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宮﨑駿監督作『君たちはどう生きるか』と日本の近代:悪意に満ちた「石」とその桎梏

※本記事はアニメ映画『君たちはどう生きるか』のネタバレを含みます。未鑑賞の方はご注意ください。

 2023年7月14日、終戦記念日に先立つこと約一ヶ月、宮﨑駿監督作『君たちはどう生きるか』(以下、『君どう』と略記)が封切られた。『君どう』は一言で言えば、牽引力に溢れた挑発的なアニメ映画だった。一方で、多種多様なアニメーションの快楽に満ちている。うねる火炎、陰鬱とした屋敷、不気味な塔、不可思議な異界、集合物のうごめき(バラバラな動きのコントロールの妙)、グロテスクさ・滑稽さ・かわいらしさを行きつ戻りつするキャラクター造形――こうした映像美の奔流がめまぐるしい場面転換とともに押し寄せ、観客は退屈を感じる暇もなく結末に向かって押し流される。他方で、典型的な「行きて帰りし物語」でありながら、アレゴリカルな描写が引っかかりを残す。『君どう』の梗概は次のとおりである。病院の火災によって母を喪った少年・ひとは、アジア・太平洋戦争の戦況が悪化するなかで田舎へ疎開し、そこで母に瓜二つの叔母・ナツコ――眞人の父の再婚相手――と対面する。眞人は継母や閉鎖的な田舎の人間に居心地の悪さと反発を覚えながら、人の言葉を話す奇怪なアオサギに導かれて、ナツコの母の「大おじ」が建てたという塔へと引き寄せられていく。異界(地獄)へ通じるその塔のなかで、眞人は雑多なアレゴリーを見聞きしながら、新しい母と腹違いのきょうだいを受け入れる心の準備を遂げ、戦後の東京へと帰っていく。このように情緒の欠片もない文章でまとめると、『君どう』はきわめてシンプルな物語に思えるが、実際には深読みを誘発する文言や意匠によって、観客には意味深長で難解な作品と映りやすい。かく言う私も、上映が終わった直後は「誰に向けて何を言わんとしている作品なのかよくわからないので、作品の外側から補助線を引きながら理解に努めるしかない」と思った一人であった。

 ここで、本論に入る前に断っておかなければならないが、私は宮﨑駿の監督作を網羅的に見ているわけではないし、スタジオジブリの歴史や特徴を熟知しているわけでもない。だから本稿では、『君どう』を宮﨑駿のフィルモグラフィのなかに位置づけることは行えない。また、『君どう』を宮﨑駿の私小説ないし自伝的総決算とみなして、宮﨑駿の隠された欲望を言い当てようとしたり、宮﨑駿の怒りや悲しみを見透かそうとしたり、宮﨑駿を取り巻く人間関係や人間集団から読み解こうとしたりもしない。本稿は端的に言って、「君たちはどう生きるか」という表題の問いに対する「私はこう生きる」という宣言、あるいは「124分の上映時間のあいだ、私はこう考えながら生きていた」という表明である。それゆえ、以下に書き記すことが、私が白地や余白に対して自分の理想や関心を投影したものである可能性は否定できない。しかし、作品やアレゴリーに触発されるということは、仮にその反応が妄想ファンタジーに起因するのだとしても、熱を帯びた(言い方を変えれば、冷静でいられない)自分を振り返る貴重な契機となりうるし、『君どう』がすでに甲論乙駁の渦中にあるという状況に鑑みて、私の触発について書き残しておくことは有用であろうと考えるにいたったため、筆を執ることにした。本稿は、『君どう』がいかに挑発的な作品として私に受け取られたかを示すドキュメントである。

