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「まだ若いんだから」と言われていた時に うっすらと感じていた危機感の素顔



無駄にしてきた、時間を。

終わりがない気がしてきた、人生がだ。
大人になると時間の流れが早く感じると聞くが、わたしからしたらこの退屈なほどの毎日は、ただゆっくりと流れている気がした。

「前にも見たな、この景色」

そう呟くわたしは、現実とネットの世界の違いが段々とわからなくなってきていた。毎日の行動がネットの海の中だ。いつしかわたしの現実は、小さなスマホの画面の中から出られなくなっていた。

必要とされてみたかった。自分がいないと生きていけない人がいてほしかった。この世にいる殆どの人間が替えのきく存在である。それでもわたしという存在を誰かに認識してもらいたかったのだ。


仕事でも恋愛でもやり直しはきくのだろうか。もしきくのだとしたら、それは何回までだったら許されるのだろうか。いつまでだったら許されるのだろうか。
わかっている。きっとそういうことではない。やり直しがきくかどうかは、自分自身が決めなければいけないこと、そしてそれを"やり直し"と表現するかどうかも自分自身で決めなければいけないことも。




今は今しかないという綺麗事


何もかも間に合わなくなってからでは遅い。

無理やり騙し騙しわたしは今ひとりで生きている。寂しくないと言ったらそれは嘘になる。毎日生きているのに死んでいるみたいだ。死んだら生きた心地すらしてきそうな日々だ。

昨今では中高年の引きこもりを取り上げたニュースをよく目にする。
他人事ではない。いつ自分がそうなってしまうか、そればかり気にかけてしまう。頼る人のいないわたしは、引きこもる経済力もない。つまり、引きこもったら最後、わたしはこの世に二度と戻ってこれなくなってしまうだろう。
わたしの年齢は20代後半に差し掛かり、"若い"という扱いから一歩足を踏み外しているような気もする。勿論30代、40代の人からしたらわたしは間違いなく"若い"わけだけれども、そういう話を別にしたいわけではなかった。


今までわたしはいくら人生に失敗しても、いくら人生で挫折をしても「まだ若いんだから」と言われてきた。そうだな、と納得していた自分が今でこそ恐ろしく感じる。その台詞に殺されていることにも気づけず、わたしはここまで平然と歩いてきてしまったのだ。

「まだ若いんだから」という台詞の終わりはいつくるのだろうか。いつくるかも明確ではないのに、この台詞の無責任さに腹が立ってきた。それと同時に自分の無力さにも押し潰されそうにもなる。

二社わたしは会社を退職して、今はフリーターとして生きている。
忘れられない元恋人を想ってもう三年が経とうとしている。
そんなわたしに「まだ若いんだから」という台詞を吐いてくれる人は何人残っているだろうか。
いつまでも煙草を辞められないわたしは、今すぐ何かを始めなければいけないのだろう。

この時点で今自分が負けていることにもっと早く気づけばよかった。いや、気づいてはいたのだ。けれど、見て見ぬふりをしていたのだ。当事者は自分だけだったのにそれを無視して、事が過ぎ去ると勘違いしていたのだ。




愛を落として歳を拾う


Twitterのとあるフォロワーの呟きがきっかけだった。
失恋をした彼女は、別れた時に周りに「まだ若いんだから」と言われたそうだ。面白い話だ。それでは若い頃の恋愛が無意味みたいじゃないか。勿論周りもそんなつもりで発言はしていないだろう。それでも失った恋人が帰ってこないのであれば、そこに"若さ"というのは関係ないだろう。
一見、若さというのは何かを解決してくれそうな気もする。けれどそれはいつも簡単にわたしたちを裏切ってしまうものだった。

昨日も今日も明日も、どこかで皆愛を落としている。それはもう二度と戻ってこない。戻ってきたとしても、それはもう変な匂いがついていたり、形が変わっていたり。
そんな人は時間を拾うしかない。砂を手で掴もうとしているみたいだ。指の間からそれはするすると零れ落ちる。

後悔をしないように、と人は助言する。そんな事言われなければわからない人などいるのだろうか。わかっていても後悔するんだ。わかっているから後悔なんだ。幸せになるとき、人は運命を感じる。けれど、不幸せになるときもそれもまた運命なのかもしれない。

人生は"やり直す"なんて綺麗な言葉では包めない。もう一度惨めに前を向き、差別されてもそれを厭わない覚悟が必要なのだろう。そのことにもっと早く気づけばよかったと思っているわたしは"若さ"に甘えていた。もう引き返せない。

少しでも綺麗な景色を見るために。

歳を数えるのはもうやめにしよう。


書き続ける勇気になっています。