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断片小説集

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脈絡もなく浮かんだ小説の断片を集めました。ここから何かが始まるのか、このままでいるのかわからない、体裁も整えないままのレアな状態。断片だから研がれもせず、丸められもしないままの何… もっと読む
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記事一覧

「木版画」 | 言葉のスケッチ

「木版画」 | 言葉のスケッチ

 滑り止めのゴムの上に版木を置く。
 絵の具の乗りが良くなるように刷毛で水を薄く引いてある。もう十分に水は吸ったはずだ。
 白い陶器の皿に黒の水彩絵の具をひと絞り。そこに墨汁を注いで伸ばす。伸ばし加減は難しい。粘りがあってもシャバシャバでもいけない。濃さと薄さの中間、汽水域のような曖昧さの中に収まるように絵筆で絵の具と墨汁を混ぜる。
 デンプン糊の準備はできていた。ジャムの空き瓶の中で水で薄めたデ

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断片小説集10(単発)

断片小説集10(単発)

 —— その部屋の持ち主の趣味はおよそ良いものとは思えなかった。
 北側の窓を背にして、床に敷き詰められた臙脂色のカーペットの上にマホガニー製のデスクが置かれている。恐らくはオーダーメイドだ。よその経営者の執務室で目にするデスクより50センチは大きい。その気になれば私のベッドの代わりにもできそうだった。
 カーペットもきっと特別に誂えたものなのだろう。毛足はわずかに伸びたゴルフ場のフェアウェイほど

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断片小説集 9

断片小説集 9

 僕はいま3匹の猫と暮らしている。
 三毛猫のチャコ、サビ猫のザクロ、黒猫のコタキ。
 元々は3匹とも庭に迷い込んで来たまま居着いた猫たちだったが、共に暮らすようになって3年になる。
 3年も経てば立派な同居人(同居猫?)だ。

 彼女たちの名前は、実はかつて生家に居ついた黒三毛のチャミが産んだ子供の名前だったものだ。
 チャミは裏の家の主人が飼っていた猫だった。
 奥さんに先立たれた老主人が突然

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断片小説集 8

断片小説集 8

 いつも夢に出て来る人がいる。妙齢の女の人だ。
 私は彼女のことをよく知っていて、夢で会うたびに懐かしく思う。親密だったというより、大きな信頼を置いていたような人だったらしい。

 彼女が夢に出てきた日の朝は、目が覚めた瞬間からすでに幸福に包まれている。
 それが冬の寒い朝であれ、夏の暑さですでに汗ばんでいるような日であれ、彼女の夢で始まる1日はそれだけで幸福なのだった。

 現実の彼女に会った記

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断片小説集 7

断片小説集 7

 駅のホームにある狭い待合室が僕の読書席だ。
 学校の帰り、賑やかに喋りながら下校する同級生たちが電車に乗り込んで行くのを見送りながら、僕は毎日、日が暮れるまで小説を読む。規則正しい毎日の習慣だ。
 誰かから話しかけられることもなく(最初は同級生たちがうるさかったけれど、じきに誰も喋りかけなくなった)、夏には冷房が、冬には暖房がちゃんと入る。ベンチの座り心地は良いとは言えないけれど、贅沢を言えばき

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断片小説集 6 〜『エンタメ選挙改革(仮)』

 20XX年、超高齢化社会と国民の政治離れに歯止めはかからず、高齢の有権者が投票所に出向けないことで低投票率に拍車がかかり、総有権者数の8%程度を獲得すれば与党第一党になってしまう状況に至った。
 代議士制の体をなしていないと世論に糾弾され、長年の世襲で議員の地位を確保してきた政治家たちは、自ら正当性を国民に認めさせることができなくなった。
 そしてここに過去に例を見ない画期的かつ斬新な公職選挙法

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断片小説集 5

断片小説集 5

私はパン職人になりたかったんです。母もパン職人に憧れてましたから、私が会社を辞めてパン職人に弟子入りしたいと言っても、反対はしませんでした。
パン職人は体力勝負です。運動音痴で、体育の成績はいつも1か2だった私ですから、5年ぐらいは修行を積まなきゃと思ってました。どうせ修行するなら長い間パン屋さんを続けている職人さんの下で修行したいと思ったんです。
私はあちこちの町を歩き回って、パン屋さんを探しま

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断片小説集 4

断片小説集 4

その古本屋では本を量り売りしている。白髪の眉が垂れ下がり、背中も曲がった店主は店の奥の狭いカウンターに座ったまま、客が選んだ本を秤に乗せては値決めをしていく。あらかじめ値札を貼らないのは、量るのが本の物質としての重さではないからだ。
本の重さは変化しないが、内容の重要さは時代によって変わる。目まぐるしく変化する現代社会では昨日まで価値があったものが、今日には価値が半減することもあるのだ。店主は本の

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断片小説集 3

「日本語お教えします」
自宅の門にそんな張り紙をしてから1ヶ月後、日本語を習いたいという宇宙人がやってきた。
本物の宇宙人なのかどうかはわからない。本人が自分は宇宙人と言っているのだからそうなのだろう。

「わし、この星に赴任してきてもう2年たちますねん。うちの星の決まりで着いた土地の言葉を喋れるようにせなあかんのやけど、わしの言葉、どこで喋っても笑われますのんや。そないにけったいでっしゃろか。わ

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断片小説集 2

断片小説集 2

その古い喫茶店には年季の入ったレコードプレーヤーとモノラルの大きなスピーカーがあった。人通りもまばらなビルの裏にひっそりと佇む喫茶店は、それでも絶えず一人二人の客がいた。
店の中にはいつもジャズが流れていた。リクエストもできる。
ソニー・クラークの“Cool Struttin'”をリクエストしたときのことだ。店主はレコード棚ではなく、CDラックに手を伸ばした。
「レコードはないんですか?」と聞くと

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断片小説集 1

断片小説集 1

南の海のどこかにある小さな島では、1年に1度だけ砂浜に物語の破片が打ち上げられるらしい。
その日が満月と重なると、大量に打ち上がった物語の破片が騒めく声で砂浜が満たされるのだという。
その島は今、とある著名な小説家の私有地になっているそうで、毎年、行き詰まった小説家が上陸を試みては捕まり、強制送還されているのだそうだ。

(「物語の破片が打ち上がる砂浜」)

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