 映画館で『君どう』を見て以来、私の心をとらえて離さないイメージがある。それはだ。眞人が身を寄せる屋敷の裏庭にそびえ立つ塔が、いまだに私の頭から離れようとしない。私にはどうしても、「大おじ」が心酔したこの塔が西洋文明の精神の象徴に見えてならない。塔は、奉公人の老婆によると、「御一新」すなわち明治維新の頃に空から突然降ってきたものだという。それから三十年ほどすると、塔は緑に覆われるようになり、それを「大おじ」が発見した。「大おじ」は塔に高い価値を認め、塔を包み隠す建造物の建築を指揮したが、完成までの過程で多くの死者や怪我人が出ることになった。しかも、塔の内部は洋風の装丁の書物で天井まで埋め尽くされており、塔の入口をなす門には“fecemi la divina potestate”(私をなしたるものは、神の力)というダンテの『神曲』「地獄篇」第三歌五行目からの引用文が彫られている。後述するように、ダンテの『神曲』は西洋近代の国民国家形成に寄与した素材の一つであり、『君どう』においても重要なモチーフとなっている。こうした情況証拠の積み重なりによって、塔は江戸幕府の終焉に先立つウェスタン・インパクト、すなわち日本の近代化過程における西洋の外圧のアレゴリーであるという解釈が導かれる(*)。重要なことは、ここでいう外圧とは砲艦外交のみを指すものではなく、西洋文明による啓蒙を含んでいたということだ。『君どう』の塔は洋風の装丁の書物や石膏像といった種々の舶来の文物を貯め込んでいた。それは、ウェスタン・インパクトが文化的な、言い換えれば精神的な侵略でもあったことを如実に表しているように私には思えた。

(*)黒船来航(1853年)および不平等条約の締結(1858年)から大日本帝国憲法の公布(1889年)と帝国議会の開設(1890年)まで三十余年を要したという史実は、塔の飛来から外壁工事の完了までの作中時間とも奇妙に符合している。

 必然的に、明治維新なるクーデタは、欧米列強に近代的な国民国家として日本を認めさせるという国家的プロジェクトに帰着することになった。2023年7月末現在、NHKで放送中の連続テレビ小説『らんまん』も、折よく日本の近代化というテーマを扱っている。『らんまん』は日本の植物分類学の父とされる牧野富太郎の生涯をモデルとして、日本における植物学の黎明を描いているが、その伴奏には自由民権運動の弾圧、鹿鳴館に代表される欧化政策、シェイクスピアを模範とした文学革新運動、東京大学を拠点とした西洋の学問のキャッチアップ、欧米の大学への国費留学、学名をめぐる国際的な業績競争といった軋むような不協和音が絶え間なく響いている。『らんまん』は純粋な植物への愛や自然科学的な好奇心が国際的な勢力の不均衡、強いて言えば日本の後進性に翻弄されるさまを活写している。この彼我の差こそ、宮﨑駿の一つ前の監督作『風立ちぬ』が本庄に「俺たちは20年は遅れてるんだ」と言わしめた距離であり、アキレスと亀のパラドックスに仮託した埋まらない溝なのである。ここで改めて問わなければならない。西洋が先進的な文明であり、見習うべき模範とされているのはなぜなのか。そこに死にものぐるいで追いつかなければならないと思うのはなぜなのか。先進国行きのバスに乗り遅れたくないと焦るのはなぜなのか。日本が文明化の競争から降りることができないのは、アヘン戦争における大清帝国の敗退以来、植民地化や侵略に対する怖れを払拭できないからであり、技術革新に裏打ちされた軍事力の相互のエスカレーションだけがその怖れを一瞬忘れさせてくれる。『君どう』はそうした消極的な動機から一歩進んで、西洋近代にあこがれつつも憎しみを抱くエリートのアンビヴァレントな感覚に肉薄しているように見える。とても頭のよい人だったとされる「大おじ」は本を読みすぎて変になったと噂されているが、彼の蒐集した書物の装丁を見るかぎり、彼が漢籍を読み耽っていたとは到底思えない。「大おじ」は西洋近代に妄執するエリートの典型例であり、彼が塔のなかで忽然と姿を消したのは、日本の土着性に背を向けて、エリートの夢に立てこもったことを意味するように私には見えた。その意味で、塔は西洋文明の精神の象徴であり、日本人にとっては象牙の塔なのだ。

