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いざ鎌倉:本編

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鎌倉時代初期(建久~承久)の解説記事まとめです。
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記事一覧

【いざ鎌倉(結)】あとがき・参考文献

【いざ鎌倉(結)】あとがき・参考文献

令和2(2020)年の私の誕生日からスタートした本連載ですが、令和3(2021)年の私の誕生日に終了となります。
1年間お読みいただいた皆さまには感謝申し上げます。
感想を下さった方、書き続ける励みになりました。ありがとうございました。
本にして出版したほうがいいという声も複数の人にいただきました。「よし、本にしよう!」と私が思えば本になって出版されるわけではありませんので、簡単な話ではありません

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【いざ鎌倉(50・完)】最後の勝利者

【いざ鎌倉(50・完)】最後の勝利者

前回までの振り返り。
承久合戦の戦後統治を目的に、幕府の六波羅探題が京に君臨します。
後鳥羽院に代わる新たな京の権力でした。
六波羅探題の主導によって三上皇はそれぞれの配所へ移送され、戦争責任者の探索と追及は戦後10年近く続けられました。

政子・義時時代の終わるとき承久の戦から3年経った元仁元(1224)年6月、執権・北条義時は62歳で人生を終えました。
「帝王の果報に勝っていた」と後鳥羽院を越

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【いざ鎌倉(49)】京の新たな支配者、六波羅探題

【いざ鎌倉(49)】京の新たな支配者、六波羅探題

前回の振り返り。
貴族社会では死刑が廃止されていましたが、後鳥羽院の計画に加わったとされた公卿5名を容赦なく斬首とする鎌倉幕府。
戦争という武士のフィールドに足を踏み入れた彼らに幕府は「武士の論理」を適用するのでした。
後鳥羽院とその皇子たち「三上皇二親王」は配流され、幕府の介入によって後鳥羽院の兄・後高倉院が「治天の君」として院となり、新天皇にはその子・後堀河天皇が践祚しました。
多くの人が恐れ

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【いざ鎌倉(48)】鎌倉幕府の戦後処理

【いざ鎌倉(48)】鎌倉幕府の戦後処理

前回の振り返り。
官軍武士たちは院御所を枕にして討死することを考えますが、後鳥羽院はこれを拒否。
武士たちは東寺を最後の戦場とし、それぞれの場所で自害しました。
入京を果たした幕府軍は賊軍から官軍へと立場を転じ、戦勝の報が届けられた鎌倉では北条義時が勝利宣言。
いわゆる「承久の乱」は幕府軍の完勝に終わりました。

仲恭天皇と三上皇二親王の退去戦いに勝利した幕府による戦後処理は、六波羅探題の北条泰時

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【いざ鎌倉(47)】北条義時の勝利宣言

【いざ鎌倉(47)】北条義時の勝利宣言

前回の振り返り。
京へ侵攻する幕府軍とそれを防ごうとする官軍は宇治・瀬田で激突します。
官軍は武士だけでなく貴族まで前線に送る総力戦を展開し、長雨による河川の増水にも助けられ幕府軍を大いに苦しめました。
しかし、幕府軍が渡河を強行し、成功させると万事休す。戦いは幕府軍の勝利と終わり、最早京への侵攻を防ぐ戦力は官軍に残されていませんでした。

すれ違う後鳥羽院と武士宇治・瀬田で敗れた武士たちが院御所

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【いざ鎌倉(46)】承久合戦 宇治川の死闘

【いざ鎌倉(46)】承久合戦 宇治川の死闘

前回の振り返り。
美濃・尾張での戦いに続き、北陸でも敗北した官軍。
追い詰められた後鳥羽院は、京防衛の協力を求めるために比叡山へと向かいます。
しかし、頼みの綱の比叡山は協力を拒否。
むなしく京へと戻った後鳥羽院は、実戦経験のない近臣貴族・僧侶たちを前線指揮官として防衛に当たらせるのでした。

最終防衛ライン、瀬田と宇治承久3年6月12日、官軍と幕府軍はそれぞれ瀬田・宇治方面に兵を進め、対陣しまし

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【いざ鎌倉(45)】総力戦、近臣貴族たちの出陣

【いざ鎌倉(45)】総力戦、近臣貴族たちの出陣

前回の振り返り。
接近する幕府軍を木曽川で迎え撃つ官軍。
承久3年6月5日、両軍は遂に激突します。
しかし、戦いは一方的な展開に。
官軍の中には、山田重忠、鏡久綱、渡辺翔のように奮戦する武士もいたものの、主力はあっという間に退却。
合戦はわずか2日で幕府軍の大勝に終わりました。

