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「菅波光太朗物語~僕の母と父をみつめて、そして子への思い~『おかえりモネ』二次小説」

 落葉樹の葉が色づき始める頃になると思い出す。星のような、てのひらみたいな形の黄色く染まった葉っぱを拾いながら、猫背で一人とぼとぼ歩いた帰り道のことを…。うつむいた僕の瞳からは涙がこぼれて、足元は蜃気楼のようにかすんだ。次の一歩を見失ってしまった僕は怖くなって立ちすくんだ。すべてを飲み込むように途方もなく続く暗闇の中、ぼんやり光る街灯の明かりを目印にして、涙を拭いながら、僕はまた自分の足でゆっくり歩き始めた。

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《どこだろう 今痛んだのは 手を当ててから解らなくなる 名前のない 涙がこぼれて 体の壁が解らなくなる 世界は蜃気楼 揺らいで消えそう 呑み込まれて連れて行かれそう》 BUMP OF CHICKEN「コロニー」

 僕はその頃、ひどく落ち込んでいた。呼吸器の医師として初めて担当した肺の病気を患っていた宮田さんの治療判断を誤ってしまったからだ。命こそ救えたかもしれないが、ホルン奏者だった彼の人生を変えてしまうような過ちだった。命は助かっても、生きがいを失ってしまったら、患者さんは充実した余生を送れないだろう。僕は彼に一生、背負うことになるかもしれない生きづらさを与えてしまったのではないか、音楽家としての彼の人生を奪ってしまったのではないかと、判断の甘かった自分を情けなくなり、後悔していた。それは初めて味わった挫折だった。自分は正しいと信じてしまった僕は、なんて愚かで無力な人間なんだろうと自分に対して嫌気がさしていた。

《聴こえた自分の音は 正体を当然知っていて 響いたら正しい矢になって戻ってきた 卑怯者 鏡の奥に 気付く前に目を背けた 助けを呼ぶひとつひとつ 狙い合う》

 患者さんの個人情報は守秘義務があるし、病院での失態を誰かに話すようなことは決してしなかったけれど、傍から見ても明らかに落ち込んでいる様子の僕を励ますためか、母は手料理を持参して、一人暮らししていた僕のマンションに足繁く通うようになっていた。そもそも子離れできていなかった母は、僕が大学生になって一人暮らしを始めた頃からしょっちゅう息子の様子を見に来ていた。合鍵を使って、勝手に掃除や洗濯をし、食事の準備までして待っていることさえあった。学生の頃は金銭的にもまだ親の世話になっていたため、仕方ないかと我慢していた。

 研修医になり、自分の力で部屋を借りることができた時、ようやく自立できたと思った。しかし母は、「一人暮らしの光太朗さんに何かあった時、様子を見に行くのは親の務めだから、合鍵を渡してちょうだい。奥さんがいるならともかく、あなたはまだ独り身なんだから心配よ。」と僕に鍵を渡すように迫った。母は言い出したらどうにもならない性分と分かり切っていたので、仕方なく合鍵を渡した。

 研修医になったこの頃から、母は僕のことを「光太朗さん」と呼ぶようになっていた。父のことを「恵太朗(けいたろう)さん」と呼ぶように…。僕が思うにおそらく一応、一人前の大人になったという証で、息子のことを「さん」付けするようになったのだと思う。恥ずかしいからやめてほしいと言っても、母は僕のことを「光太朗さん」と呼び続けた。

 大人になったと認める素振りを見せたかと思えば、一方で母は僕のことをいつまでも子ども扱いする向きもあり、学生時代と変わらず、「何かあった時」の合鍵をしょっちゅう使って、相変わらず勝手に上がり込んで、掃除やら洗濯をしていた。なので一人暮らしのはずなのに、母と顔を合わせる機会も多く、母はいち早く僕の異変を察知した。「何があったの?」と尋ねることはなくとも、宮田さんのことがあって以来、母は僕の好物ばかりたんまり用意して、それまで以上に一人暮らしとは思えないほど実家感のある、栄養バランスも良く彩り豊かな料理が自動的に食卓に並べられていた。当直勤務もあるし、料理なんてしない忙しい僕にとってはありがたいことではあったけれど、それが頻繁すぎると煩わしさを覚えた。