 塔の入口をなす門に話を戻そう。門に刻まれた“fecemi la divina potestate”(私をなしたるものは、神の力)という一節は、ダンテの『神曲』「地獄篇」第三歌に登場する地獄門の銘の一部である。銘の全文は以下のとおりである(九行目は五行目に比べれば、よく知られているように思う)。

私を通って悲しみの都に至り、
私を通って永遠の苦悩に至り、
私を通って失われた者どもの間に至る。

正義は高き造物主を動かしたり。
私をなしたるものは、神の力、
至高の知、第一の愛。

私の前に造られたるものはなし
永遠なる事物の他には。そして私は永遠に続いていく。
あらゆる希望を捨てよ、ここをくぐるおまえ達は。

(ダンテ・アリギエリ(原基晶訳)『神曲 地獄篇』講談社学術文庫、2014年、54頁。
強調は筆者による)

 イタリア文学研究者で『神曲』の日本語訳を刊行した原基晶によると、『神曲』の地獄門は「近代に向かう人類がくぐったローマの門」である。

 冒頭の地獄門に刻まれる九行は、新たな文体、新たな文学、新たな世界の宣言ともとれる。それはリアリズムへの意志だ。天国という救済を描くためには、その前に、現実世界の悲惨を徹底的にリアリズムで描き切らなければならない。ダンテを取り巻く現実の悲惨は、地獄という永遠の位相の中に定着されることになる。そして、その最初の表現は、門をくぐった直後の、地獄の有様を強く、激しく、生々しく描写する文体であり、その衝撃は計測可能な時空間を切り開き、近代が成立する場を準備した。
 それゆえ地獄門は近代に向かう人類がくぐったローマの門なのだ。地獄に仮託されている過酷な現実世界を生き抜くための導き手が古代ローマの理性の象徴ウェルギリウスであるように、この地獄門には、当時の中世都市の城壁にあった門のイメージだけではなく、ローマの門のイメージが反映されていると思われる。

(同書521頁。強調は筆者による)

 『神曲』のなかで、ダンテはローマの詩人ウェルギリウスに導かれて、地獄門を抜けて徹底的なリアリズム――過酷な現実世界の写し鏡――と対峙する。しかも、この透徹したリアリズムは西洋中世の公用語とも言うべきラテン語ではなく、スペシフィックな俗語(イタリア語)で展開されていた。国民国家の形成期において、ダンテが近代人の先駆にしてイタリア国民の父として高い評価を受けるようになるのは、こうした事情によるところが大きい。原は自身の著書『ダンテ論:『神曲』と「個人」の出現』(青土社、2021年)において、「現実に、1861年に統一国家を形成することになった新生イタリア王国において、ダンテは祖国の父として、そしてイタリア語の創造者として新国家の文化的基盤となった。この近代国家成立時に『ダンテ』を規定した枠組みは現代のダンテ研究にも残り続けている」(同書9-10頁)、「極論するならば、総体としては、ダンテ研究は国民国家イタリアの文学史を成立させるために構築されたような感がある」(同書51頁)と指摘している。原はこの著書において「ダンテ論の無効を宣言」し(同書345頁)、ダンテを天才詩人・超人とみなす神話や国民国家のイデオロギーからダンテを解き放つことに腐心しているが、「EU発足後、国民国家体制が揺らぎつつある現在においても、イタリアにおける一般的なダンテの位置づけは、国家とイタリア文化の象徴のまま」なのであり、「もちろん同時期に国民国家を成立させた日本においても、そうした国民国家の詩人、というより国家の象徴としてのダンテと『神曲』という理解が一般的」(同書202頁)であることに変わりはない。さらに、「中世的な枠組みから国民国家的文学に到達した『神曲』は、世界文学のカノンの筆頭として、ヨーロッパの共同体を代表することができる」(同書203頁)と考える立場もある。したがって、塔の入口をなす門にダンテの『神曲』の一節を彫り込むスノビズムは、ダンテを西洋文明の精神の代表者とみなすと同時に、西洋に倣って国民国家の形成(あるいは不平等条約の改正)という悲願を達成しようとするいじらしい努力の跡に思えてならない。

