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市川沙央『ハンチバック』を読んで「中絶願望に救いを求める釈華の生き様をみつめて」(※ネタバレあり)

 はじめに…寡黙そうな作者が秘めている内なる牙に慄かされた。しぶとくたくましい弱者の骨は、儚くかよわい強者の肉をえぐることもできると知らしめられた。

 私は釈迦と仏陀の違いを知らずに生きていた。2023年7月1日、この本を読み進めるうちに、その違いが分かった方が良いだろうと思うようになり、調べてみると「釈迦が涅槃の境地に辿り着き、仏陀になった」という解釈ができた。つまり同一人物と言えるけれど、本文から言葉を借りれば<重なるようで重なり得ない>存在の気もした。
 
 現実世界において、障害者は美化されることが多く、感動ポルノの対象ともなりやすい。悟りの境地に達していて、つまり涅槃を知っており、すべての煩悩から解き放たれているように見られがちで聖者扱いされやすいと思う。特に入浴や排泄などできれば他者に頼らず、自力でやりたいと思う行為であっても、介助や介護が必要な場合、ある意味、悟らなければそれを他人に任せることは屈辱的な行為と健常者は勘違いしがちだからだ。しかし、本文にあるようにトイレの後始末を他者に頼ることに関して<「私なら耐えられない。私なら死を選ぶ」>と世間の人々は言うが、それは間違いで<彼女のように生きること。そこにこそ人間の尊厳があると思う。本当の涅槃がそこにある。>と主人公・釈華は考える。排泄も何もかも人の手を借りて生きることは恥ではなく、むしろそうしてでも死なずに生き抜くこと自体が尊く、生きながら、釈迦が死んでからしか辿りつけなかった涅槃を知り得ることができるかもしれない障害者には尊敬の念を感じる。
 
 『ハンチバック』において、「涅槃(ニルヴァーナ)」の対義語的存在として登場した言葉・概念は「ルサンチマン」(弱者が敵わない強者に対して内面に抱く憤りや嫉妬など負の感情、弱者が善で強者が悪という価値の転倒のこと)だった。ルサンチマンがテーマと言えるほど、障害者という弱者であるはずの釈華は健常者という強者、健常者優位の社会に対する不満を吐露していた。本作で弱者とみなされたのは障害者、女性、貧困層であり、強者とみなされたのは健常者、男性、富裕層だった。釈華は女性障害者だから弱者に当てはまるが、お金に余裕がある点で、時に男性より優位になれる場合があり、強者に近い弱者とも考えられる。女性障害者という弱者の自分が強者に負けないために、男性をてのひらの上で転がせる風俗嬢の話や男性の性欲を満たせるようなエロい記事を執筆していたのかもしれない。

<田中さんのルサンチマンを吸っている感じで、いい。>

と、釈華が初めてフェラチオを経験した時、彼女は優越感に浸っている様子だった。新たな命を作り出す使命を果たすことなく、ただ抜き捨てられることの多い虚しい存在の精液もまた、ルサンチマンそのものなのかもしれない。卵子は卵巣から卵管に移動する程度で基本、動くことはなく受け身だが、精子は受精するために卵子の元へ泳ぎ続けなければならない。精子の積極的に動き続けなければならない宿命を考えると、命を生み出す場、つまりエロにおいてのみ、男性より女性が優勢の気がする。男をイカせ、男のルサンチマンを我が身で受け止めることのできる女は男に勝った気分に浸れるだろう。命を孕めるのは女性だけということもあり、繁殖においては女性の方が強者であるといえる。
 基本、弱者の釈華は生きづらさと息苦しさを抱えており、その分、ルサンチマン的感情を抱くことが多い。後に詳しく説明するが、強者が高級車やブランド物を持ちたがるように、釈華にとっては胎児も本も強者のみ持てる特権のように思え、ルサンチマンを孕む存在だった。彼女にとっては読書も中絶もまるで同じ次元で、それらを容易くできる健常者という強者に、憧れにも近いルサンチマンを抱いているようにも見えた。
 
