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恣意セシル「産声のカノン」

 遠くから、ゆっくりと何かの音――いや、声が近付いてくる。
 おぎゃあ、おぎゃあ、……ああ、これは産声だ。私がこの世にまろび出て、初めて出した声だ。不思議なことに、見えないはずの目でも、周りの人々の笑顔が見える。
 私は祝福されて生まれて来たのだ。少なくとも、あの瞬間だけは。

 びゅおおおおおおおおと、両耳を大気の切り裂かれる音に支配される。高度何万メートルから私は落下しているのだろう? わからない。わからない。まま、私は生身でただただ落下し続けている。
 わからないことよりも、私の心を埋め尽くしているのは驚愕と恐怖だった。いつかあの、彼方に見える大地に叩きつけられて、死ぬ。それはなんと恐ろしいことだろう。どれだけ痛いのだろう。想像するだけで内臓が引っ繰り返り、吐いてしまいそうだ。しかしそんな場合ではない。空中に放り出された身体はどこにどう力を入れたらいいものかわからず、抗いようもないのだ。
 今の私に出来るのは思考だけ。だが思考するにも、果たして私は一体何者なのか、という基本的なことさえわからないでいる。生まれ落ちてからずっとこうして落下し続けているのではないかと思うほどに、私は私自身について無知であった。
 ただ――こうして意識が目覚める直前に、何かを聞いた気がする。とても大事で、幸福な、何かの「音」。いや、あれは「声」だっただろうか?
 わからない。わからないまま、私は落下し続けている。
 言葉で表せるものが世界を表す限界なのならば、私の世界はなんて矮小なのだろう。表せないものを想像で補えることこそが人間の強みなのだから、世界は無限に拡張できるはずなのに……そこまで考えて、はて、と思う。「言語の限界が世界の限界」だと言ったのはウィトゲンシュタインだったけれど、私は何故、それを知っている? どこで彼の名前を、思想を知ったのだったか。
 刹那、目の奥に光が閃いた。

