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#347 世阿弥「初心忘るべからず」本当の意味

「初心忘るべからず」。世阿弥が『花鏡』のなかで述べた言葉です。その意味するところは、私が思っていたことと違っていたので、メモ。


1、「初心不可忘」と書いた時の世阿弥は60代だった。

「初心忘るべからず」と聞いて、皆様はどういう意味を思い浮かべるでしょうか?

私は、「最初の志を忘れない」とか「その仕事を始めてやった時の気持ちを忘れない」といった意味で捉えていました。つまり、今は慣れてしまっている仕事を、惰性でしているような時(あるいはしそうな時)に戒めで使うようなイメージです。

ところが、世阿弥が『花鏡』の中で言っている「初心不可忘(初心忘るべからず)」は違うのです。

まず、「初心」といっても3つあるのです。

☑️ 「是非初心不可忘」
☑️ 「時々初心不可忘」
☑️ 「老後初心不可忘」

それぞれ詳しく解説されているのですが、簡単に書かせていただくと、

「是非初心」は、いわゆる初心者、未熟な者、という意味が強く、若い時の芸の未熟さを自覚、反省していることが、今の芸の是非を決めるのだ、ということです。

「俺の若いときは今のお前らよりよっぽど仕事できたぞ!」なんて語り出す人は、「是非初心」完全に忘れている、という例ですね。

「時々初心」の「時々」は特定の時期ではなく、文字通りその時々、ということです。いくら芸が高まっても、その時々で新しい状況や演目といった、常に「初心」となることはあるはずで、そういった際には改めて謙虚に学ぶ姿勢が必要だ、ということです。

そして最後が、「老後初心」です。
以下引用します。

老後の初心を忘るべからずとは、命には終はりあり、能には果てあるべからず。その時分時分の一体一体を習ひわたりて、また老後の風体に似合ふことを習ふは、老後の初心なり。老後、初心なれば、前能を後心とす。五十有余よりは、「せぬならでは手立てなし」といへり。せぬならでは手立てなきほどの大事を老後にせんこと、初心にてはなしや。


つまり、年老いた体で能を舞うことは、若い頃のキレもなく、呼吸も荒くなり、声量も落ちている体(老後の風体)で舞う、ということで、本当ならやらない方がいいくらいなのだが、そんな状況でもやる、というのは、まさに「初心」なのだ、ということを述べているのです。

世阿弥が『花鏡』を書いたのは60代だとされています。

能に打ち込めば打ち込むほど、その奥深さに圧倒され、一方で、自分の体は老いつつある。「命には終はりあり、能には果てあるべからず。」という一文には、その道を極めようとする世阿弥の、痛いほどの焦燥感を感じます。

そういう状況で出てきた言葉が、「初心不可忘(初心忘るべからず)」なのです。


2、まとめ(所感)

いかがでしたでしょうか?

「初心忘るべからず」

とてつもなく重たい言葉だったことを今更ながらに知りました。

「初心」というのは、
☑️ 最初にできなかった自分を忘れないこと
☑️ 自分の体の状況、観客の状況、気候などは常に変化している。毎回毎回「初心」で臨むべき、という心構え

といった要素を含む言葉でした。

これらは、VUCAな時代である現代にこそ当てはまることと言えるのではないでしょうか?

自分だけでなく、周りの環境も変化しています。

「初心忘るべからず」

今こそ、その本当の意味するところが求められている、と言えそうです。


最後までお読みいただきありがとうございました。

どこか参考になるところがあれば嬉しいです。

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