 障害者に与えられやすいニルヴァーナとルサンチマンを追っているうちに、人間の尊厳、障害者の尊厳とは何かということを本作で常に考えさせられた。釈華は「ミオチュブラー・ミオパチー」という病気で、せむし(ハンチバック)のように背骨がS字に湾曲している。自身のことを何度も<せむしの怪物>と自虐的に表現している。確認できただけでも<せむしの怪物の呟き>、<本に苦しむせむしの怪物の姿>、<天涯孤独の無力なせむしの怪物>、<せむしの怪物>とそのワードを畳みかけるように繰り返すことで、徹底的に弱者として貶めている。他にも<私の細長いミオパチー顔貌>、<高齢処女重度障害者>など卑下する表現は少なくない。
 
 彼女は<実生活ではうら若く真面目で寡黙な障害者>といういわゆる健常者が想像しがちな清らかな障害者像を貫いていたが、<Buddha>というアカウントや<Shaka>というペンネームを使い、金になるエロい記事やエロ小説を密かに執筆していた。紗花というアカウントのツイッターには<妊娠と中絶がしてみたい、普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢です>と冗談やおふざけではなく、赤裸々な本音として投稿していた。作中で彼女は誰からもいいねをもらえないアカウントで呟くが故に、炎上しようがなかったが、『ハンチバック』という作品を通して作者の内に秘めた思いは確実に、「リプロダクティブ・ヘルス・ライツ」(性と生殖における個人の自由と法的権利)をもっと真剣に考えねばならないきっかけを社会に投げかけていた。
 
 子をもうけること、もうけないこと、避妊すること、中絶することなどすべてはカップルまたは個人に平等な権利として与えられている。はずなのに、常々社会は健常者(強者)が優位であり、人間が生きる上で核となるこの分野においても障害者(弱者)はおざなりになっている。そもそも障害児が存在しないように、優生保護法を掲げ、障害者に対して不妊・去勢を半ば強制的に行っていたおぞましい過去が日本にはあったし、その法律の名称が母体保護法に変わった現在においても、未だに障害者を妊娠させないように障害者施設等では異性同士の恋愛を禁止し、結婚を望む場合は退所を求めるなんて施設もあるらしく、障害児が生まれないことを望む社会の本質はほとんど変わっていない。母体保護法に変わっても、むしろ医療の進歩のおかげで出生前診断も可能となり、胎児が障害児と分かると堕胎を選択する母親も少なくない。優生保護法時代と何ら変わらない。未だに<障害者殺し>は公的にまかり通っている。まるで障害者は「リプロダクティブ・ヘルス・ライツ」から排除されてしまっているようだ。
 
 性と生殖の権利を与えられる前に、そもそも命と生きる権利を奪われてしまっている。釈華は<だったら、殺すために孕もうとする障害者がいてもいいんじゃない?>と考える。それは一見、おぞましく醜い考えのような気がして嫌悪感を抱く人も少なくないかもしれないが、生まれることのできた障害者は、健常者と同じように妊娠し、中絶したいと考えていい権利があるはずだ。できることなら、中絶ではなく、産んで育てたいのかもしれない。<私の曲がった身体の中で胎児は上手く育たないだろう、もちろん育児も無理である、でもたぶん妊娠と中絶までなら普通にできる。>と釈華がツイッターで呟いたように、自身の身をわきまえての発言だったから。
 
 <あの子たちのレベルでいい。子どもができて、堕ろして、別れて、くっ付いて、できて、産んで、別れて、くっ付いて、産んで。そういう人生の真似事でいい。>と彼女は同級生の女の子たちを羨んでいた。身体の不自由な彼女が真似できるのは、<子どもができて、堕ろして>までだった。その後の過程までは望めないと分かっているから、<中絶がしてみたい>とぎょっとすることを真剣に願えたのだろう。
 