 だからあの日、僕は母にあんなことを言ってしまった。
「あのさ、母さん、料理とかしてもらってありがたいけど、僕ももういい大人だし、そもそも一人暮らししているはずだし、勝手に上がり込んでいろいろするのはやめてくれないかな?」
「光太朗さんの健康を気遣って、お世話をしてくれる奥さんがいたら、こんなことしないわよ。あなたの世話を焼くのはあなたが結婚するまでの期間限定よ。こんなことをできるのは残りわずかだと思うと寂しいわね…。」
なんて母は悪びれる様子もなく、ため息を吐いた。
「だから、そういうことじゃなくて、僕はそもそも一人暮らしがしたいんだよ。たとえ彼女がいたとしても、こんなに何から何まで自分のことを全部してもらおうなんて思わないし。そもそも母さんがいたら、彼女もできやしない…。というか今の僕には恋愛や結婚は必要なくて、医師として一人前になりたいだけなんだよ。僕はまだまだたくさん勉強しなきゃいけないし、一人の時間が必要なんだ。はっきり言うけど、母さんが邪魔なんだよ。」
母は僕の背中をポンポンとさすりながらこう言った。
「光太朗さんの気持ちはよく分かるわ。勉強熱心だし、根詰めて勤務しているから疲れてしまって、八つ当たりしたくなる時あるわよね。母さんでよければいくらでも愚痴を聞くから。言えないことも多いだろうけど…。あなたが勉強に集中するために、これからも母さんが家事全般してあげるから、安心してやりたいことをしなさい。母さんができることはこれしかないもの…。」
僕の言葉を悪く捉えようとしない母は態度を変えることなく、微笑んだ。息子の世話をできなくなるのが嫌で分からないフリをしているのか、それとも本当に鈍感で僕の気持ちを分かってくれないのかどちらかは分からないけれど、子離れしてくれそうにない母に向かって僕は語気を強めた。
「母さん、あのさ、悪いけどしばらくの間、合鍵返して。本当に僕は今、一人になりたいんだよ。ほっといてほしい。」
息子に本気で愛想をつかされていることがようやく分かったらしい母は寂しそうに呟いた。
「光太朗さん…分かったわ。今は一人になりたいのよね。一旦、合鍵は返すけど、落ち着いたらまた母さんに渡してね。せめてお料理は届けたいから…。」
母は返したくないと躊躇するように、僕の手に合鍵を落とした。
「また来るからね。うちにもいつでも帰ってきていいのよ。恵太朗さんもあなたが顔を出してくれること、楽しみにしてるんだから。」
母はそんなことを言って、後ろ髪をひかれるように静かに僕の部屋を後にした。

 僕は母に何も言うことなく、むすっと不機嫌な顔をして母を見送った。いつものように僕のために用意してくれた食事も箸をつける気になれなくて、ほとんど残してしまった。ちょっときつく言いすぎてしまったし、後味は悪いけれど、これでやっと母から解放されたと合鍵を返してもらってほっとしたことだけは覚えている。

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 それから一時間ほど過ぎた夜九時頃、携帯電話が鳴った。
「光太朗…母さんが…光子(こうこ)が…事故に遭って、病院に搬送されたよ…。」
それは父からの電話だった。母さんが事故に遭ったってどういうこと?容態は、命は大丈夫なんだろうか。もしかして僕がひどいことを言ってしまったから、ショックで運転ミスしてしまったのかもしれない…。そんなことを考えながら、僕は母が運ばれた病院に向かった。

《側にいて 行かないで 微笑んで 頷いて 側にいて 行かないで 重なって 音を聴いて》

 幸い命に別状はないと分かり、胸をなでおろしたものの、脊髄を損傷しており、下半身に麻痺が残るかもしれないと担当医から告げられた。まだ経過を見ないと分からないけれど、歩行困難となり、車椅子生活になる可能性もあった。僕は医者だというのに、こんな時、何もできない自分が歯がゆくなった。ただ母に後遺症が残らないように祈ることしかできなかった。やっぱり僕は無力だった。

《見つけた事 失くした事 心が作った街で起こった事 こんなに今生きているのに 嘘みたい 掌で教えて》

 産婦人科医の父の元に嫁いだ母は、息子の僕が言うのも何だけど、完璧な人だった。朝は誰よりも早起きして、いつ来客があってもいいように身なりをきちんと整え、父と僕のために手作りの朝食を用意し、笑顔で僕らを見送ると、家事の傍ら、訪問客の接待もこなしていた。趣味でピアノもたしなんでいた。父や僕が帰ってくる頃には手の凝った夕飯を準備し、「おかえりなさい」と迎えてくれた。外出することも好きで、時間があれば一人でどこまでも運転していた。母が運転する車で、三人で出かけることもあった。産婦人科医として忙しく働く父に代わって、家のことは完璧にこなし、かつ自分磨きにも余念がなく、心身共に美しい人だった。ショートスリーパー体質なのか常に睡眠時間三時間程度の母は夜遅くまで裁縫をしたり、読書をしたり、就寝する間際まで活動的だった。おそらく父にとって自慢の妻で、息子にとっては自慢の母だった。少々、家族の世話を焼き過ぎる一面はあったものの、料理も裁縫もピアノも何でもできる母のことが僕は子どもの頃、大好きだった。大人になってからは邪険にすることもあったけれど、今でも好きだと胸を張って言える。