 しかし、ある日突然降ってきた塔を建造物で包み隠す過程で、すなわち西洋文明を日本の内部に取り込むために多くの人間が犠牲となったにもかかわらず、「大おじ」は気が触れたかのように扱われ(たしかにあの蔵書からは若干の狂気を感じるが)、塔の入口は彼の親族によって封鎖されてしまった。結局、脱亜入欧を掲げて和魂洋才を合言葉にしたところで、日本人が西洋文明の精神をものにすることはできず、西洋に特有の観念(たとえば、法/権利、正義、自由、デモクラシー、社会、個人など)は日本に根付かない。どれだけ西洋の猿真似を繰り返したところで、「国際社会」なるものは日本をメンバーとして認めない。そうした鬱屈した思いが日本の内部で膨れ上がり、勇ましい対外強硬論となって内圧を高めていく。塔のなかに消えた「大おじ」は、舶来の「石」との契約(これも西洋に特有の観念である)によって、塔のなかの異界を平穏に維持するための石積みの仕事に従事しているが、彼のにわか仕込みの積み石はいまにも崩れそうであり、エリートの理想を詰め込んだフィクションは『風立ちぬ』のカストルプ風に言えば「破裂」寸前である。『君どう』の終盤において、「大おじ」は自分の限界を悟り、子孫の眞人に自分の仕事を継がせようとして、自分の仕事を「積み木」と説明するが、眞人はそれが悪意に満ちた「石」であることを見抜く。この「積み木」と「石」の対照は日本と西洋の相克を思わせ、その「石」がもともと悪意を帯びていたというのは、西洋文明による啓蒙が差別的で帝国主義的な考えと表裏一体であったことのアレゴリーに見える。さらに言えば、塔を「大おじ」が後継者として後裔の男子を選んだり、館の主の声を血縁者しか聞けなかったりするのは、西洋近代の国民国家の猿真似として船出した新政府が万世一系の男子によって継承される天皇制を國體とせざるをえなかったことを思わせる。別の言い方をすれば、血の論理によって継承される砂上の楼閣は、近代の天皇制と国民国家なるものが根本的なフィクションであることを彷彿とさせる。このように、『君どう』はフィクション論に踏み込んでおり、だからこそ塔と建造物をディズニーの想像力と日本の国産アニメーション(あえて狭く解釈すればスタジオジブリ)に見立てることも可能となる。

 塔のなかで内圧を高めているのは、かつて「大おじ」が持ち込んだペリカンやインコの群れだ。ペリカンやインコに関するアレゴリーを解釈するのは難しい。本稿では暫定的な解釈として、欧米列強が始めた帝国主義的な対外膨張策に日本が連なり、数々の民族を支配下に収めた(ひいては対外膨張を道徳的に正当化するために「大東亜共栄圏」を主唱するにいたった)ことが舶来の鳥の入手によって示唆されており、実質的には、明治維新というクーデタを敢行した新政府が天皇を頂点とした近代国家建設を進める過程で、そこに国民が否応なしに巻き込まれていったことを意味していると考えてみたい。一方で、ペリカンは餌になる魚の乏しい呪われた海に閉じ込められて飢えており、現実世界へ巣立っていく人間のもとのような「ワラワラ」を捕食せざるをえない。これは西洋近代の枠組みに特段の抵抗感を持たない新世代に食ってかかる、国家から見捨てられた旧世代(士族と捉えてもいいし、現代的には氷河期世代を想定してもいい)の戯画のように見える。他方で、インコは獰猛だが秩序を形成して生活しており、インコ大王を指導者にいただいて飽食している。インコ大王に向けられた“DUCH!”というプラカードは、ダンテの『神曲』「煉獄篇」第三十三歌四十三行目に登場する「五百十五」(ローマ数字で書くとDXV)なる表現がDUXドゥクス、すなわち指導者ドゥーチェ(Duce)ムッソリーニを指すとの解釈が流布していたファシスト政権期のイタリアを思い起こさせる。というのも、ギリシャ文字“Xカイ”をラテナイズすると“CH”という表記になるため(ChristmasがXmasと書かれることを思い出してほしい)、DUCHをDUXの言葉遊びと解釈する余地があるからである。ここで、原の著書からファシスト政権期のダンテ解釈に関する記述を引用しておこう。