北陸の戦い美濃・尾張での敗報が京に届けられた承久3(1221)年6月8日、北陸道でも官軍と幕府軍の戦が始まります。

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【いざ鎌倉(44)】承久合戦 美濃・尾張の戦い

【いざ鎌倉(44)】承久合戦 美濃・尾張の戦い

前回の振り返り。
鎌倉で守るか、それとも京へ攻め上るか。
北条政子・義時は大江広元の献策により、決戦の方針を京へ攻め上ることに決めます。
北条泰時に先陣を切って出陣させると、他の御家人たちも次々と鎌倉を出陣。
三手に分かれて京を目指します。
院宣を持たせて東国へ派遣していた押松の帰洛により、後鳥羽院と貴族たちは幕府の大軍の接近を知り、武士たちに防戦を指示しました。

その都度リンクも張りますが、今

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【いざ鎌倉(43)】幕府軍、出陣

【いざ鎌倉(43)】幕府軍、出陣

後鳥羽院の官軍が、幕府の京都守護・伊賀光季を攻めたことで遂に戦が始まります。
光季を討った後鳥羽院は北条義時追討の院宣を下し、関東の御家人を味方に引き入れて幕府を分断することを狙いました。
しかし、院宣は御家人たちに手渡される前に北条義時によって回収され、後鳥羽院の狙いは失敗。
幕府首脳は、後鳥羽院の北条義時追討を目的とした院宣を隠匿し、これは幕府を守るための戦いであると政子が演説することで結束を

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【いざ鎌倉(42)】尼将軍の演説

【いざ鎌倉(42)】尼将軍の演説

本編前回の振り返り。
三浦胤義ら在京御家人の取り込みを進め、決戦に備える後鳥羽院。
承久3年5月14日、武士たちを召集し、いよいよ幕府との決戦に歩み出します。
幕府の京都守護両名にも出頭を命じ、同時に幕府に近い西園寺公経・実氏親子を捕縛、監禁しました。
いよいよ戦いの火ぶたが切られることになります。

コラム「後鳥羽院の武士団」も是非お読みください。

分かれる京都守護の対応幕府の京における代表者

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【いざ鎌倉(41)】承久の挙兵

【いざ鎌倉(41)】承久の挙兵

前回の振り返り。
宗教的手法から幕府への戦いを始める後鳥羽院。
承久3年となり、調伏祈祷が積極的に行われました。
そして、順徳天皇も譲位し、自由な立場となって父の計画を支えることになります。
決戦は一月後に迫っていましたが、幕府は全くの無警戒でした。

鎌倉時代の武士後世の江戸幕府では原則、将軍に大名・旗本が忠誠を誓い、その大名・旗本に家臣たちが忠誠を誓うというピラミッド構造になっていました。

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【いざ鎌倉(40)】順徳天皇、譲位

【いざ鎌倉(40)】順徳天皇、譲位

前回の振り返り。
大内裏再建が失敗に終わり、挫折を味わった後鳥羽院。
冷静さを失い、和歌の世界の同志であった藤原定家を歌壇から追放します。
そして、幕府への苛立ちは限界を迎え、いよいよ決戦へと歩みを進めていくことになります。

後鳥羽院の決断前回触れた後鳥羽院による大内裏再建の事実上の失敗。
名誉挽回と求心力の回復のために打ち出した後鳥羽院の新たな計画、それこそが鎌倉幕府を軍事力で屈伏させることで

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【いざ鎌倉(39)】天才・後鳥羽上皇、理想の美しき世界 その挫折

【いざ鎌倉(39)】天才・後鳥羽上皇、理想の美しき世界 その挫折

前回までの振り返り。
後鳥羽院と幕府の将軍下向を巡る駆け引きは、双方の妥協により九条家の若君・三寅を下向させる「摂家将軍」で決着しました。

信頼していた実朝を失い、さらには交渉の中で幕府が軍事力で圧力を加える姿勢を見せたことで後鳥羽院の鎌倉への不信感は高まります。

今回は「天才・後鳥羽院シリーズ」の最終章です。

源頼茂の討伐次期将軍・三寅が鎌倉に向かっているその時、京で変事が起こります。

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【いざ鎌倉(38)】四人目の適格者、三寅と尼将軍

【いざ鎌倉(38)】四人目の適格者、三寅と尼将軍

前回の振り返り。
源実朝暗殺により、将軍不在となった鎌倉幕府。
次期将軍が決まらぬ中、実朝の従兄弟の阿野時元が挙兵します。
幕府は容赦なくこれを討ち取り、源氏将軍にNOの姿勢を示しました。
幕府は後鳥羽院の皇子を将軍に迎えようとするものの、後鳥羽院からは「保留」の意向が示され、次期将軍は決まりません。

実朝亡き幕府に不信感を持つ後鳥羽院と、幕府存続のために新将軍下向を必要とする北条氏との駆け引き

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