 特に母の手が好きだった。料理をこしらえる手、裁縫する手、洗濯物を畳む手、ピアノを弾く手、それから僕の頭をやさしく撫でてくれる手…。何でもできる母の手は魔法のようだった。そしていつでも温かかった。家事をする母の手をぼくは飽きることなく眺めていられた。「光(こう)ちゃんもピアノ、弾いてみる?」と母からピアノを教えられたこともあったけれど、僕はあまり上達しなかった。(幼少期の僕は母から光ちゃんと呼ばれていた。それから光太朗、光太朗さんと呼び方は変わっていった。)父からキャッチボールを教えてもらえなかった僕は、どうにもキャッチボールが苦手で、ボールをキャッチできないことを学校でバカにされたと泣いて帰ることもあった。その度に、母は「光ちゃん、人にはそれぞれ得意なことと苦手なことがあるのよ。光ちゃんはキャッチボールやピアノは苦手かもしれないけれど、お勉強が得意じゃない?得意なことを伸ばせばいいのよ。そうすれば自分に自信が持てるから。光ちゃんにも得意なものはたくさんあるんだから、大丈夫。」と言って、僕の頭をやさしく撫でてくれた。僕は学校でからかわれるのは嫌だったけれど、泣いて帰ると母にいつも以上にやさしくしてもらえて甘えられるから、たまにはからかわれるのも悪くないなと思っていた。小さい頃、泣き虫だったのは、単に母に思い切り甘えて、母の手の温もりを独り占めしていたかったからかもしれない。

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《重なった 優しい温もりに しがみついたまま震えた》

 その大好きで大切な母が自損事故を起こしてしまった。後に母は「ちょっと運転ミスしてしまったの。心配かけてごめんなさい。」なんて言ってたけど、父より運転が上手で安全運転、ゴールド免許保持者の母がミスするなんて、よっぽどのことでやはり事故の直前に僕が母につらく当たってしまったからではないかと、責任を感じるようになった。母を精神不安定な状態で運転させてしまったのは自分の責任だと思った。

 宮田さんのことがあって間もなく、母の人生まで台無しにしてしまったのではないかと思うと、自分のことが恐ろしくなった。医師としてというより、人間としての自信を無くしていた。この頃、母に後遺症が残らないか不安なのと、ストレスのせいか、奇妙な感覚に陥っていた。マンションまでの帰り道、一人で歩いていると、荷物を持っていない方の空いている手に母の手の感触がする気がして、驚くことがあった。気のせいだと分かっているから、まだ良かったものの、もしもそれが気のせいではなく、現実のものだと思い込んでしまったら、「幻触」という精神的な病に当たる。おそらく母が元気だった頃はまた母が来ているかもしれないなんて考えながら帰ることが多かったから、母のことを思い出して手の温もりが蘇ってしまったのだと思う。母に負い目を感じていたため、幻触のような不思議な体験をしたのだろう。

 母の手の温もりが蘇ると、手を引かれて歩いた幼少期も思い出し、母と手をつないで歩いたように、街路樹の手の形をした小さな落ち葉を拾い、それをてのひらの中に隠し包みながら家路についた。てのひらのような、星のような形の黄色い葉っぱを手の中で抱きしめながら、ゆっくり歩いた秋の夜長…。その幻触のような体験は一時的なもので、あの頃以来、現れてはいないけれど、紅葉の季節になると未だに思い出してしまう。

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《あの時みたいに出来るかな 心が作った街で起こった事 こんなに今生きている事 触ったら 同じように応えて》

 母には結局、半身不随の後遺症が残ってしまった。上半身は動かせるけれど、下半身は自分の意思では思い通りに動かせなくなってしまった。脳の損傷ではない分、言語障害や意識障害はないものの、脚が不自由になってしまったため、運転はもちろんできなくなってしまった。母は手を動かせるから大丈夫と気丈にふるまっていたけれど、母の脚の自由を奪ってしまったのは自分の気がして、やるせない気持ちになった。

 父に迷惑を掛けたくないと、母は退院した後、自宅ではなく施設で暮らすことを自分で決めた。父は自宅にヘルパーに来てもらえばいいだけだと家に戻るように促したけれど、言い出したら誰のいうこともきかない母は、私は施設の方が気軽だし、あなたのためにお手伝いさんを雇ってねと笑っていた。それまで家のことを完璧にこなし、朝から晩まで動きっぱなしだった母はきっと動きにくくなった身で自宅には居づらかったのかもしれない。自分が安心できる居場所は自宅ではなく、施設だと考えたのだろう。仕方なく、父は母が不自由な思いをしなくて済みそうな快適な施設を探し出し、母はそこへ入居した。つまり、自宅に戻らないと決めた母は当然、僕の部屋にも二度と来ることはなかった。あれだけ合鍵をまた渡してねと合鍵をほしがっていた母は、もはや自分の力で僕の部屋に足を運ぶことさえできなくなっていた。こんなことなら合鍵くらい、ずっと預けておけば良かったと後悔した。どんなに煩わしいと思っても、母が部屋に来ることくらい、目をつむれば良かった、母に悲しい思いをさせなきゃ良かったと悔やみ続けても、母の脚が治ることはなかった。