 ムッソリーニ自身についてはダンテを読む習慣が報告されており、またピエトロ・ヤコピーニ(Dante e il Fascismo nel canto di Sordello, De Alberti, 1929という著作がある)なる人物が「煉獄篇」第六歌のくだりを引いて、イタリアを守らねばならないというダンテの主張を、ダンテは国際的傾向を持つ社会主義を攻撃していると解釈し、またダンテがイタリアを船頭のいない船に例えていることから、ここでのダンテのイタリアはファシズム以前のイタリアを指しており、それゆえにダンテはプレ・ファシストだったと主張している事例が報告されている。これが、ファシズム時代の典型的なダンテのレクトゥーラ、つまり「読み方」だとされる。

(原『ダンテ論』、64頁)

ダンテが地上を正常化する指導者の到来を予言したとされる「煉獄篇」第三十三歌四十三行目のDXV(515)のアナグラムDUX(ラテン語で指導者の意)をDuce(イタリア語で指導者)と解釈し、この時期に限ってはイタリア語でファシスト党首である指導者ムッソリーニを意味したその言葉を根拠に、ファシズムによってダンテの預言原文ママが成就したというオカルト的な思想も流布したことが指摘されている。

(同書66-67頁)

 原の記述を踏まえると、インコの描写に関しても、ダンテの『神曲』が重要なモチーフとなっていることが窺える。インコの群れはまさしく軍人とファシストを指しており、日独伊三国同盟の一角をなす日本においても、無数の日本人が戦争に熱狂したことを表しているように見える。ただ、このような解釈を取るにあたって、一点だけ留意しなければならないことがある。『君どう』の最終盤で、インコ大王は「石」に執着する「大おじ」を突き上げ、癇癪を起こして積み石を崩してしまう。その結果、「大おじ」が懸命に維持してきた塔はあっけなく瓦解してしまうのだ。ここで考えなければならないのは、果たして塔の崩壊はインコ大王の責め一人に帰すのかということだ。昭和天皇は「石」との契約によって国際協調を望んでいたのに、軍部の暴走によって日本は崩壊してしまったのだ、というように昭和天皇の戦争責任をうやむやにし、君側の奸を戦犯として処罰すれば足りるとする論調に棹さす結果にならないように警戒が必要である。

 とまれ、「大おじ」の保護した塔は崩壊した。眞人は「大おじ」の申し出を受け入れて、やがて焼け跡となる現実世界に背を向けて、エリートの夢に殉ずることもできた。しかし、眞人は『神曲』の主人公ダンテとは異なり、死者のほうが多い地獄から煉獄に抜けて罪をそそぎ、天国で見神の体験をするのではなく、やがて火の海になる過酷な現実世界に戻り、そこで友達を見つけて生きていくことを選ぶ。しかもそれでいて、眞人は塔のなかから路傍の「石」の欠片を現実世界にうっかり持ち帰る。本来、塔から現実世界に帰還した者は、塔のなかの出来事を覚えていない。塔のなかで権勢を振るっていたインコも、塔から出ればみるみるうちに縮んでしまい、糞尿を撒き散らす「かわいい」小鳥に戻ってしまう。だが反面で、塔という地獄に閉じ込められていたペリカンにとっては、塔の崩壊は救いかもしれない。このように『君どう』は、物事にはつねに両面があるということを子供たちに教えようとしている。いずれにせよ、眞人は「石」の欠片を持ち帰り、塔のなかの出来事を記憶したまま、現実世界への帰還を果たした。そう、仮に塔のなかで過ごす時間が限られているのだとしても、大人になる過程で塔のなかの出来事を少しずつ忘れてしまうのだとしても、ウェルギリウスではなく醜悪なアオサギ男くらいにしか導かれないのだとしても、「石」の欠片を持ち帰ることはできたのだ。そうであれば、その「石」を基盤として平和な時代を切り拓き、新たな可能性を模索することはできるはずだ――そんな声がスクリーン越しに聞こえてくるような心地がする。戦争が終わって二年後、眞人は新しい家族とともに東京へ帰る。1947年5月3日、日本が日本国憲法という新たな「石板」を得たことは周知の事実だ。こうした符牒からして、眞人が戦時中に持ち帰った「石」の欠片――西洋文明の欠片――が戦後の平和主義の礎となったと解釈することもできるように思う。その意味で、私は『君どう』は反戦的・護憲的な作品であると評価している。

