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それでも共存するために

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争いのない世界について不定期に妄想します。
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アリとキリギリス

↑前回のつづき イソップ童話『アリとキリギリス』は夏の間ずっと楽器を弾くなどして遊び呆けていたキリギリスが冬になってアリに食べ物を分けてくれと頼むも断られて死んでしまう話だったと記憶している。 可哀想だという声がある。アリはキリギリスの演奏を楽しんだのだから助けるべきという理不尽な意見もあった。 実際、改変されてアリがキリギリスを助ける結末もあるようだ。まあ、そういう優しいアリがいてもいい。キリギリスが反省しているなら物語の教訓も失われないだろう。 僕の好みで改変して

宇宙船地球号の嫌なところ

↑前回のつづき 文脈によって解釈は多少変わるようだが、要は「同じ船に乗っている者同士で仲良くやりましょう」ということらしい。理屈としては何も間違っていない。 ただ、素直に「うん、そうだね!」という気持ちになれないのは正論の圧を感じるからだ。どんなに正しくても強要されるなら抵抗したい。しかし、逃げ場はない。 「嫌なら降りろ」と言われているように感じる。このセリフの後には「出来るもんならな」が続く。ニヤニヤとゲスな笑みを浮かべてそう(妄想)。 SDGsにも同じような嫌悪感

最大公約数は元の数を超えられない

↑前回のつづき 純粋で均一なものを扱う前提ならシステムは大幅に簡略化できる。一部の例外に対応しようとするからコストが嵩む。人類全員が右利きなら色々なことが円滑に効率よく運ぶだろう。 自分で書きながら危なっかしい内容にヒヤヒヤしている。優生思想を礼賛する意図はない。穏便な例として左利きをテーマに選んだのに「ぎっちょ」が地域によっては差別用語にあたると知って暗い気持ちになった。 ググっても詳しい経緯はわからなかったが、やはり少数の例外が忌み嫌われたのだと思われる。みんなと違

左利きの視点から

↑前回の続き もともと左利きだったが鉛筆は右で持つようにと親に躾けられた。両利きではない。箸は左手、ボールは右投げ、包丁は左なのにナイフは右という自分でもよくわからないことになっている。 基本的に世の中は右利き用に設計されている。人類の9割は右利きらしいので社会全体の利益を考えれば当然だ。バリアフリーが理想だが、どちらかに寄せねばならないとしたら右利きに合わせるのが理にかなっている。 そのほうが多くの人が幸せになれる。 狭い場所に並んで食事をする際、右利きの人の右隣に

数の論理

↑前回の続き ネット社会のおかげで個人が自由に発信できる。これは自分以外の誰もが発信できるということでもある。発信しないのも自由なので100人いても全員が声を上げるとは限らないが、最大で99人の意見を受信する可能性がある。 つまり自分が発信する以上の情報量にさらされることになる。 この影響は大きい。言うまでもなくテレビ等マスメディアの影響だって決して小さくはない。が、あくまで「多くの人が受信するであろう情報」である。「実際に多くの人が発信した情報」とは根本的に性質が違う

偏向と均衡

↑前回のつづき 誰も悪くない。人はただ自由に生きているだけだ。結果としてそれが世界に流れを作り出し、空気を醸成して、たまに火柱が上がったりする。 その中で流されず、空気を読まず、炎上も無視できる人はそう多くないと思われる。和を重んじる国民性が影響しているのだろう。多くの日本人は自分より世界を優先することがままある(ように見える)。 それもまた自由な選択ではあるが、本当にやりたかったことは胸の内に隠されたまま、世界は正しかったという既成事実だけが積み上がる。結果として世界

優しくなければ生きている資格がない

↑前回の続き 人がそれぞれのやりたいようにできる世界が望ましいと思っている。完全な自由はそれこそ混沌の世界になるので節度は必要だが、制約はなるべく少ないほうがいい。 甘やかし甘やかされるだけのモラトリアムに浸りたいのも自由だし、他人に優しくしないのも自由。親切を押し売りしたい人はすれば良いし、相手にも当然それを拒否する自由がある。 が、実際には一部の自由が阻害されている。 前回まで弱くて優しい世界をやや否定的に書いてきたが、それ自体が問題なのではない。その世界が人々の