 「施設なら何かあればいつでも助けてくれる人がいるから、心配しないで。来なくていいからね。」と母からは言われていた。でも僕は時々、母の様子を見に施設に行った。立場が逆転し、母が僕のことを心配してしょっちゅう来てくれていた気持ちが少しだけ分かるようになった。

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 その日、母は施設に置かれているピアノを慣れた手つきで奏でていた。
「あら、光太朗さん、また来たの?私ならこの通り大丈夫だから、来なくていいのよ。ピアノもちゃんと弾けるし。ただペダルは使えないけどね…。」
僕に気づいた母はピアノの手を止めた。
「母さんみたいに毎日来たりしないから、気にしないで。たまに顔出すだけだからさ。」
母はふふふっと微笑みながら呟いた。
「最近ようやくあなたが部屋に来ないで、って言ってた気持ちが分かるようになった気がするの。あの頃はごめんなさいね。毎日のように押しかけてしまって…。」
「僕も今となれば、毎日のように母さんが手料理を抱えて部屋に来てくれたこと、感謝してるんだ。母さんのこと邪魔にしてごめんね…。」
「部屋に戻って少し話しましょうか。」
僕は母の車椅子を押そうとした。しかし母から拒否されてしまった。
「光太朗さん、大丈夫よ。自分で動かせるから。腕の筋力もつけたいし、なるべく自分の力で動かすようにしているの。」
母は慣れた手つきで車椅子を方向転換すると、自分の部屋に向かった。

 部屋に到着すると、母は来客をもてなすように紅茶をいれてくれた。
「お茶くらい僕が用意するからいいのに。母さんはゆっくりしてなよ。」
「お茶を出すことは慣れているから大丈夫よ。ここでできたお友だちとも時々お茶しているくらいだし。」
脚が不自由なことを除けば、母はまるで自宅にいた時と変わらず元気だった。
「そうなんだ。友だちができたなら良かったね。」
「やっぱりここへ来て良かったって思うのよ。気持ちを分かり合える仲間がたくさんいるから、つらいリハビリもがんばれるの。もしも家で一人きりだったら、落ち込んでしまっていたかもしれない。」
母が今の暮らしに何一つ文句を言わない分、申し訳ない気持ちになった僕は思わず母に謝った。
「母さん、ごめんね。僕のせいで…僕があの時、合鍵を返してなんて冷たい態度をとったせいで、母さんがこんなことになってしまって…。」
母はやさしい眼差しで僕をまっすぐ見つめた。
「光太朗さんのせいじゃないって前にも言ったでしょ?事故は私の、自分のミスなの。それに本当に、ここの暮らしに満足しているのよ。あなたが気を遣うことは何もないの。」
「でも…もしもあの日、合鍵を返してなんて言わなければ、母さんは事故を起こさなかったかもしれない…。」
母はまるで幼子にするように僕の頭をぽんぽんと撫でながら微笑んだ。
「光太朗、あの日のことに囚われることはないのよ。そもそも合鍵云々関係なく、毎日あなたの部屋に通い詰めていたのは、母さんの方だもの。あなたに頼まれてもいないのに、母さんの意思でしていたことだから。だからあなたは何も関係ないの。光太朗に負い目を感じさせるようなことになってしまって、ごめんね…。」
母はこの時、僕のことを「光太朗さん」とは呼ばなかった。僕は子どもに戻ったように、母の前で涙を流してしまった。母はただやさしく、温かい手で僕の背中をさすってくれた。

《側にいて 行かないで 微笑んで 頷いて 今会えた 名前のない 涙に触らせて》

 帰り際、母はこんなことも言った。
「母さんも60歳過ぎてしまったし、少しだけ早く施設に入ったと思えば、本当になんてことはないのよ。いずれ恵太朗さんも介護が必要になったら、ここに入所するって言ってくれてるし。光太朗さんは何も心配することないからね。ここに頻繁に来ることはないから。あなたは医師として目の前の患者さんを救うことだけ考えればいいのよ。お父さんがそうしているようにね。」
呼び方はまた「光太朗さん」に戻っていた。そして母は笑顔で僕を見送ってくれた。

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 なかなか子どもを授かれなかった母と父の間に生まれた僕は、待望の子で、希望の光の子だったらしい。希望の光だから光太朗という名前になったわけではなく、単純に父が恵太朗で、母が光子だから、光太朗と名付けられたという。