 加えて、看過してはならないのは、「大おじ」が遥かな時空をこえて、悪意に染まっていない「石」――西洋文明を模範とする近代化とは別の可能性――を見つけてきたと眞人に述べていたことだ。「大おじ」は悪意に満ちた「石」、すなわち西洋に特有の観念を習得するよう眞人に強要したわけではない。ちょうど経済学者のヤニス・バルファキスが言うように、眞人には西洋文明にとらわれず、折衷主義者となって様々な知的素材を蒐集し、自分のオリジナルの思想体系を組み上げる選択肢も残されていたのだ。

ありとあらゆる思想体系を学び、折衷主義者(the eclectic)となってすべての体系から学べるだけ学ぶ方が良い。……渓谷を飛び回るミツバチのように、谷のそこかしこに咲き誇る花からそれぞれ少しずつ汁を集めて、自分のオリジナルの蜜を作るのが本筋だ。

(ヤニス・バルファキス(早川健治訳)『世界牛魔人:グローバル・ミノタウロス
米国、欧州、そして世界経済のゆくえ』那須里山舎、2021年、368頁)

 しかしそれでも、眞人は悪意に染まっていない「石」を積み上げることを拒否して、明治維新に伴って降ってきた塔のなかに転がっていた「石」の欠片を現実世界に持ち帰った。眞人のこの選択は現代の我々にとってもアクチュアルだ。1947年5月3日に施行された日本国憲法にもとづく国制は、幾度も繰り返される強引な解釈改憲によって風前の灯であり、再び積み石は崩れそうになっている。我々は再び「石」を持ち帰らざるをえない――日本、いや世界中に刻印された西洋文明の悪意に満ちた普遍的思考のなかから。我々はいくら舞い上がっても特定の島にしか辿り着かないペリカンのように、西洋文明の桎梏にとらわれており、何度でも突然降ってきた塔のなかからやり直さなければならないのである。崩落した「大おじ」の塔に背を向けて、苦い現実リアリティに甘んじた先には、第二・第三の火の海が待っている。現実をリアリティとして甘受するのではなく、アクチュアリティとして作り変える努力をしなければならない。そして、その素材は明治維新に伴って降ってきた塔の残骸でしかありえない。つまり、問題の本質は「もはや戦後ではない」とか「戦後レジームからの脱却」といった言葉の正否ではなく、西洋諸語の翻訳と猿真似から始まった日本の近代化過程そのものに伏在していると言わざるをえない。

 それでは、君たちはどう生きるか。やれグローバリゼーションだ国際化だと言ってみたところで、日本が舶来の文物を借りてきて近代化した歴史は覆らない。もちろん、果たして先進/後進という二分法が正しかったのか、再点検することは悪いことではない。だが、ある意味で西洋から押しつけられた馴染みのない建てつけが、ギリギリのところで崩壊を食い止めているのもまた事実であり、その堅牢さには脱帽せざるをえない。「大おじ」の塔が崩れたからといって心配する必要はない。塔はいまだに複数の世界にまたがって立っている。欧米列強が世界を我が物顔で分配した爪痕は残されたままなのだ。

 やはり「石」から始めよう、たとえそれが悪意に満ちたものだとしても。

参考文献

原基晶『ダンテ論:『神曲』と「個人」の出現』青土社、2021年。

ダンテ・アリギエリ(原基晶訳)『神曲 地獄篇』講談社学術文庫、2014年。

ダンテ・アリギエリ(原基晶訳)『神曲 煉獄篇』講談社学術文庫、2014年。

ヤニス・バルファキス(早川健治訳)『世界牛魔人:グローバル・ミノタウロス 米国、欧州、そして世界経済のゆくえ』那須里山舎、2021年。

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