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〈私〉の死とともに終わる〈この世界〉について!!

 〈私〉が「まだ生きたい」と思うたびに、世界はまたその情報量を少しずつ追加してくる。


 そうやっていつまでも生き続けることも可能なのかもしれないが、その場合、言葉にできない気持ちがどんどん溜まっていくことになり、どこかの時点で言葉が人に伝わらなくなる局面が出てくるように思います。


 まぁ、あくまで人間としての振る舞いだけはきちんとしようと考えた場合、《終わらない世界》を描き続けるのも「どーなのかな?」という気がしてきた、というだけなんですけども。


 奇しくも物語というのは、その時間的性質上、必ず「終わるか、終わらないか」の2つに別れます。


 主体的な目線でいえば「終わらせるか、終わらせないか」の判断に迫られる、ということですね。


 世界には色々な結末をもった物語が存在していますが、どれだけきれいな結末を迎えた物語であっても、作品内の世界が消滅したりしていない限り、本当に物語が終わったとは言えない。


 1967年の映画『卒業』のエンディングは、その点でとても考えさせられるものになっていますね。


 ドラマチックなシチュエーションの代名詞ともいえる「花嫁奪還」の後、バスに揺られながら少しずつ消えていく二人の笑顔は、脚本にない偶然の産物らしいけれど、そのおかげで映像でしか作れない深い物語になっていると思います。


 物語というと言語的にしか関われないと思いがちですが、そんなことないんだろうなと考えさせられるシーンですね。


 『卒業』のエンディングのように、色んな解釈や受け取り方ができる終わり方というのは、つまり「非言語な表象が続いている間に幕を下ろす」ということです。


 言語化という作法の中だけで物語を作ろうとすると、どうしても純化していくというか、現実のダラダラした部分を捨象してしまうというか。


 文系の人というのは小説なり漫画なりで物語に触れていて、自分の人生とそれを常に比較対象として、よりロマンチックに、よりドラマチックになる展開はないだろうかと目配せしている。


 ドラマツルギーとしての言語化作用の果てにあるのは、〈破滅〉か〈分離〉かではないか。


 だから最後は、終盤は、終局は、言葉を控えて沈黙のうちに〈意味〉を膨らませよう。



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