 <中絶がしてみたい>という言葉は強烈なインパクトを与えるが、女性の多くは「妊娠してみたい」までは頭を過ることはあるだろう。特に、閉経までそれほど猶予がなくなってくると。実際、私もそうだった。子どもなんて好きじゃないし、そもそも出産や育児するだけの経済力も体力もないくせに、漠然と「妊娠してみたい」と思うことが高齢出産と呼ばれる年齢になって以降、強まった。仮に妊娠できたとして、中絶するしかない、中絶すればいいと釈華と同じことを考えていた。おそらくそれは本能なのだろうと思う。結局、人間も繁殖に命をかける生き物たちと同類だから。命が短い生き物たちほど、生きている間は繁殖活動しかしない。むしろ繁殖するためだけに生きていると言っても過言ではない。ホタルやカゲロウなんて成虫になったら口が退化して、飲まず食わずで命が尽きるまで繁殖行動するのみ。種を残そうとする執念が本能的に備わっている生き物たちのことを知ると、人間だってそうかもしれないと思う。人間はたまたま道具や文化を手に入れたおかげで、繁殖活動以外の部分に生きがいを見出し、わざわざ命がけで子孫を残そうとする人も減っているけれど、妊娠できなくなるリミットが迫ると、妊娠してみたいかもしれないという本能が急浮上するから不思議だ。
 
 19歳という遅い年齢で初潮を迎えた釈華も<初潮が遅い者は閉経が早い>という俗説を信じ、妊娠できるチャンス<人間になれるチャンス>はそれほど多くないと自覚している。生理(排卵)があと何回訪れるだろうと数え始めた年齢の女性はどんなに大人しく冷静に生きていたとしても、本能が開花して、「妊娠願望」に囚われるようになるのかもしれない。その延長で「中絶願望」が芽生えるのも人間の性だろう。できることなら産んで、育てるという健康な女性が当たり前のようにできる一連の命の営みを経験してみたい。けれどそれはできないと身の程を知っているからこそ、せめて堕胎までは経験したいという母性本能が備わっている気がする。中絶を母性で片付けられるかという話になるが、おそらく産めない、生かせないと判断することも、母性の一種だろうと個人的には考えている。無理して産んで、自分は出産でさっさと死んで、誰かに新たな命を任せるなんて、母親として無責任だと思うし、それならいっそ胎内に命を宿すという経験だけして、迷惑をかけないうちに子を始末するのも母親の使命というか母性の侘しさかもしれない。
 
 殺す目的なら、そもそも妊娠を望まなきゃいい、殺すことを前提に妊娠するなんてとんでもないと正しそうな大人たちは口を揃えて言うけれど、人間も生き物だから、一度本能や母性が暴走し始めたら、自分をコントロールすることは難しい。命を宿すという経験そのものがこの世に生を与えられた意義であるように感じ、たとえ産んであげられないとしてもとにかく授かりたいと悪あがきしてしまう。予期せぬ妊娠で、できてしまった女性たちが「堕ろせば済む」とまるで何事もなかったかのように、安易に中絶しているように思えるから、中絶が悪であると言いきれないような感覚になってしまい、どんな命でも授かるのは祝福すべきことと妊娠を望んでしまう。そういう気持ちが分かるから、釈華に共感してしまった。
 
