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日常のふとした瞬間に溢れ出る虚無感は どうしたら埋められるのだろう



小さな幸せに気づけない。

誰とも約束が出来ないというのは人生を放棄しているようだ。
わたしは刺し殺したいほど好きな相手もいないし、刺し殺されるほど人と関わりを持っていない。電話をするほどの相手もいないし、煙草を一緒に吸ってくれる相手もいない。ほとんどの時間わたしはひとりで過ごしている。仕事をしている時は引っ切り無しに人と会話をしているが、どこか壁に向かって話をしているみたいだ。別になんの感情の跳ね返りもない。ただただ、人のようなものに話しかけ、それとなく受け答えをしている。

人生って結局顔だよねとか、結局お金だよねとか。今更そんな当たり前なことを溢している。
夜中急に会いに行きたくなるような相手もいなければ、頼りたくなる相手もいない。鏡の前に立つ自分と見つめ合い、思わず吐き気がした。


わたしはnoteとTwitterも合わせて何百人、何千人という人と繋がっているはずなのに、誰とも本当は繋がっていないみたいだ。ただでさえ他人なのに、そのまた他人なんて知ったことではない。友達の友達は別に顔も知らないように。ネットを介した途端全員知らない人だ。

スマホの中にいる人たちは間違いなくこの世の何処かに存在していて、それなのに何処か空想の世界にいるようだ。よっぽど芸能人の方が存在を実感できる。noteやTwitterで人とやりとりをしていても、どこかロボットと話している気分だった。

人の温かさとか。それってどこに落ちているのだろう。冷たい文字でしかやりとりが出来ないわたしはまた夜空を永遠と眺めてしまいそうになる。
「なんのために生きているのだろう」という疑問を持った時点で自身がどれほど恵まれているか今一度考えてほしかった。




存在と溝


人は虚無感に襲われがちだ。
語彙力のかけらもない。 
生きる意味など元々誰もないはずなのに、生きる意味を見失ったと俯く人はよほど幸せだったらしい。
人と比較することが大好きなのが人間だ。
今やっていることが将来なんの役に立つのだろうかとか、こんなことをしていていいのだろうかとか。もうそんな考えつまらない。今自分がやっていることが全てなのだから意味なんて考えたってしょうがないんだ。自己啓発をする人たちを崇めながら、正しそうな考えや意味に縋る。そんな人は一生虚無感の渦から抜け出せない。誰も幸せの定義が出来ないように、結局は自分を納得させる方法を探しているだけなんだ。

それでもふと「なんのために生きているのだろう」と思う。

恋人がいても、家族がいても、幸せを掴んでいてもそれはきっとどこかでやってくる。いや、わたしが知らないだけでそういう人には襲ってこないのかもしれない。脱力した身体を引きずってベッドに吸い込まれる。そのまま何十時間と眠った夜は死んでいるようで必死に生きようとしていたりする。

虚無感は別に"穴"じゃない。何かで埋める必要なんて元々無かったりする。いくら好きな人を作ろうが、楽しい思い出を作ろうが、それは埋まらない。最初から埋める場所がないのだから。
わたしはそこまで「虚無感」を悪く思っていない。虚無感と絶望と幸福を時々間違えてしまいそうになるけれど、虚無感を持っているときが人として一番正常な時なのかもしれないと。

だから、虚無感は埋めないで置いておこう。干渉しすぎるのは何事もよくない。必ず死ぬのに幸せを求めているのって馬鹿みたいだ。ただの時間稼ぎをしているだけなのに優劣も何もないでしょう。それでも醜い姿をなるべく見せないように、誰かの上に立っている気分になれるように今日もなんとか生きていく。
もし一生死ぬことが出来なくなる薬があるとしたら、貴方はそれを飲みたいだろうか。わたしは「どっちでもいい」かな。
いつか死ぬことがわかっているから楽観的になれたりするじゃない。
真っ暗な部屋に今日もわたしは帰る。暑さで脳がやられそうだ。それでも文句を言いながらも生き続ける。人間、健気で可愛い生き物だね。


書き続ける勇気になっています。