か花 #2

短編小説 | 月か花 #2

 すると影は、ある一戸の塀の傍で体を伸び縮みし、屈伸するように動くのが分かった。と思うと、するするとまるで忍者のように塀を這い上り、そのままさっと翻ると、敷地の中へ、吸い込まれるようにして消えていった。

 当たりだと思った。小林の脳裏には、瞬時に自分を囲む生徒や保護者などの敬慕の顔が踊った。自然と足は塀に向かって動いていく。

 この時小林には通報するという頭はなかった。静かな通りである。いま通

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短編小説 | 月か花 #1

短編小説 | 月か花 #1

 気持ちのよい夜であった。

 一日分の熱に夜気が注いで、街は足し水のようにほんわりとしている。

 居酒屋のエアコンに凍えた体は、生ぬるい夜の風に浸かって生き返ったところ。

 火照ったり冷えたりを繰り返した夜に、脳はぼんやりとした夢心地に緩んだまま。

 酔心もほどほど駅の前を通ると、ちょうど最終電車が着いたらしい。改札からは人が潮のように溢れ出てきた。が、それもしばらく歩いて駅の灯りが薄れゆ

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