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蛍光ペンの標 新田先生の思考をめぐって 蔵書の中のマーク箇所 『合理的な神秘主義 生きるための思想史』 安冨 歩 青灯社 2013年4月30日 第1刷

保管場所:机H 
新田先生の書斎の机上に置かれていた中の一冊。2013年というと晩年の論文をまだ精力的に書かれていた頃である。
安冨歩の訳/著作は『新しい一般均衡理論 資本と信用の経済学』(森嶋通夫著・安冨歩訳)1994年8月 第1刷 棚D-7、『貨幣の複雑性 生成と崩壊の理論』2000年11月 第1刷 棚D-7、『複雑さを生きる やわらかな制御』2006年2月 第1刷 、『黄土高原・緑を紡ぎだす人々 ー「緑聖」朱序弼をめぐる動きと語りː』(深尾葉子・安冨歩編)2010年8月 非売品 押入れP、そして本書とほぼ全て第1刷が所蔵されており経済理論から倫理領域へと変遷してゆく思索に美学者として注目されていたのではないだろうか。

「いわゆる確実で厳密な真理というものを求めた人々は、特定の種類の「傷」を帯びているのではないか。その傷の隠蔽から生まれる特定の種類の「不安」から、確実性と厳密性への渇望が生まれ、これがいわゆる「科学」や「哲学」を産み出してきたのではないか、と私は思うのである。」

p290 〈智慧の探究〉

真理を渇望する人々の系譜に、おそらく新田先生もご自身を投影されていたのではないか。先生もかつて親に強要された医学部への道を拒み、内緒で文学部に進んだのだと聞いた。幼い頃からの抑圧を脱しコナトゥスに従って研究を進める道を選んだのだ。先生が「合理的な神秘主義」「魂の脱植民地化」に共感したのは、おそらく先生もまた、そのように生きようとされていたからだろうと想像する。

管理人S  2023年11月5日


※ 引用文中、太字で強調している箇所が新田先生のマーク箇所である。太字の後ろの(黄)(紫)は蛍光ペンの色を表す。

《本書の構想》

どうしてそうなるかというと、学問分野が「対象」によってではなく「盲点」によって定義されているからだ、(黄)
と私は考えている。

p12

それゆえ、この問題を回避し、相互に接続可能なモジュール化された知識を構築するには、確実性への過剰な希求を放棄することが不可欠だ(黄)と私は考えた。

p13

生きる能力の発揮を阻害しているものを明らかにし、それを解除することを、分析的で厳密な学問の使命とすべきだ、(黄)という戦略を提唱する。この戦略を、
「合理的な神秘主義」(黄)
と呼称する。

p13

第一部 合理的な神秘主義の系譜

10 スピノザ

スピノザ思想の本質は「非線形哲学」(黄)という点にあり、これはエピクロスの原子論と龍樹の縁起論とを源流とすると推定する。

p86

 定理一八 神はあらゆるものの内在的原因であって超越的原因ではない。(黄)
つまり、スピノザはこの世に存在するものすべて、つまり自然そのものが神である、(黄)という以外に、絶対無限の唯一なる神はあり得ないとしたのである。

p89

精神と身体とは同一物であって それが時には思惟の属性のもとで、 時には延長の属性のもとで 考えられるまでなのである。(黄)」(スピノザ 二〇〇八、一七〇頁)

p91

※ エネルギーと物質、力とかたち、時間と空間、変化と変化するもの、これらは精神と身体同様、同じ現象の2つの見方で切り離せない。

個々のものが、自らの有に固執する「努力」のことをラテン語で「コナトゥス Conatus(黄)」と呼ぶ。

p91

11 マルクス

ここで描いているマルクスは、スピノザ思想の継承者としてのマルクス(黄)である。

p110

このような決定論的世界における不規則遷移現象は、二〇世紀後半になって発見された「決定論的カオス(黄)」に似ている。

p114

これに対してマルクスは、システムそのものの再生産(黄)を問題にしているのである。

p115

13 清沢満之

清沢の思想の根幹は「如来」への「信」(黄)にある。この如来という概念は、左の図に示したように、ヴィトゲンシュタインの「語りえぬもの」(黄)あるいは「神秘」と、マイケル・ポラニーの「暗黙知の次元」(黄)と密接に関係し、清沢は彼らに先行している。

p128

15 ヴィトゲンシュタイン

彼はその主著、「論理哲学論考」の最後を、
「七 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。(黄)」
という命題で締めくくった。

p162

端的に言えば、
神秘によって支えられた「生きる」ということの実現が、「価値」を生成する(黄)」
と考えるのである。

p164

※ この時「価値」は未知の世界に踏み出すことで得られるものと同義になると思われるが、思うに未知には二通りあるのではないか。世界に既に存在しているが未だ知られていないということと、想像することはできるが世界に未だ存在しないということだ。前者の未知に対するアプローチで得られるのが科学的発見で、後者のアプローチで得られるのが芸術作品であるといえないか。しかし、それでは科学者と芸術家だけが「価値」を生成できるのだろうか?否、私たちの日常の中にも「価値」の生成はあるだろう。それは、生活の中で得られる「観察による帰納的パターン認識」と「経験の組み合わせによる演繹的想起」に他ならない。この小さな「気付き」と「ひらめき」によって、世界に対する受容とフィードバックを積み重ね、それに導かれて喜びを得ることが、神秘によって支えられた「生きる」ということだと言えないか。(管理人S)

