テート美術館展 光 ―ターナー、印象派から現代へ:1 /国立新美術館

 イギリスの国立美術館・テートの所蔵品による、「光」をキーワードとした世界巡回展の東京展である。

 出品作品は古くは1776年から、新しいところでは2014年までと幅が広い。
 年代順におおむね逆らわない構成をとりながら、どの展示室においても現代アートの大作やインスタレーションがかならず配置されるという、やや変則的な展示手法がとられていた。
 たとえば最初の展示室。
 壁には、イギリスが生んだ偉大な風景画家ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの作品をはじめとする18~19世紀前半の絵画が並んでいる。とりわけターナーは、油彩が4点も。しょっぱなから飛ばすなぁ!
 《湖に沈む夕日》(1840年)に描かれるのは、水、空、雲、太陽、水蒸気……どれも、人間の手で触れたり、つかんだりすることができないものだ。

 朦朧とした画面でターナーが描こうとしたのは、夕暮れの湖畔に満ちた空気であり、光だったのだろう。

 この部屋の中央には、アニッシュ・カプーア《イシーの光》(2003年)が鎮座していた。高さ3メートル強の紡錘形、卵の殻や試着室のような作品である。

 開け放たれた殻の内側は漆黒でコーティングされ、鑑賞者の姿が映りこむようになっている。向かいの壁のターナーの絵も、ここには映っていた。
 凝視していると、その鈍い光のなかに、スッと取りこまれていくような感覚を得た。もっと奥へ……吸いこまれそうになったけれど、試着室の内側に入ることはできず、外から観るのみ。
 あの内側に身を置いて、視界を漆黒で支配されたら、どんな心持ちになるのだろう。興味が湧いた。

 《イシーの光》の背後のスペースには、ジョン・マーティンらの作品があった。一転して「光と闇」の世界である。
 なかでも最大の《ポンペイとヘルクラネウムの崩壊》(1822年)は、幅2.5メートルに及ぶ大作。けっして抗うことのできない自然の脅威と、慌てふためくポンペイの民たちの混沌とを、明暗の劇的な対比で表している。

 ジョゼフ・ライト・オブ・ダービー《トスカーナの海岸の灯台と月光》(1789 年出品?)は打って変わって、港町の静かな夜のひとときを描く。

 闇があるから、光が目立つ。光があるから、闇が際立つ——国や時代こそ違えど、「こんな夜、あるよなあ」と思わせる普遍的な情景ではないだろうか。

 次なる部屋からは、画材を抱えてアトリエを飛び出した画家たちの作品が多く並ぶ。今度の空は、青空だ。
 ジョン・コンスタブル《ハリッジ灯台》(1820年出品?)や、本展のポスターにもなっているジョン・ブレット《ドーセットシャーの崖から見るイギリス海峡》(1871年)には、壮大な海、空が描かれ、さわやかである。日本の絵では、あまり味わえない感覚だと思った。

 ブレットの絵は、近くで拝見すると、水面のゆらぎ・さざ波、そして光の散乱が、きわめて繊細な点描によって表されていることに気づかされた。ホームページや印刷物での印象とまるで違っていて、息を呑んだ。おみそれしました……

 お隣には、ジェームズ・ホイッスラー《ペールオレンジと緑の黄昏——パルパライソ》(1866年)。暮れなずむ空と、海が溶けあう。

 ホイッスラーのひと筆は幅広・太めで、ゆっくりとした速度ですーっと引かれていく。全体の穏やかな色合いもさることながら、この筆の動きが、えもいわれぬ詩情を醸しだしているのだと思われた。
 ちなみに、地名だけはなんとなく認識しているパルパライソは、チリの港町。ちょうどこの日はラグビーワールドカップ・日本対チリ戦の翌日で、おおっ!と思った。

 さらにお隣には、クロード・モネ《エプト川のポプラ並木》(1891年)。

 先ほどの “のんびり癒し系” ホイッスラーに比べると、ブルーの色みはまぶしすぎるくらいにビビッドであるし、タッチはものすごく速い。この空の青のように、すかっとした描きぶりである。
 同じポプラ並木を描いた連作のひとつだが、モネ自身はこの1枚をとくに気に入っていたという。
 なるほど、そうだろうな。これくらい迷いなく、描ききることができれば……とても、得心がいったのであった。(つづく



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