優しさハラスメント

↑前回の続き 甘やかしたい人と甘やかされたい人の間に共依存が生まれる。本人同士が望むことなら周りがとやかく口出しするものでない。せめて他人には迷惑をかけてくれるなと願うだけだ。 このように優しさの需要と供給がマッチするケースがある一方で当然マッチしないケースもあり得る。上に挙げた需要と供給にはそれぞれ逆のパターンが考えられる。 まずは供給側。 むやみに他人を甘やかさない人がいる。獅子の子落としはまさに甘やかしの対極にあるし、そこまで行かなくても過保護の手前でブレーキを

水は高きより低きに流るる

↑前回の続き 脆くて傷つきやすい存在が自力で立ち上がろうとしている。 それをただ見守るだけの簡単なお仕事が実際には難しいのは、その人が確実に立てる保証がないからだ。不安を前にして何もしないでいられるように人間は出来ていない。 自力で立てるのか。そのまま潰れてしまうのか。自分のことならまだしも他人のことなら尚更わかるはずもない。どうでもいい相手だったら悩まない。大切だからこそ乗り越えてほしいし、潰れてほしくないのである。 そこへさらに罪悪感が加わる。助け舟を出して成長の

情けは人の為ならず

↑前回までの続き 間違えやすいことわざなのは知っているが、じゃあ結局どういう意味なんだっけと問われたら自信を持って答えにくい。 「情けは自分のためでもある」が正しいらしい。そうそう、そっちだったね。 一方、「情けは本人のためにならない」という誤用も定着しつつあるようだ。文法上、打ち消しがかかる範囲に解釈の余地がある。どちらがより解釈しやすいということもない。 要は作者の思ったほうが正しいわけだが、今どきの現実には誤用のほうが即しているのだろう。優しいばかりではダメだと

優しいカモ

↑前回のつづき 少し脱線するがタイムリーなので触れておくと、「頂き女子」のネーミングセンスやそれを自称するメンタルが僕の想像を大きく超えていて、街でサイドカーを見かけたときのような感動がある。 という話ではなくて、事のあらましが弱くて優しい世界を象徴しているなと思った。 困っている人がいれば助けたい。もちろん本心ではあるのだろうが、この気持ちは道徳観によって増幅されてもいる。弱者には優しくするものだという社会規範が背中を後押ししている。 詐欺師にとってこれは追い風にほ

それでも強く優しくありたい

↑前回のつづき 誰もが自立した強さを持ち、周りから心配されることもなく、周りを心配する必要もない。そのうえで満ち足りている他者に対しても皆が優しく振る舞える。そんな強くて優しい世界になればいいと思う。 絵に描いた餅なのはわかっている。聖者の楽園みたいな世界はこの先何百年経っても訪れないだろう。 史実でも物語でもたいてい聖者は生まれたときから聖者であったかのように描かれる。処女懐胎だったり、脇から生まれたり、転生していたりする。特別な人は最初から特別なのだ、と。 気に入

優しい世界

↑前回の続き 産休クッキーで傷つく人がいる。守ってあげたいと思うのは優しさであると同時に子供扱いでもある。子供といっても侮蔑的な意図はなく、客観的にダメージコントロールが未熟な人間と見られている。 また、親もしくは近しい誰かの庇護下にないとも思われている。支えてくれる人がいるなら放っておいても大丈夫だろう。そうじゃないから自分が守ってあげなければならないと考えるのだ。 その心配が当たっているかどうかはともかく、少なくとも心配が生まれやすい土壌ではあるのだと思う。 たと

ガラスのハート

↑前回の続き 基本的にみんな幸せになればいいと思っているので、誰かの幸せで自分が傷つくところを想像しにくい。唯一、思いついたのが推しの結婚だった。 僕の推しは結婚報告をせずに表舞台から去ってしまった。それはもうそういうことだと察しているが、まだ確定はしていない。これがもし確定したならば少なからずダメージを受けることになるだろう。 2、3日は寝込むと思う。しかし、立ち直れる自信がある。その強さ(≒鈍さ)があるから他人の幸福を願える。 前回のリンク先の記事によると産休クッ