 身ごもった時、母はすでに35歳を過ぎており、いわゆる高齢出産の年齢だった。医療の進歩もあり、今は30代後半や40代で産むことも珍しくなくなったけれど、当時は20代で初出産が当たり前のような時代だった。父も母も20代のうちに結婚したものの、子どもができず諦めかけていた時期に自然妊娠できて、とても喜んだと母から聞いたことがあった。

 個人医院の産婦人科医として分娩もたくさん経験していた父は、僕のことを何が何でも自分の手でとり上げるんだと意気込んでいたらしい。しかし出産というものは、どんなに順調な経過だったとしても、何が起きるか分からない。妊娠九ヶ月の終わり頃、一人で外出中に突然破水してしまった母は、父の病院ではなく、大きな病院に緊急搬送された。父はその時も、新たな命の分娩中で、僕の出産に立ち会うことはできなかった。父が駆けつけた時には、僕は帝王切開で、すでに生まれていた。自然分娩で産む予定だったのが、胎盤剥離の兆候が見られたということで、急遽、帝王切開に切り替えられていた。早産で呼吸が弱かった僕は、すぐに新生児集中治療室に入ったらしい。しばらくしてから母に初めて抱かれ、母の右手の人差し指をぎゅっと握った僕の小さな手の温もりを忘れることができないと母は語ったことがあった。

 父は「命はどんなに願っても宿らない時は宿らないし、諦めかけてふいに訪れる場合もある。生まれるまで、生まれてからもどうなるか分からない。医師はただ、母子の命を信じて寄り添い、手を差し伸べることしかできない。いつどこで生まれるか分からないし、緊急の処置が必要になる場合もある。だから光太朗のことをとり上げられなかったのは仕方ないことかもしれないけれど、この手で光太朗の命を光子の命から受け取れなくて、少し残念な気持ちはあるよ。とにかく無事に生まれてくれたのはうれしいことだが…。」と悔やんでいたという話も母から聞かされていた。

 医師になった今なら、父の気持ちが少し分かる気がする。命を救えるかもしれない力を持っているのに、その力を使いたいと思う大切な人には発揮できない場合もあるからだ。母が事故で怪我を負った時、僕は何もできなかったように、医師だからと言って、すべての人を助けられるわけではないのだ。医師も人間だから、できれば自分に近しい関係の人を優先して助けたくなる気持ちが湧かないわけではないけれど、医師だからこそ、命に優劣をつけてはいけない。目の前で手当てを求めている患者を優先するのが当然だ。近くで治療を求めている人を見捨てて、遠くで手当てを求める家族の元へ行ったのでは、助かるはずの命も助からない。遠くの家族はその近くにいてくれる医師を信じて任せるしかない。トリアージを除けば医師には命を選別する資格はなくて、その時自分に委ねられた命と全力で向き合うしかないのだと思う。だから僕が生まれる時、自分の病院で父の力を必要とする新たな命と向き合っていた父のことを僕は誇りに思う。

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 とは言え、僕は幼少期から父のように医師になりたいと考えていたわけではない。本当は水族館の飼育員や生物学者のようにサメに関する仕事をすることに憧れていた。
 分娩を扱っていた父とはめったに出かけることはできなかったけれど、稀にまとまった時間がとれると、母の運転する車で三人で出かけることがあった。忘れもしない、幼稚園児の頃、水族館に連れて行ってもらった僕は、巨大な水槽で泳ぐ大きなサメと出会った。僕がサメ推しになったのはその日がきっかけだった。
「うぁーすごい、おおきなおさかなだね。」
水槽の前で立ち止まった僕に父はサメについて詳しく教えてくれた。
「これはサメっていう生き物だよ。鋭い歯がたくさん生えているんだ。その歯は何度でも生え変わるんだよ。太古の昔から、ほとんど姿を変えていない、強い生き物なんだ。そして泳ぎ回っていないと死んでしまうと言われていて、止まることなくひたすら泳いでいるんだ。」
「ふーん。そうなんだ。じゃあサメってねむらないのかな?およいでいたらねむれないよね。」
「まさか、サメだって生き物だから少しでも眠らないと生きてはいけないよ。一説によると、サメの泳ぎは反射神経を使っているらしい。光太朗が眠っている時、足や手が勝手にぴくぴく痙攣する時があるだろ?無意識で身体が勝手に動くことを反射っていうんだ。サメは無意識のうちに反射神経を使って泳ぎながら眠っている時間もあるということだな。熟睡はできないかもしれないが…。」
「へぇーよくわからないけど、サメってすごいんだね。」
幼稚園児の僕にはまだよく理解できない話だったけれど、サメの凄さだけは分かった。
「百年以上生きるサメもいるらしいわよね。」
母に長寿のサメがいることも教えられ、僕はますますサメが魅力的な生き物に思えた。
「サメってちゃんとねむらなくて、ずっとうごいているのに、ながいきするってすごいね。」
いつの間にか僕はサメの虜になっていた。おそらく初恋の相手はサメと言っても過言ではない気がする。
「光子は睡眠時間が短くて、朝から晩まで動き回っているから、まるでサメみたいだな。」
真面目な発言の多い父が珍しく茶化すように言った。
「たしかにそうかもしれないけど、私はサメみたいに怖い牙は持ってないわよ。」
母はそんなことを言って苦笑いしていた。