 容易に諦めて中絶しているように見えても、実は違って、葛藤や後悔を一生引きずることにもなるから、安易に中絶に救いを求めることは、本当はよろしいことと言えないけれど、でも妊娠したい気持ちはよく分かる。妊娠して、命を感じられたら、本当の意味で人間になれる気がするから。女性という存在は知らず知らずのうちに妊娠というその目的を達成するためにホルモンたちに操られて生かされているのかもしれない。だからしたくもない恋愛や、疲れる恋も必然的にしてしまうのだろう。釈華が作り出したエロ小説の中で紗花というホストにはまる性交好きな女子大生がいるように…。しかし釈華が紗花を作り出したのではなく、紗花の回想または逆に紗花が作り出した釈華とも読み取れ、実は主人公は釈華ではなく、紗花の方だったのではないかと思わされるラストの下りだった。紗花が孕むであろう子は、単に<釈華が人間であるために殺したがった子>ではなく、紗花の兄に殺されたという釈華自身の生まれ変わりという命も含むかもしれないと個人的には思った。釈華と同じ病気と似た運命をもつ子を紗花は贖罪の気持ちから存在させようとしているのだろうと。そして殺すより残酷な生かす道を選び、輪廻転生の命と共に生きようとするかもしれない。兄が殺した分、せめて彼女の意志は生き返らせてあげようと紗花なりの思いやりだろうが、それは釈華からすればありがた迷惑の可能性もある。きっと紗花の兄に殺されることは本望だったのだろうから…。とすれば、母親が中絶を選び、育ちきる前に母胎から引きずり出され、心拍が尽きる子も、母になら殺されても構わない(仕方ない)と菩薩のような寛大な心で、儚い命と我が死を受け入れ、潔くこの世から去るのかもしれない。けなげな命は去り際、煩悩だらけの母親失格の母に、一生分の愛と母性を与えて…。
 
 障害の程度によるけれど、そもそも障害者は性的な行為が難しいということも本作でより深く知った。障害者が涅槃の境地に達していると思い込んでいるが故の偏見だとすぐに気づいたが、釈華はエロ小説を書いた後、<「蜜壺」をひくつかせ>たのか、パンティライナーを濡らしていた。あぁ、障害者の彼女でも性欲はあって、そういう生理現象は起きるんだなと意外に思ってしまった。人間だから障害者にも男女問わず、性欲はあって当たり前なのに、なぜか健常者より障害者の方が性的興奮は少なく、貞操観念もあるように思われがちだ。障害者には性的なことは必要ないと、性欲に蓋をしてしまう場合だってある。例えばムラムラした気持ちになった時、自力で処理できるならまだ良いとして、身体を自由に動かすことが困難な彼女のような障害者の場合は、自慰行為も難しいだろう。女なら性欲を抑えられるとか、我慢できるはずと思われていたら困る。妊娠したいと望む以上、抑えきれない性欲があるはずで、だからこそ、エロい記事やエロ小説を書いて満たされない欲望を満たそうとしていたのかもしれない。書くことによってますます性欲を刺激することになるとしても…。
 
 男性障害者向けのデリヘルは聞いたことがあるものの、女性障害者向けのデリヘルはほとんど聞いたことがない。作中では<セラピスト>という女性用風俗の施術師を指す言葉が登場したが、そもそも健常者でも女性が風俗に行くことは敷居が高く、障害者女性となればさらにハードルが上がるだろう。(女性)障害者向けのデリヘルサービスをもっと普及させるべきではないかと思った。生身の人間がサービスするのが難しいなら、自慰を介助してくれる人肌に近いロボットでも開発してくれたらいい。利用する側もロボットだと思えば、要求しやすく、利用しやすい可能性があるし。
 
 自力での自慰行為だけでも難しいというのに、妊娠するために避けて通れない性交はさらに難問だろう。ヘルパーの田中さんに裏垢を見破られ、正体に気づかれた釈華は彼と契約を結んだ。両親が娘のために遺した多額の財産の一部と引き換えに、性交して彼の精子をもらうことを…。胎児殺し前提での妊娠の共犯者を<田中さんとの子どもなら呵責なく堕胎できる。私は確信した。>と表現するほど好きにはなれない弱者男性の彼に、彼女は選んだ。性交する前に、「精子を飲ませてほしい」と彼女はフェラチオを始めた。しかし人工呼吸器を必要とする彼女には気管切開口にカニューレ(管)が挿入されている。つまり鼻や口で呼吸はできず、痰も自力で出すことはできない。声も自由に出せない。彼女の口内で彼が射精した後、彼女は彼の精液で命の危険を感じるほどむせてしまう。結局、本番の性交はできず、フェラだけで終わったものの、誤嚥性肺炎で入院することになった。健常者が簡単にしているフェラチオさえ、命に危険を伴うというのに、性交となればさらに身体に負担はかかり、リスクを伴うだろう。それなのに彼女はお見舞いに来た彼と性交することをまだ諦めていなかった。<「死にかけてまでやることかよ」>と彼は言い放っていた。たしかにそうかもしれず、どうせ殺す命を命がけで孕みたいなんてふざけているように聞こえるかもしれないが、殺すからこそ、死にかけてまで命をかけてやるべき行為なのかもしれない。出産が命がけなら、妊娠することも中絶することも命がけなのだろう。特に障害者にとっては。
 
