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ポール・オースターが死んだ日【夢の話、または短編小説の種 #5】

「ねえ、ダニエル、ポール・オースターが亡くなったって」

うとうとと眠りかけてニューヨークの街を徘徊する夢を見ていた僕は、ヴァージニアの声で目を覚ます。薄暗い部屋でヴァージニアはスマートフォンを覗き込んだまま「肺がんの合併症だって。あなた、若いころ、彼の本をよく読んでいたわよね」と続けた。以前、彼ががんで闘病中だと発表されたことを知っていたけれど、思わず狼狽した。スマートフォンの明かりに照らされるヴァージニアの顔をちらりと見て、毛布を手繰り寄せて背中を向ける。オースターの妻で作家のシリ・ハストヴェットが公表したのは三月十一日だった。僕の誕生日だったからよく覚えている。

黙ったままの僕を、ベッドの上でヴァージニアが背中から抱きしめてきた。壁掛け時計の針は一時すぎを指していた。僕はヴァージニアの手を握り、昨日の昼に起きた出来事を思い出していた。喉が痛い僕は、会社の昼休みを使って、小さな病院を訪れていた。待合室で座っていると、隣の男がずいぶんと真剣な表情を浮かべてスマートフォンで話し込んでいた。何度も「そうじゃない、私の名前はポール・ベンジャミンだ」と繰り返していた。それから、僕を診察してくれた女性医師の左手の甲にどういうわけか「ガラスの街」という走り書きがしてあった。

僕は喉の腫れを少しでも和らげたくてベッドから起き上がり、冷蔵庫からボトルドウォーターを取り出す。ごくごくと水を飲んで、オースターの三部作を熱心に読み込んでいた学生時代を思い出す。彼の存在を教えてくれたのは恋人のリディアで、彼女とは五年ほど付き合った。ヴァージニアがベッドから「喉が痛いの?」と訊いてきた。

僕は何も答えず、本棚のほうに向かう。全冊とまでは言わないけれど、オースターの本が何冊かあるはずだ。僕は『スモーク』の脚本を読みたくて、明かりをつけて本の群れを目で追う。でも、見つからない。代わりに『孤独の発明』の背表紙に気づくと、ほとんど同じタイミングでスマートフォンが小さく音を鳴らした。

短いテキストを送ってきたのはコロンビア大学で同級生だったマーコだ。そのメッセージは「幼なじみのファンショーが妻のソフィーと小説の原稿を残して行方をくらました」とだけ伝えてきた。僕はファンショーのことなど知らないけれど、ソフィーという名前に興味をそそられ、もう一度勢いよく水を飲んだ。

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