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 水族館でサメや他の海の生き物たちを思う存分眺めた後、立ち寄った海鮮市場で僕は生まれて初めて牡蠣という貝を口にした。父が「牡蠣は海のミルクだから身体にいいんだぞ」なんて言いながら、おいしそうに母と一緒に牡蠣を頬張るものだから、自分も食べてみたくなって真似して食べたら、帰宅後、僕だけおなかを壊してしまった。どうやら食べ慣れていない牡蠣にあたってしまったらしい。それ以来、牡蠣は苦手になってしまい嫌厭していたものの、大人になって百音さんのおじいちゃんのおいしい牡蠣と出会ったおかげで、牡蠣を克服することができた。

 母はたしかに習性がサメに似ているのかもしれない。サメと違って見た目は怖くないけど、活動的なのはよく似ていると思った。ゆっくり休んでいる所をあまり見たことがなかったから…。つまり僕は母のことが好きだから、母に似ている部分があるサメにも惹かれたのかもしれない。母に似ていることは抜きにしても、サメは本当に魅力的な生き物だと思った。大人になったら自分は水族館でサメの飼育員か、サメを研究する生物学者になりたいと本気で夢見ていた。

《何もない あんなに抱えていた 形を守る言葉の盾 残っていない 弱くても持っていた 道切り開く意思の剣》

 父も母も一人息子の僕に対して何が何でも医者になれと圧力をかけることはなかった。しかし特に父は、祖父も産婦人科医だったことから、僕のことも将来は医者に、できれば産婦人科医になって病院を継いでほしいという気持ちがあったと思う。子どもながらに僕はそれをひしひしと感じていた。だから僕はサメに関わる仕事がしたいという夢を父にも母にも打ち明けることはできなかった。

 教育熱心だった母は、自分で僕にピアノを教えるばかりでなく、書道、水泳、学習塾など様々な習い事に通わせた。特にその塾は、医大に特化した個別教室で、光太朗も医師になって当たり前というような無言の圧のようなものを感じた。習い事以外にも、集中力を高める効果があるということで母からは縄跳びも勧められた。ピアノや水泳はあまり伸びなかったけれど、母や塾、縄跳びのおかげか僕は勉強だけはそこそこできるようになっていた。

 体を使うことや、体力の要ることは全般的に苦手だと分かった僕は、とりあえず水族館の飼育員は体力面で無理だろうと早々諦めてしまった。生物学者なら、生物のことを研究していればいいんだから、なれるかもしれないとまだ夢は捨てなかった。そのためには大学に行くことは必須だし、サメの研究ができそうな大学を目指そうと密かな夢を叶えるために勉強を怠ることはなかった。

 海洋生物を研究できる大学だけを目指したのでは、両親を不安にさせると思い、カモフラージュ的に、ちゃんと医大も目標に勉強していた。医大は本命ではなかったはずなのに、本命大学の受験に失敗してしまい、結局僕は受かってしまった医大に入学することになった。そしてサメを研究する生物学者になるという夢は儚く散ってしまった。

 でも僕は最後まで、父の思い通りになってたまるかとささやかな反抗心を見せつけるように産科ではなく、外科を志願した。早産で生まれた時、呼吸が弱くて入院した経験があったせいもあるかもしれないが、呼吸器を専門に学んだ。そして僕は呼吸器が専門の医師になった。

 医師になりたての頃は、宮田さんのことや母のことがあり、自信を失い、挫折しかけた時期もあった。しかし、先輩の中村先生が米麻診療所へ行くことを勧めてくれたおかげで、最初は乗り気じゃなく、嫌々だったけれど、そこで百音さんと出会えたから、登米へ行って本当に良かったと思っている。

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 百音さんのおなかには今、新たな命が宿っている。分娩は引退してしまった父だけれど、もしも僕が話したら、きっと孫のことは自分の手でとり上げたいなんて言い出すかもしれない。それもいいかもしれないけれど、百音さんは気仙沼の病院で分娩すると決めているから、父には遠慮してもらうしかない。