けん、……」
 俺の名前を呼んだきり、おふくろは口を閉ざして俯いた。
「勝手に開封するなよ」
 俺はその時、どんな顔をしていただろうか。きっと、鬼の形相だとでも比喩されるような、そんな表情だっただろう。
 おふくろの手から、一通の手紙と封筒をひったくる様に取り上げる。目を落とすと、大きな文字で「不合格」という文字が見えた。
 ……俺は、今年もまた、大学に落ちたのだ。
「す、滑り止めでも勉強は出来るでしょう? それじゃあ駄目なの?」
 縋るような声でおふくろが言う。 
「駄目だ。俺はどうしても、この大学に入りたいんだ」
 それは三通目の、志望校の不合格通知だった。三浪確定、ということだ。そこは国内最難関の大学であり、そして最も哲学に造詣が深い名門だ。俺はどうしてもそこで哲学を学びたかった。諦めることが、出来なかった。
「……バイト、行ってくる」
 受験が終わって、俺は束の間の休息を得ていた。結果が出るまでは勉強をせず、ただひたすら、手当たり次第に買うだけ買って積んであった哲学書を読み耽る日々。昨日の晩もそうしていたら朝を迎えていて、寝て目が覚めた時にはもう夕刻。バイトまでもう間もない時間だった。
 俺は不合格通知を丸めて屑籠に放り投げ、みすぼらしい捨て猫のようなおふくろを背に玄関へ向かった。
 予備校の学費だって馬鹿にはならない。俺は二十四時間をバイトと勉強だけに割り振った生活を、高校時代から五年間続けていた。正直、この段階でもう限界だったのかもしれない。俺も、俺の両親も、皆。
 それでもまだやれると、可能性はあると思い続けていたのは驕りだっただろうか。意地になっていたのだろうか。少なくとも、信じてはいなかった。三度の失敗は、俺から自信と言うものを根こそぎ奪い去り、尊厳さえも風に削られる岩のように少しずつ、少しずつ、薄っぺらくなっていた。
 今日ぐらいはバイトを休んでも許される気がしたが、この一日分の給料が一日分の予備校の授業料になる。俺はいつも通り自転車に乗り、バイト先のスーパーへ向かった。
 でこぼことした、舗装されてはいるが保全されていないアスファルトの道をがたがた進む。頭の中は空っぽだった。ああ、俺もおふくろ並みか、それ以上にショックを受けているのだ。それでもただひたすらにペダルを漕いで前へ進んだ。
 ここで家に帰ったら、まだたかだか二十年ぽっちしか生きていない俺の人生が引き返しっていうか、取り返しのつかないことになる気がしたのだ。この時から既に予感はあった。……今更自覚してももう、遅いけれど。
 制服に着替えてエプロンを着け、早番の人からの引継ぎノートをチェックする。青果の品出しと、まずは――。
「高山君、おつかれ」
「あ、店長。おつかれさまです」
 頭頂部の薄さを伸ばした前髪を後ろに流して隠した、小太りの店長がそこにいた。この人が休んでいるのを見たことがない。とてもよく働く。
 しばらく天気の話だとかニュースの話をしながら一緒に品出しをして、俺は店の前、店長はバックヤードの掃除に行った。
 春先とは名ばかり、日が暮れると上着を着ないと寒い気候だ。一度更衣室に戻って着て来たダウンジャケットを羽織り、箒とちりとりを持って店先に吹き溜まる枯れ葉とか、置き去りにされたビールの缶や煙草の吸殻を片付けた。
 点々と灯る街灯に、仕事帰りと思われるスーツ姿の男女の影が伸びる。誰もが一様に疲れた顔をしている。その中に時々混じる、俺と同じくらいの私服姿の人間を見つけると……胃の奥から何かがこみ上げて来る。もしかすると大学生に「なれた」人なんじゃないかと思うと堪らない気持ちになってしまう。初めは吐いていたけれど、今はバイト前は何も食べないようにしているから胃液が少し上がってくる程度で、不味いし咽喉も焼けるように痛むが飲み下せるようになった。
 コンプレックスと羞恥心と、どうして自分だけがいつまでも……という被害妄想に、俺は追い詰められていた。
 だけど時間は止まらず、限りがある。うちは裕福な家ではないから、何年も息子を予備校に行かせる余裕なんてない。だから俺は必死に働いて勉強しなければならないのだ。
 夜中一時までのシフトを終わらせて、俺はバイト先を後にした。帰り際、店長から少し話がしたいと言われたけれど、用事があるので、と断った。内容は大体察しがつく。「もう五年も務めてくれているし、正社員にならないか?」といったところだろう。
 店長も他の従業員も、今日が俺の志望校の合格発表日であることを知っている。無神経に結果を聞いてきたり、「また来年があるよ」と頼んでもいないのに励ましの言葉を投げて来る奴もいれば、影で何がしかをこそこそと言っている奴もいた。店長もそれを見越して声を掛けてきたのだろう。それで俺が一体どんな気持ちになるか。どいつもこいつも、あまりにも想像力が欠如している。
 なんとなくもやもやして、コンビニでストロング系の缶チューハイを買い、近くの公園で飲むことにする。
 本当は真っ直ぐに帰って勉強しなくてはならないのだが、どうにもこうにも、今日ばかりはそこまでの気力を奮い起こすことが出来そうにない。バイト先では無神経なノイズに晒され、家に帰ればお通夜状態の親が待っているのだから。
「……今年こそは、自信があったんだけどなあ」
 事前模試ではB判定だった。講師からは「もういい加減諦めるか、記念受験だと思え」と言われた。B判定でもそう言われるほどの、狭き門なのだ。しかし俺は気持ちを切り替えられなかった。どうしても、あの大学で哲学を学びたかった。
 物思いに耽るのが好きになったのはいつ頃のことだろう? 周りからはぼーっとしている、とか、何を考えているかわからなくて薄気味悪いと言われていたけど、別に構わなかった。「賢い哉(なり)」と自分で自分を言えるような、そんな人間になって欲しいという自分の名前の由来を聞かされてから、俺はそうあることを自分の人生の指針とし、辿り着いた先が哲学だったのだ。
 この世界の成り立ちから始まり、人間の存在意義や可能性、概念の可視化など多岐に枝分かれしていったこの学問は、俺の心を捉えてやまなかった。
 心とは一体どこにあるのか、と問われた時、人は心臓か頭のどちらかを指す。そう、それさえも曖昧なこの世界に、哲学は一つの道しるべとして存在し、問い続けることを肯定する。「人間は考える葦である」と言ったパスカルの言葉の通りに。
 俺は誰かの指針になりたいのだろうか? わからない。俺の周りにはそこまで深く考え込む人間は存在しなかった。数少ない、俺と同じく哲学を好んでいた友人たちも、どちらかといえば哲学を好む自分が好き、という、哲学という学問を嗜好品のように扱う人ばかりだったから。
 俺は高校の図書館にある哲学書を読み漁り、近隣の図書館にあるそれも全部読んでまとめ上げていた。本当は大学に入らずとも、哲学の勉強は出来る。するか、しないかだけのこと。だけど俺にはそれを指南してくれる師匠的な存在、仲間が欠如していた。どれだけ情熱を燃やしても、独りでは限界がある。それを埋めるため、どうしても大学に行きたかったのだ。
 ちびちびと缶チューハイを飲みながら、スマホで最近買った哲学書を読む。暗くともディスプレイが光ってくれるので読めるのがありがたい。が、軽く酔いが回り始めた頭では内容の半分も入って来ない。後日また改めて読み直そうと、俺はスマホの画面を消した。
 缶チューハイの中身はあと少し。これを飲んだら、家に帰らねばならない。
 俺はえいやっ! と気合を入れるように、それを一気に飲み干した。最後の呷りで、酔いが更に回った気がする。今のうちに帰って、親の顔を見ないように自室に引き篭ってしまえばきっと大丈夫だろう。
 はあ。と深い溜め息を吐いて、俺は自転車にまたがり、家路を辿った。