 私は一応健常者だけれど、心身共に健康的ではない方だから、気持ちは障害者に近いと思っていた。だから妊娠できたとしても、中絶するしかなくて、出産、育児は考えられない。でも、妊娠するために必要な性交は命をかけるほど難しくはない。難なく声も出るし、身体も動かせるから。だから私は一応ではなく、健常者なのだと気づいた。産めないとしても、性交ができるということは幸せなことで、恵まれているのかもしれないと。それに釈華とは逆に、初潮が早かったからもしかしたら閉経は遅いかもしれない。それならまだもう少し可能性はあるかもしれない。そう考えると、釈華と同じく、諦めきれない。健常者なら、高齢でも産んで育てることができるかもしれないと高齢妊娠・出産という無謀な夢を見てしまう。

 性的行為のみならず、重度障害者は日常生活のすべて、特に紙の本の読書にも身をすり減らしていることを本作で知った。今の時代はタブレットやスマホで電子書籍を読めるから昔と比べたら良いのかもしれないが、電子書籍が普及してなかった時代は一体どうやって読書していたんだろうと考えさせられた。釈華が敵意剥き出しで安々と読書できる「本好き」の健常者たちの傲慢さを憎む描写で、障害者が本の読書難民になってしまっている現状に気づけた。健常者からすれば読書なんて優雅な趣味のひとときに過ぎないかもしれないが、障害者は長時間読書するにも体勢を維持するのが困難で、本の内容を読む以上に読む姿勢を維持するのに頭を酷使していることも知った。たったひとつの動作をするにも、身体を酷使し、すべてが過酷な運動になっているのだと。車椅子生活で自力での歩行が困難な障害者の場合、本当の運動なんてできないし、釈華のように施設暮らしで外に出かけることもできず、年中施設内で生きている人たちにとって、救いとなるべき娯楽や趣味と言えば、真っ先にテレビや本が思い浮かぶけれど、分厚い本を持ち続けることさえ困難で読書という拠り所まで体力が持たずに奪われてしまったのではたまったものではないだろう。『ハンチバック』というこの本は1cm程度の厚さであり、釈華が読むのに苦しむ3、4cmの本と比べたら、彼女のような障害者にやさしい本といえる。
 
 釈華がしている執筆活動だって、長時間座ってタブレットを操作し続けるその行為も、やはり体力を消耗し、命を削ることにつながっていた。

<本を読むたび背骨は曲がり肺を潰し喉に孔を穿ち歩いては頭をぶつけ、私の身体は生きるために壊れてきた。生きるために芽生える命を殺すことと何の違いがあるだろう。>

釈華は身体に鞭打ち、死に向かってひたむきに生きていた。殺めるために命を孕むことも彼女にとっては生きがいであり、生命を維持するために必要な救いとなる考えなのだろう。呼吸器が生命維持に必要なのと同じくらい、人間としての尊厳を守る上でも、中絶願望は彼女にとって必要不可欠な拠り所だったのかもしれない。
 