 父親の自覚を持ち始めたばかりの僕だけれど、なんとなく父の気持ちが分かるようになった。もしも父に抗わず、父の敷いたレールに従って、自分も産婦人科医になっていたら、きっと我が子のことを自分のこの手でとり上げたいと思ったに違いないから。医師になれたのだから、産科を専門に学んでいれば、それが可能だったかもしれないのにと思うと、今さら少し後悔してしまう。でも、たとえ産婦人科医になれていたとしても、父のように担当患者を抱えていたら、その母子をほったらかして妻子の元へ駆け付けることはできない。父がそうしたように出産の時は、僕も我が子の命は自分ではない違う誰かを信じて、その医師に二人の命を委ねなければならなかったと思う。それはとても覚悟の要ることだと知った。大切な我が子の命なのに、違う誰かに任せなければならないなんて、怖いことだと気づいた。そのかけがえのない尊い命を父は毎日、任されていたのだ。医師ならどの科もそうだけれど、特に産科は一人の命ではなく、常に二人の命と向き合わなければならない。それを長年、責任を持って当たり前のようにこなしていた父のことを、今になってようやく尊敬できるようになった。百音さんのおなかに僕らの命が生まれて、初めて気づいた。

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《どこだろう 今痛んだのは どこだろう あなたは光》

 母や僕のことはあまりかまう時間もないほど、たくさんの母子の命を守るため、仕事に明け暮れていた父…。キャッチボールは教えてくれないし、僕のことをほったらかすわりに、医者を目指してほしいなんて雰囲気を醸し出していた父のことを好きになれない時期もあった。エゴを押しつけるような父が苦手な時もあった。

 母のことも、やさしくて大好きだった反面、いつまで経っても子離れしてくれない押しつけがましい愛情が重荷に感じた時もあった。子どもを思う愛情も結局、親のエゴにすぎないんじゃないかと思ったこともあった。

 けれど僕も親になって少しずつ分かってきたよ。子どものためなら、たとえ子どもにうっとおしく思われようとも、嫌われようとも、愛情を注ぎたくなってしまうものだね。それがエゴだとしても、子どもの命や未来を守るためなら、親は何でもしてしまうものだね。親という生き物は気持ち悪いほどいつでも本気でまっすぐ子どものことを考えてしまうものなんだと身をもって知ったよ。僕は特に思いついたら暴走してしまう癖があるから、百音さんからはまだそんなことを考えるのは早いんじゃない?とたしなめられることもあるよ。

 たぶん僕も父さんや母さんのように、我が子に幸せな人生を歩ませるためなら、何でもしてしまうと思うよ。もちろん人生は幸せなことばかりではないし、時に苦労や挫折も経験して当然だけど、そういう時はつらい気持ちに寄り添える親になれたらいいなと思うんだ。落ち込んでいた時、母さんが僕に好物を届けてくれたみたいに、僕も子どもが弱っている時は、どうにかして励ましてしまうと思うんだ。いい加減、子離れしてよってうんざりされても、不思議だね、親っていつまでも子どもの幸せを第一に考えてしまうみたいだ。それが僕にも分かるようになったよ。

 今はただ、百音さんの子宮の中で順調に育ってくれることを願うばかりだよ。そして無事に生まれてくれたら、それだけで僕は世界一幸せ者だ。泣き虫でも、キャッチボールが苦手でも、ピアノが苦手でも、勉強もできなくたっていい。僕がサメの虜になったように、何でもいいから好きなものを見つけて、できれば夢も見つけて元気に生きてくれたら、それだけでいいと思える。医師を目指してほしいなんて思わないし、別に何者にもなれなくてもいいし、僕らの子だからあり得ないと思うけれど、多少やんちゃしてグレる時期があったとしてもいい。ただ、自分らしく生きてさえいてくれたら、命を全うしてくれたらいいと思えるよ。光の当たる場所で、様々な音に触れながら、のびのびと育ってくれたらいい。

 これも親のエゴかな。ひなたより、ひかげの方が心地いいなら、そこが自分の居場所だと思えるなら、それでもいいよ。誰の声も聞きたくないなら、それでもいいよ。無音の狭くて暗い場所の方が落ち着く時だってあるものね。一人になりたい時もあるものね。命は人間も含めて胎生の生き物はみんな、暗くて狭い子宮の中に宿るからそういう場所が落ち着く場合もあるのかもしれないね。胎児の頃を思い出して、閉じこもりたくなる時もあると思うんだ。僕も、挫折した時、そうだったから。

 でもね、子宮の中から生まれたら、外の世界はとても広いんだ。なるべくたくさんいろんなものに触れて、いろんな場所を見て、いろんな音を聞いて、いろんな人と出会って、体全体でこの世界の空気を吸い込んでから、ここだと思える自分の居場所を見つけてほしいんだ。これから生まれるきみにはたくさんの可能性があるから。どうか怯えないで、世界を体感して。怖い時はちゃんとそばにいるから、大丈夫だよ。おぼつかない足取りのきみがちゃんと自分の力だけで歩けるようになるまで、一番近くで見守っているからね。きみが困った時はちゃんと手を差し伸べるよ。母さんやきみのお母さんが僕にしてくれたように、きみが涙を流すようなことがあれば僕はただ、きみのことをよしよし大丈夫ってやさしくなでるからね。きみは一人じゃないんだ。つらい時は助けてって誰かに助けを求めていいんだよ。