神秘的な生きる力を阻害するものとはなんだろうか。 端的に言ってそれは「暴力」(黄)である。 つまり、暴力の本質を明らかにし、 それを排除する方法を考えるのが、 学問のテーマなのだということになる。

p165

※ 暴力=理不尽を強いる力。物理的な打撃だけではなく、道理が通らない理不尽な全ての力、権力、権威、富の偏在、差別、偏見、人を生き辛くする社会的枠組み、なども含む。(管理人S)

六−四四 神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。(黄)」
六−五二二 だがもちろん言い表しえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である。(黄)」

p166

神秘の恵みを前提とし、ただありがたく受け取る。神秘を語ろうとするような冒涜はしない。その上で、我々一人ひとりにそなわる神秘の力を阻害するもの、その力を破壊する暴力を解明し、解除する。暴力は基本的に「語りうる」からである。(黄)

p166-p167

16 ポラニー

ポラニーは知識というものが、「暗黙の次元」(黄)に属する知るという過程に支えられている、と指摘し、更にこれを生命の作動、更には進化の過程一般へと拡張した。

p168

「我々の身体は、我々が外界を知性的(intellectual)にあるいは実践的(practical)に知ることすべてのための、究極の道具である。起きている間ずっと我々は、身体の外界のものとの接触への気づきを信頼し、それによって、そのものに注意を向ける。我々自身の身体は、我々が通常は対象として経験しないこの世界で唯一のものであるが、我々は、身体から注意を向けている世界という形で、常に経験する。このように身体を知的(intelligent)に用いることで、我々はそれを、外界のものではなく、自分の身体だと感じるのである。(polanyi 1966, pp.15-16)」
「この意味で、我々がものを暗黙知の近位項(proxima term)として機能させるときには、それを、我々の身体に合体し(incorporate)「甚だしい場合にはそれを身体の中に包含し(include)、そうすることで我々はそのなかに住み込む(dwell)ようになる、と言うことができる。(polanyi 1966, p.16)」
この知識の身体性(黄)は、自然科学や数学の領域においても変わらない。

p172-p173

※ この身体性を「頭で考える以前の」ということだと解せば、それは例えば熱いものを触って手を引っ込める反射のようなものと考えることができるだろう。言語を介さない反射的認識とか反射的想起というものがあるかもしれない。それが、気付きの瞬間やひらめきの瞬間に起こっていることではないか。(管理人S)

18 フロム

「ひとたびある社会がその平均的人間の性格構造を、彼がなさねばならぬことをなすことを好むようにかたちづくるのに成功すれば、人間は、その社会が彼に課す、まさにその状態に満足するものである。かつてイプセンの劇中人物がいったように、彼がなしうることだけを彼は欲するから、彼がしたいと思うことは何でもできるのである。いうまでもなく、服従に満足しているような社会的性格は、不具化した性格である。しかし、不具化していようと、いまいと、そのような性格は、それ固有の機能のゆえに、服従的人間を獲得するという社会の役に立っているのである。(フロム 一九六七、上二七二頁)」
この概念により、いわゆる「イデオロギー的上部構造」を具体的に理解することができるようになる。(中略)フロムは「財産と富との所有が中心的な欲望であった十九世紀資本主義」と区別して、「高度に産業化された社会においていっそう優勢となりつつある二十世紀」社会を想定し、その社会的性格を消費人(homo conssumens)(黄)とする。

p205-p206

※ 我々は「欲しいと思うものは何でも買うことができる」それが豊かさであると社会に思わされている。その価値観に知らぬうちに服従して満足しているのである。消費人とはそういう我々のことだ。「気付き」や「ひらめき」といった価値と「何でも買える豊かさ」といったイデオロギーの差を考えてみるといいかもしれない。「未知のもの」を「気付き」や「ひらめき」によって見出す代わりに「満たされないもの」を「お金」で買うということに置き換えられることで、神秘に支えられた「価値」が生成されず「お金の交換」にすり替えられているのではないだろうか。
(管理人S)

19 ベイトソン

因果的な「もし……ならば」は時間を含んでいる。しかし、論理の「もし……ならば」は無時間である。つまり、論理は、因果の不完全なモデルなのである。(黄)

p221

21 ローレンツ

彼は三次元という極めて単純化された気象の非線形モデルを考案してその挙動を観察し、後に「決定論的カオス(黄)」と呼ばれるものを見出した。それは、決定論的方程式に従いながら、確率的挙動をするもので、(中略)現象の中に本質的な不確定性があるのではないかという(中略)非線形性の持つ驚くべき性質を見出したのである。

p238

24 上田睆亮

上田は一九六一年に、二次元の非線形方程式をアナログ計算機を以て解析し、極めて不安定な振る舞いを発見した。上田はこれを周期解などとは全く異なるものだと正しく認識し、決定論的方程式から 不規則な確率的現象が生み出される(黄)、と考えた。

p266

第二部 合理的な神秘主義とは何か

■《合理主義的な神秘主義》

世界を支える神秘の力を前提とし、 その発揮を阻害し抑圧するものを、 合理的・科学的方法によって解明し、 排除する。」(黄)
このような戦略が
合理的な神秘主義」(黄)
にほかならない。

p291

■《階層の問題》

ラッセルは「神秘」を回避しようとするが、 ヴィトゲンシュタインは「神秘」を前提する。(黄)

p296

ベイトソンは(中略)出来る限り神秘を排除しつつ、最終的に神秘を尊重する、(黄)という戦略をとったのである。

p297

私は「合理的な神秘主義」が、このような「階層」を巡る問題を解消するものとしても機能すると考える。私は基本的にヴィトゲンシュタインとウィーナーとの考えに立っており、「語りうるもの」と「語りえぬもの」との 二階層で十分だ(黄)と考える。

p298


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