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自分史

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[自分史] 定年退職後の模索期1

[自分史] 定年退職後の模索期1

ついにCDを買う決心をしてCD屋に行くとぼくと女性店員だけだった。しばらく店内を探しても見つからなかったので、その女性店員の方へ行って「アジアンカンフージェネレーションってありますか」と尋ねた。一瞬彼女は思案したがすぐにその場所に案内してくれた。8枚ほどあった中でベストアルバムを選んで彼女のところへ持って行く。幾分嬉しそうな感じが素振りに出ていた。袋にCDを入れる時にフンと笑ったような気がした。ぼ

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セント・ヴィクトワール山の見える丘の家の離れにて

セント・ヴィクトワール山の見える丘の家の離れにて

十九歳のころ、なんて世界は優しくぼくを包んでくれていたことか、奇跡のようだ。ぼくが十九歳の時、世界は1972年だった。テルアビブ乱射事件で岡本公三がぼくのイノセンスを破壊したが、それはまだ遠くの出来事で半分夢心地のままでいられた。その頃ぼくの身の回りは不思議に解放された、自己表現に溢れた時代のエポックを迎えていた。セント・ヴィクトワール山の見える丘の家の離れは、自己表現を育てる繭の働きをした。その

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[自分史] 並んで歩いた確かな実在感

[自分史] 並んで歩いた確かな実在感

あの頃を思い出すと、よく金沢の路地のあちこちを並んで歩いていたことがあった。いつもどうしてか曇天の日が多かった。雨の日もあってその時は二人で傘の中にいた。何を話したかは思い出せない。その少女の友達がぼくの知っている男のことが気がかりで、適当な距離感を持って相談事に応じていたような感じがかすかにする。

あれは美大受験のためのデッサン教室に通っていた頃だ。今思えば、十数人が小さな円卓の上のガラスビン

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寂しい幼年期

寂しい幼年期

これまで書いてきたnoteとは正反対に、暗い現実を避けずに直面することにする。ぼくの幼年から少年の時期は、今から思うととても寂しい思いをしていたことを認めざるを得ない。父は日曜日も働いていてどこかに連れて行ってもらったことがほとんどない。中学の時友達になったU君は、あまりにぼくがどこへも行っていないのに同情して、夏休みに親戚のある生駒に連れて行ってくれたことがあった。小学校の間は、児童公園や近郊の

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中学から大学までの自分史

中学から大学までの自分史

中学生の頃の自分を思い出していた。自我が芽生える頃がほとんど中学の頃と重なるように思えるのは、多分中学に入って環境が変わり、小学校の時とは全く違うタイプの同級生との接触が自分に向き合うきっかけを作るからではないだろうか。小学校の同級生は同じような仲間だったのに、中学では日常的に違いに気づかされたり、場合によっては圧倒されたりする。

ぼくの時代の中学にはいわゆるガキ大将がいた。ケンカに強く大柄であ

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学習参考書を読んだ日

学習参考書を読んだ日

無限にある本から一冊だけを選んで読むことの充足感について。ぼくの中学3年生の夏休みは、高校受験勉強に集中して毎日家にこもって勉強していた。確か5教科まとめた分厚い受験用参考書を一冊買ってきて、ノートを取りながら1ページずつ読んでいった。その一冊だけをとにかく読んでその中の練習問題を解いていった。どういうわけか集中できた。ラジオはつけていたと思う。ニッポン放送の深夜の「オールナイトニッポン」を欠かさ

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ぼくが病んでいた頃

ぼくが病んでいた頃

もう悲しくて苦しくて寂しかった孤独死寸前の時期を脱して何とか高校へ行っていた頃、多分必死で母はぼくを支えるのに大変だったと思う。どうしていいか分からず祖父に相談して大学病院の精神科で診てもらうのに付き添いをお願いしていた。しばらく精神安定剤を服用していた。ほんの少し意志すれば死ねるような気がしていた。母が作るご飯は食べていたのだろう。病むことは簡単だった。手当たり次第本を読んで、生活している日常の

