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現代のヒビの入った承認欲求

 誰かの興味をひけるなら、なんでもする人がいることに驚いてはいけない。それは異常でも病気でもなんでもなく、ただ、誰かに見てほしいという人間の欲のあらわれである。
 そして見てほしいものは、自分の姿とは限らない。自分の為したこと、作り上げたもの、自らに関する噂やイメージなど、様々なものがあてはまる。いわば他人にそれらを売り込むのである。興味を持ってもらうために、そのものを魅力的にしたり、謳い文句を並べたり、流行りに乗ったりする。

 承認欲求は現代において暴走する。あらゆる手段がそのために用いられる。そしてあらゆる目的が最終的にはそれに繋がってしまう。なぜなら今、私たちは多くの繋がりを持ってしまうことによって、人との関係が浅くなってしまっているからである。浅い関係とはつまり、承認欲求がいつまでも満たされないことを示す。
 何をしても、どうやっても、誰かに認められたいという思いは充足することなく乾き続ける。だからあらゆることをするのだ。誰かの興味をひけるなら、全てを使う。

 でも、そうなってしまえばその望みはもう叶うはずがない。本来の「認められたい」という思いには対象がある。自分の能力とか、作品とか、生き方とか。「何を」認められたいのかが重要なのだ。それなのに今、暴走した承認欲求は、承認欲求そのものを目的としている。
 認められることを認められたい。それが充足から人が遠く遠く離してしまう理由になる。中身のない卵のような承認欲求は、ひとたびヒビが入れば元に戻らない。それをあらゆる手段でツギハギして卵に見せる。いわばそれが、空虚な承認欲求である。

 そう考えれば、誰かの興味をひけるならなんでもできることに、驚くべき理由はない。虚しかろうとも、それどころではないのだ。今にも粉々に砕けてしまいそうな自分の殻を、人は必死に繋ぎ止めている。
 もしくはそんな心理を利用して、人を操る人もいる。それもまた「なんでもあり」だ。そういうふうにして現代の承認欲求は、それそのものが取引される、いびつな自己実現を成している。

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