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《生まれた事 知らせた声 どこまでも遠く全部を抱きしめた 解らないまま 何もないまま 全てを 全てで抱きしめた》

 きみが男の子なら、「百太朗(ももたろう)」と名付けようと思っているから、百太朗って話しかけるよ。百太朗、僕に親の気持ちを教えてくれてありがとう。エゴにも近い愛情がこんな僕の中にもあったことを気づかせてくれてありがとう。愛とやさしさと、それから尊い命を抱えることの不安や恐怖も与えてくれてありがとう。百太朗が僕にくれたものすべてが、僕に欠けていたもので、すべてが宝物だよ。まだとても小さなきみが僕のことを人間として大きく成長させてくれたんだ。まだ会う前からこんなにたくさん百太朗からプレゼントをもらってしまったから、きみにはたくさんお返ししないとね。百太朗に会える日を心待ちにしているよ。僕をきみのお父さんにしてくれてありがとう。

 正直に言うと僕はね、思春期の頃、自分はなぜ生まれてきたんだろう、どんなに両親が待ち望んだ命だったとしても、別に生まれてくる必要はなかったんじゃないかってぼんやり考えてしまったこともあったんだ。無意識のうちに生まれた意味みたいなものを探し続けてしまって、大人になってからも、時々どうして自分の命は絶えることなく、こうして続いているんだろうなんてふと思ってしまう時もあったよ。医者になったら、たくさんの命を救える立場になって偉いねなんて褒められることもあるけれど、でもある程度勉強ができて努力さえ重ねれば、医者になれる人は他にもたくさんいて、僕が一人くらい医者の枠からこぼれても、社会は少しも困らないと考えたんだ。つまり僕は、医者になるために生まれて、命が続いているわけではないと思ったんだよ。

 きみのお母さんの百音さんと出会えたこともたしかに幸せだと思えることで、僕が百音さんのことを必要として、彼女も僕のことを必要としてくれたけれど、たまたま彼女は僕と出会って、選んでくれただけで、もしかしたら他にもっと彼女を幸せにできるふさわしい人はいたかもしれない。(こんなことを本人に言ったら、叱られてしまうからここだけの話だけどね。)だから彼女と出会うために生まれたわけでもないと思ったんだ。

《聴こえた命の音は よく似ているけど違っていて 雨に変わり何度も肌を叩いた》

 そして百太朗。この前、百音さんの健診に無理矢理同伴して、きみが一生懸命刻む心拍をこの目で見て、心音をこの耳で聞いて確かめたら、長年、悩み続け、探し求めていたしっくりする答えをついに見つけることができたんだ。僕はきみという命と出会うために、生まれて、今まで生き続けて、生かされていたんだって心底思えたんだよ。だってきみの父親はぼくにしかなれないと思うから。僕がいなくても、百音さんさえ存在すれば、きみに近い命は生まれたかもしれない。でも僕がいなければ、100%まるごときみの命は存在しなかったんだ。そう考えたら、やっぱり百太朗と出会うために、僕の命は生かされていたんじゃないかって思えたよ。(百音さんがいなければ、きみとは出会えなかったわけだから、やっぱり彼女と出会えたことも生まれた理由に値するかもしれないね。)

 まだおなかの中にいる百太朗にこんなことを話すなんて気が早いかもしれないけれど、思春期を迎えたら、きみも僕と同じように、どうして生まれたんだろう、別に生まれる必要はなかったんじゃないかなんて思い悩むこともあるかもしれない。そんな時は、僕に尋ねてほしいんだ。「どうして僕のことを生んだの?」って。そしたらお父さんは迷うことなく全力でこう答えるから。
「お父さんとお母さんが百太朗というたったひとつしか存在しない、かけがえのない命に会いたい、きみと共に同じ時間を生きたい、きみに未来を与えたいと願って、命を守り抜いたから百太朗は生まれたんだよ。生まれることのできない命や途中で死んでしまう命も存在する中で、生まれることは簡単なことじゃないし、当たり前のことでもないんだ。百太朗が生まれたのは奇跡なんだよ。その奇跡と出会うためにお父さんは生まれたんだって思っているよ。そんなの綺麗事って思うかもしれないけど、本当のことなんだ。だから生まれてくれて、生きていてくれてありがとう、百太朗。大好きだよ。」

《ありがとう あなたは光 それだけが続ける理由》

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