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「食べる」は、目の前の生き物を死なせることだから

死なせることでようやく生き物は食べ物になる

生き物と食べ物

正直この島に移住するまで、食べ物に感謝しなければならないという感覚を深くは理解できていなかった。もちろん食事を作ってくれた人に感謝するのは分かる。なぜなら、食事を用意するという労力を彼らは支払ってくれているから。ただあくまで食べ物は食べ物でしかなかった。

そんな私も、今は魚を〆ることが好きだ。
なぜなら、息の根を確実に止める感覚が手に残るからである。
もちろんこれはサイコパス的な発想でもなければ、虐待や暴力に溺れているわけということでもない。〆ること、息の根を止めることで、魚が食べ物である前に生き物であると実感できるのだ。

死体だけを「魚」と思っていたあの頃

大阪の住宅街で生まれ育った私にとって、魚はいつも死んでいた
母は「魚は目が濁っていない、透き通ったやつが新鮮なんよ」と言っていたように思うが、目が濁っていようが、透き通っていようが魚はいつも死んでいた。なんなら頭も骨もない刺身用として冊になった状態の魚や、すぐに調理できる切り身の魚の方が身近だったように思う。

つまり、色んな状態の魚の死体を見て、私はそれを「魚」と呼んでいた。魚はもうそのとき生き物ではなく、単なる食べ物だった。

魚を「〆る」

香川の離島「さぬき広島」の海を覗けば小さなフグみたいな魚がすぐに見つかる。また少し沖へ視線を移すとボラが海面を跳ねる。生きた魚が目の前にいる。

また最近は釣りを始めたこともあり、生きた魚を調理することも増えた。ともすると、まずは概ね魚を「〆る」ことから作業は始まる。

魚の〆め方は色々あるそうだが、今のところは島民に教えてもらった脳天を包丁でかち割る方法を取っている。

脳天を占めたカサゴとメバル。脳天締めには包丁でかち割るほかに、ピックのようなものを突き刺す方法もあります。

脳天に包丁が上手く刺さると、魚はのけぞるように最後の抵抗をみせ、ついには、そのまま今まで暴れていたのが嘘のようにおとなしくなる。包丁を伝って彼らの命の終わりを感じ、そして一ミリも動かなくなると「息の根が止まった」と理解するのだ。

「食べる」は生き物を死なせること

「食べる」は、きっと目の前の生き物を死なせることなのだと思う。死なせることでようやく生き物は食べ物になる。これは魚だけでなく、野菜だってそうだ。私は普段この島で農家をしているが、例えば畑の大根が思いもよらないほど細かい根を伸ばしていると、

「この大根はまだまだ生きようとしてたんやな」

と実直に感じられる。やはり私は魚を、野菜を死なせることで生きている。

もしかすると、魚や野菜の死体を調理するだけでは食べ物に感謝するのは難しいのかもしれない。なぜなら死体は文字通り生きてはいないから。だから生きている命を頂くから感謝するなんていうよりも、生きている命を死なせるのだから感謝するという方が私の今の感覚にとても近い。

それはもしかすると、私もまた生き物だからなのかもしれない。

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この記事を書くにあたって、「死なせる」「殺す」どちらがいいのだろうと思いながら書いていました。
私としては、「殺す」には殺処分という言葉もあるように、息の根をただ止めるだけのような感じがして「死なせる」という言葉を選んでいます。また「生」の対義語は「殺」ではなく「死」なので。

だいぶ前にこんな記事も書いていました。私は観光学という分野で大学院で研究をしておりましたもので。

この現代社会に「死」は目障りなのだろうか?という問いかけです。

★島の宿で農業体験や魚の調理を通して「死なせる」について考えてみませんか?

もし釣りに行ってボウズだったらどうするの?これもまた、食べ物ではなく生き物が相手なのでお許しくださいね。

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