 読書、性的接触…何をするにも命がけで、特に読書に関しては健常者優位主義の社会に対する鬱憤を募らせているものの、呼吸器のおかげで口からは長文を発することさえできない彼女が身につけた生きる術は、強者に勝てるかもしれない武器・エロを書いて、中絶を望むという、健康だけが取り柄で性交しまくっている普通の女の子たちが当たり前のようにしている性欲を解放させるという行為だった。
 
<下品で幼稚な妄言を憚りなく公開しつづけられた。蓮のまわりの泥みたいな、ぐちゃぐちゃでびちゃびちゃの糸を引く沼から生まれる言葉ども。だけど泥がなければ蓮は生きられない。>
 
釈華は自身が命がけで紡いでいる言葉たちをそう表現した。命というものは本来そういうものかもしれない。男女が愛し合って宿る尊い命もあれば、愛し合わずとも欲望の赴くままに性交し、快楽を求め合うだけで宿る命もまた尊いから。愛のある性交だとしても、二人の愛の結晶がほしいと願う時点で、それは親たちのエゴでしかなく、命は純粋な思いのみで形成されるわけではない分、心底綺麗な物とは言い切れない。命は尊くて美しいものであり、生まれる前の胎児は生まれた人間なんかより、すべてを知っていて、叡智を与えられていて、神に近く、つまり涅槃と言えるほど安らかな心を持って生きていると崇高な存在と扱われることもあるけれど、それは理想論でしかなく、実際は親たちの泥のようなドロドロの欲望やエゴの産物によって胎児という命は作られるのだから、命は卑しさも秘めている。
 
 子どもが親を選んで空からやって来るなんて夢見がちな私に対して、友人は「やったらできるんだよ、やったからできたんだよ」と現実を教えてくれた。つまりそういうこと。快楽を求めて、やりたくてやった結果、命を授かる場合もあるから、命はやっぱり欲望の産物で、命が育つ環境だって、泥ではないけど血液の集合体みたいなものだから、傍から見ればそんなに気持ちの良い環境ではない。マタニティハイになっている母親だと、大切な我が子を育む自分の血液一滴さえ尊いなんて感動してしまうものだけど、胎児からすれば母親がへその緒を通してくれるものが生命のすべてだから、母親の血液は大事かもしれないけど、母子以外からすれば、血の沼で生きるなんて決して気持ちが良いとは思えない。子宮は命を宿せる神聖な場所だけど、生理や妊娠の際は血が集まる分、衛生的とは言えない。だから火葬の義務がない十二週未満で中絶する場合は、衛生面も考慮して引き取らせてもらえないのだろう。自宅のトイレ等で流産してしまった場合は、胎児を司り、象る自身の血液を掬うことも可能かもしれないけれど…。
 
 へその緒で思いついたが、管で生命を維持している釈華は、自身を胎児に投影していたのかもしれない。へその緒という管につながれて生きる自分の分身のような命を、管につながれた自身の身体に宿してみたかったのかもしれない。痰を吸引する描写で、<カテーテルの先をカニューレに突っ込む。何度か「抽送」して気管内の痰を釣り上げるように吸う。>なんて書かれており、「抽送」(ピストン運動)という猥語の紹介だったから、管の下りは性交を揶揄するための表現と思い込んでいたけれど、へその緒につながっていないと生きられない胎児を彷彿させる描写でもあった。胎児はへその緒を通して、母胎から酸素や栄養をもらって何とか命をつないでいる。成長するにつれてどんどん狭くなる広くはない空間(子宮内)で。それを考えると、十畳ほどの部屋で暮らし、管や呼吸器を必要とする釈華はまるで胎児と同じで、彼女は心細い胎児の気持ちに寄り添える生き方をしている人だと思った。胎児というまだ不完全で心許ない命にも意志があり、中絶手術で掻き出されたり、吸引される際、逃げる素振りを見せることがあると何かで読んだことがある。痰の吸引描写は、性交のピストン運動のみならず、フェラチオや中絶のメタファーかもしれない。釈華は管を通すことや、吸引に慣れているから、フェラも性交も中絶も似たようなものでたいしたことないと思えたのかもしれない。
 
