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misogyny (女性蔑視)と女子校

自分の中でもやもやしていた感覚が、言語化されるのは、読書の醍醐味のひとつだと思う。
『女ぎらい ニッポンのミソジニー』という本を読んで、私は女子校を卒業後、女子校の時と同じようにふるまえない窮屈さを感じていた理由を、少し理解できた。

11章“女子校とミソジニ-”で、

女子校文化の特殊性と、

共学文化とは相容れないがために、

女子校出身者には、苦労や葛藤があることが書かれていた。

その理由は、女子校文化では、女性はミソジニーを感じにくく、卒業して共学文化に触れたとき、自身が抱く、そして周囲の人が抱くミソジニーの文化に対処することが難しいから。

**ミソジニーとは、『男にとっては“女子蔑視”、女にとっては“自己嫌悪”』という対照的な形で、男女が感じる考え方だという。 **

ミソジニー(misogyny)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ミソジニー

著者の言葉を引用しながら、なぜ女子校出身者が共学文化で苦労と葛藤を抱えるのか、ということを説明し、それに対して私が感じたことをまとめたい。

【女子校文化は、とても特殊なところ】

この世の中は、共学文化で、

『男の視野に、はいらない、そこにあるのに知られていない新大陸』(すごい表現)

が女子校文化だという。

男性が一人でもいたら、女性の振る舞いは変わるから、女子校文化を男性は“ぜったいに”知ることができない、というのだ。

男子校文化と共学文化にその違いはないらしい。ミソジニーの視点からすると、男子校文化の良し悪しの基準と、共学文化の良し悪しの基準は変わらないからだという。面白い。

【女子校文化のよいところ】
『女子校に娘を送り込む多くの親は、女らしく育ってほしいと願っていることだろう。だが、それはとんでもない勘違いだということが、経験的に実証されている』の一文で笑ってしまった。その通りだと思う。

誰も力仕事や統率役を代わってくれないから、かえってのびのびとリーダーシップを発揮するチャンスに恵まれる。
生徒会長も、体育部長も、合唱会の指揮者も。
何かをする時に、男だから女だから、という理由づけが存在しない。

私は、ひかえめ、遠慮、気配り、主張しないといった女らしさの美徳を前面に出す女性が、なんとなく苦手で、違うタイプだな、と感じることがある。それも、著者は的確に表現した。
『(女子校文化の)彼女たちは、異性愛の制度のもとで女性性資源を利用することを知らないわけではない。それをあまりにもあからさまに自分の目の前でやってのける他の女のパフォーマンスに、鼻白むだけだ』

【女子校文化を知った女性が、抱える葛藤】
ただ、女子校文化を知った女性が抱く、苦労と葛藤について、2つの指摘がされる。

✿ 女子校文化に存在する、二重の基準(ダブル・スタンダード)

✿ 女性が他の女性を評価する、複数の指標

**女子校出身者の私にとっては、胸が痛む、少し不快になる程、的確だ。 **

女子校文化のダブル・スタンダード、二重基準のもとでは、
『男から見て「いい女」と、女から見て「いい女」とが違うのはあたりまえ。
男が女に与える価値を女がコントロールすることはできないから、男から見て「いい女」は、女の間では怨嗟と羨望の的になる。
他方、女から見て「いい女」は、男目線を外しているばかりか、「男にウケない」ことを安心の条件とする意地悪な評価が含まれていたりする』という。
女子校にあるのは、後者の基準だと、著者は述べる。

もうひとつ、女性が他の女性を評価する、複数の指標について。具体的には、
✿ 学業偏差値
✿ 女らしさ偏差値
✿ 女ウケ偏差値
だという。
学業偏差値は、どれくらい勉強ができるか。
女らしさ偏差値は、共学のスタンダードのなかで、どれくらい高い位置に居られるか。

『女子校文化のなかでの女ウケ偏差値』とは。
女子校文化では、凛々しく男らしい女の子がヒーローになったり(ヒロインではない、ここ重要)、明るく面白く前に出る子が人気者になったりする。男子目線がないからこそ、共学文化では、引かれちゃうかも、というような趣味・好みを、好きなだけ発信することもできる。

ただ、ここで著者は突きつける。
『だが、いずれだれもが卒業していく女子校文化を離れたあとに、かつて女子校文化のヒーローだった少女が、異性愛者の制度のもとでどうふるってよいかわからずに、アイデンティティ・クライシスを経験することもあるだろう。』
アイデンティティ・クライシス!そこまでいうかな?でも、ぐさっと胸にくるものがあった。

と、いうのが本の中で述べられていることで
ここからは、感想をまとめてみたいと思う。

著者は、女子校文化に存在する二重の基準のうち、女が評価する基準を、悪意があるものとしているが、私はそれだけとは思わない。
男性からの評価、価値のコントロールがない場所では、女の子はとてものびのびしているし、自分の思ったことを、異性からのフィルターをかけずに発信できる。
男目線を外しているからこそ、男子でも女子でもないその人本人と向き合ってるように感じられる。
著者は、共学文化のなかで女子だけになったときの女同士、と女子校のなかでの女同士、を、完全に分けてないから、こんな悪いイメージにしているのかな、と思う。

ただ、卒業後、同級生の近況をきくと、
『女子校のスタンダード』
『共学・一般社会のスタンダード』
どちらを大事にしてるのか、なんとなくわかるし、あ、女子校のときとは変わったんだな、と感じたりするのも事実だ。
正しいのはどちらか、ということではなく、ただやっぱり現実の社会は『共学のスタンダード』が主なのだから、
意識してるにせよ、してないにせよ、一般的なものに合わせていく人だって、たくさんいておかしくない。

**また、著者は、女子校文化の良いところを紹介していながら、
女子校を卒業したあと、どのように共学文化のなかで生きていけばよいか、女子校文化で得たことを、どのように生かしミソジニーに立ち向かうか、ということまでは示してくれない。 **

私は、どうして女子校の雰囲気、ノリを伝えるのは難しいのだろうか、常々不思議に思っていた。
それは、経験しないとわからないから、だ。
一歩社会に出てしまうと、女子校のように、完全に女性だけで閉じた場所は存在しない。
女子校にいた時、なんとなく、今しかこの空間はないと感じていたことも、説明がついた。同級生と、卒業したらこんな風に笑っちゃダメだね、もっと女の子らしくしなくちゃね、こんな話題話しちゃダメだよね、と笑いながら話した記憶もある。

**でも、そんな隠しておかなきゃいけないものだろうか。
女子校文化のなかで感じたのは、
「女ってダブルスタンダードで評価されて、いろんな基準でお互いをみてて大変、今は楽しくても結局最後は共学文化に溶け込まなくてはいけないのだ」
といった、息苦しいものばかりではない。
女子校文化で培われた基準、考え方のなかには、男社会・共学社会で生きていくために、むしろ役立つものがあるのではないだろうか。 **

『女子校文化は、メディアの世界に深く静かに領土を拡大している...男の死角だったこの暗黒大陸が、あるとき幻のアントラティスが浮上するようにぬっと彼らの視野にあらわれたとき、いったい何が起こるだろうか。』
この言葉で章が閉じているのは、私には希望のようにも思う。

『女ぎらい ニッポンのミソジニー』上野千鶴子
https://books.google.co.jp/books/about/女ぎらい.html?id=Z-3YcQAACAAJ&source=kp_book_description&redir_esc=y

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