 びゅううううううううという風切り音で、私は意識を取り戻す。さっき見えた光が遠のいていく。
 今のは、……思い出せない。思い出そうとすると脳がきりきりと悲鳴を上げるかのように痛む。新しい感覚だ。身体感覚は皮膚感覚以外すべて死んでしまったと思っていたのに、内臓の痛覚は残っていた。
 落下は無限に続いている。見えるのは遥か眼下にある大地と海、聞こえるのは己の身体が切り裂く大気の音ばかり。それと自分の思考以外、ここには何もない。
 そうだ、自分の掌くらいは見られるのではないかと思ったが、空気の抵抗が強く、身動きが取れない。私は逆立ちのような恰好で、ただひたすらに落下し続けているのだ。
 この落下はいつまで続き、どのように結末を迎えるのだろう。ずっと、私は私が何者であるかを考えようとして、けれど断続的に意識を失っている。思考はまとまらないまま、己の正体もわからないまま、ただただずっと、私は無為に時間を費やし続けているのだ。
 苦痛だ。……と言えればよかったのかもしれないが、そのことに苦痛は感じない。いつか地面に衝突した時の痛みがどれほどのものかと考えると恐怖を感じるが、あとはもう、ただ目の前を通り過ぎる現象としてしか認識されない。何もかもがすり抜けていく。実感が湧かない。私はもう、私という「個」さえ失った現象、あるいは概念的な何かとしてしか、もう存在していないのかもしれない。
 くらり、と、眩暈がした。そしてまた――瞼の裏に、瞬く光。

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