 つまり、命なんてそんな綺麗なものでなく、むしろ生きるということはみっともないことも避けられず、誰しも生命線になる管のような何かにすがりつついて必死に生にしがみつくしかなく、無様で泥臭いものなのだろう。泥臭く生きていれば、時に蓮のような美しい心や希望、感動に出会える場合もあるから、人間は生まれたら何だかんだ生に執着してしまうのかもしれない。死にたいほどつらくても、エロでも中絶でも何でも、何かに救いを見出して、生きようとするのかもしれない。中絶願望を心に秘めることが生きる術なら、それを取り上げることをしてはいけないだろう。障害者だから、妊娠や中絶なんて御法度と咎めたら、彼女は生きていられなくなるかもしれない。中絶するために妊娠したいと<釈華が人間であるために>抱き続けた極論こそ、蔑むべき妄言なんかでなく、究極の「リプロダクティブ・ヘルス・ライツ」の尊い具体例だと思った。
 
 命や生殖活動は美化され荘厳であると同時に、卑猥なエロスや愛の泥沼といった穢れと切っても切り離せず、いかがわしさや汚らしさも孕むものだから、悪とみなされがちの中絶さえも、母親に見捨てられ、水子となる涅槃の命は赦し、抱擁してくれる気がした。中絶されてしまう命こそ、涅槃の境地に辿り着ける釈迦そのものであり、仏陀なのかもしれない。ハンチバックの怪物の釈華は釈迦を、仏陀を生み出そうとしていたのか…。

 この文章を7000字書いた時点で疲れた私は一旦、お風呂に入ることにした。ふと釈華の入浴介助の描写を思い出した。身体を洗ってもらってはいたけれど、湯船に浸かっている描写はなかった。洗髪もどうしているんだろうと湯船に浸かりながら疑問になった。重度障害者で毎日入浴できている人は多くないだろう。本来、心身をゆっくり休められる場であるはずの、風呂場でも、誰かに頼らざるを得ず、もう少し、障害者に対する入浴サービスも向上すればいいのにと思った。人手が足りないのは分かるから、誰にも邪魔されず、ひとりでくつろぐためにも、入浴もすべてロボットが担えるようになればいい。入浴介助ロボットくらい、現代の技術を駆使すれば作れるだろう。
 
 ルサンチマンなど、短調なテーマを取り上げているのに、描き方や雰囲気は滑稽で長調だから読みやすい作品だった。エロから入り、エロで終わる辺り、男性の心も掴みやすく、思わず手に取りたくなる仕掛けが絶妙。釈迦や涅槃など仏教かと思いきや、聖書(黙示録)の文言も登場するので、多様な宗教観も感じられる。
 
 障害者や弱者を取り巻く諸問題…読書、入浴、性に関してなど、「ミオチュブラー・ミオパチー」を患っている当事者の作者だからこそ、繊細に鮮明に問題提起できた気がする。ほとんど声も出せず、きっと喘ぐことも、歌を口ずさむこともままならない彼女が、不幸せを強みに、オペラのコロラトゥーラのように声を転がしながら、喘ぎながら発するように紡ぎ出した言葉のひとつひとつにはたしかな命が宿っていた。子宮ではなく、言葉に命を宿し、胎児を中絶するかのように、痰と共に吐き捨てているように思えた。せむしの怪物と自虐する彼女の奥底から抽送される言葉たちは命となり、吐き出されるそれはルサンチマンとニルヴァーナを孕む存在だからこそ、救いを求めながら生きる私たちの拠り所となり得る傑作だと、母性の怪物と化している弱者の私は考えた。ルサンチマンとニルヴァーナが共存している彼女の言葉は、命ある吐しゃ物であり、諸行無常のこの世にて、弱者が生きる上で必要な救世主のような久遠の肥やしとなり、輪廻転生を繰り返すだろう。

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