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金沢のジャズ喫茶

金沢のジャズ喫茶

昔、金沢の竪町通りに「きゃすぺ」というジャズ喫茶があった。ぼくは高校生の頃から行っていて、サラリーマンになってしばらくして店はなくなっていたから、10年くらいは通っていたことになる。小さな店だったが、居心地は良かった。5年ほど前、吉祥寺にある「サムタイム」という店に連れて行ってもらったことがあって、その時の客はどこにも見かける元気のいいおばさんグループだった。ぼくが通っていた頃の「きゃすぺ」には内

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文学少年だった自分はどう生きたか

文学少年だった自分はどう生きたか

*以下の文章は私の五十二歳の時ブログに書いたもので、今から十八年前になる。最近パソコンの保存用フォルダから見つけ出したものだ。

自分の定年後の生活をイメージする時にまず出てくるのが「読書」である。何故「読書」がでてきたのかというのは、定年にならないと本が思いっきり読めないという思いがあるからだ。いわゆる読書三昧が許されるのは会社を離れてでないと無理だという実感がある。逆にいうと読書三昧という環境

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自我崩壊の危機と本との出会い

自我崩壊の危機と本との出会い

文学との出会いと自我崩壊の危機の時期は重なっている。自我崩壊の危機の時期は生涯3回ある。高校1年次に最初世界文学全集と出会い、10冊ほど読み進んだあと現実感覚がおかしくなって登校拒否の事態を招いたのが1回目。サラリーマン生活中盤で、社長からのパワハラで鬱になってその回復のために読んでいた時期が2回目。そして定年退職したあと、居場所がなくなり精神的な基盤を求めるために地元の読書会サークルに入ることに

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就職したことの功罪

就職したことの功罪

ぼくの個人的な体験として地元の会社に就職して、38年間働いたことの自己評価をしてみたい。今になってまだそんなことを考えるのか、過ぎ去った過去をいつまでも引きずるのか、呆れるばかりだと思われるに違いない。生きていくにはそうするしかなかった、よく我慢してきたものだと言うこともできる。でも自分の人生はそれぞれの年齢で、その時その時で1回限りを生きてきているのだ。その掛け替えのなさは残念ながら若い時には感

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社長のパワハラから如何に回復したか

社長のパワハラから如何に回復したか

「言葉で人を殺す」という表現は、その当時ぼくがすでに知っていたことではない。もし知っていたら言葉に対する耐性のようなものができていて、あれ程までに落ち込まなかったと思う。その表現は数年経ってから忘年会の席で社長の訓話のような話の中で出てきたものだ。ぼくとの間で突きつけた攻撃の言葉があれから気になって残っていたかのように、ぼくには思えた。もちろんそんなことには一言も触れず、自分の多分青年会議所等で聞

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[自分史] 定年退職後の模索期2:公民館読書会との出会い

[自分史] 定年退職後の模索期2:公民館読書会との出会い

共働きだったぼくたちは同じ年に会社を退職する約束だった。妻が3歳下なのでぼくは定年後2年間は延長して同じ会社で勤めることにしていた。ところが2年目に配属になった部署はあまりにも過酷な環境に思えて妻との約束を破ることになった。当然猛反対を受けたがそれを押し切ってもぼくは退職したかった。妻が60歳になる歳まで(ぼくが62歳から63歳になるまで)の1年間は昼間は自分だけがフリーの状態になって、それまでの

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ずっと待つ人に救われた

ずっと待つ人に救われた

受け止めるためには君の何倍もの心の深さが必要だと
気づかされた時にはもうぼくの方はボロボロだった
君は自分の無邪気さの、奔放さに無関心だった
可愛いからといってぼくの心を弄ぶのは
ぼくの想像を超えていたのに
ぼくはけなげにもクールに構えすぎていた

そんなに強くはなかったことに
君がいなくなって思い知らされた
あれから君以上の人に出会わなかった
みんな慎重だった
無防備に、無鉄砲に自分を投げ出して

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