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檸檬読書日記 四月は最も残酷な月で、猫とすれちがい、あふれる愛を。 4月22日-4月28日

4月22日(月)

本屋に行った。
新刊本の棚を見たら、三島由紀夫の新刊が出ていた。

『腐敗日記』

老いて頭が衰えたことを「腐敗」と表して書いたものらしい。絶対面白いではないかと購入。
すると店員が「三島由紀夫好きなんですか?」と聞いてきたので頷いたら「今度また新刊出るんですよ」と教えてくれた。

「でも名前を変えて出すようで、三嶋由紀三という名で、今度は漫画に挑戦されるのだとか。しかも女学校のことを書いた少女漫画」

…謎すぎる。けれど、これは買うしかないなと思った。

という夢を見た。

せっかく買ったのに、起きたら手元になかった。夢だから。悲しい。



神野紗希『もう泣かない電気毛布は裏切らない』を読み始める。俳人である著者の俳句エッセイ。


私たち大人は子どもに、ものの名前を教え、社会のルールを教える。それは、自然の中で生きる彼らを引き剥がし、人間の側へ連れてくることでもある。であるなら逆に、私たちは子どもの中に、大人になる過程で忘れてきた何かを見出せるのではないか。たとえば季節を感じる力。朝日が差せば目を覚ます彼は、夏至という名前は知らなくても、たしかに夏至そのものを知っているのだから。


俳句といえば季語。季節に寄り添い続け、見つめてきた著者だからこその視点、気づきがなんとも奥深い。


「アオ、アオ」と指さす息子に「それは紫陽花」と教えつつ、彼の表情をのぞきこむ。すべてを吸い込むブラックホールのような瞳が、まっすぐ紫陽花を見つめている。





4月23日(火)

散歩する 食べれる葉っぱを 探しつつ 見つけ零れる 笑みがぽろぽろ

散歩する度に、最近は食べれる葉を探してしまう。ノビルとかからし菜とか名前は分からないけどスナップエンドウの小さい版とかの食べれる雑草を見つけると、嬉しくなる。何かあったらこれで食べていけるなと。




Blueskyで見てからというものの、ずっと囚われ続けているあんみつを食べる。
ようやくでござる。
ただ、寒天を作ったものの、のせるものがなかった。白玉も餡子もない。餡子は確か缶詰で買ってあった気がするのだけれど、探し当てられず…。
唯一あったキウイだけトッピングというシンプルなものに。

それでもこれはこれでとても良い。キウイの酸味と黒蜜の甘さが凄く合う。
食欲ない時でもペロリと食べれてしまう。最高。

でも悔しいは悔しいから、餡子缶を探しあて、白玉粉を買って、絶対リベンジする!決意。



T・S・エリオット『荒地』を読む。詩集。

Blueskyで、有名らしい始まり「四月は最も残酷な月」の文を見て、強く惹かれ、続きが凄く気になってしまい、即座に図書館に予約を入れて読んだ本。

ただ悲しいかな、自分には少し難解だった。
結構知識が必要なようで…。聖書や神話、古典文学・詩の知識が基盤にあってこそ、深みを増す作品のよう。
それでもある程度の解説はついているから、詩の魅力に少し触れることはできる。
作者の、荒地のように荒れた世の中の、信仰心の失われた混沌さを嘆く気持ちや、怒りが聞こえてくるようだった。

まさに「荒地」という言葉がピッタリだった。

どこまでも、水(豊かさ)を失った土地のように、乾いた質感がある。


釣りをしていた。背後には乾いた平野が広がっていた


目の前には水が溢れていて、気づけなくなっていたが、後ろを振り向けばすぐそこに…
終始そんな感じを抱く。

解説もまた自分には難解でほとんど分からなかったのだが、興味深いなと思ったのが「四月は最も残酷な月」の解説。


ジェイムズ・フレイザーの『金枝篇』によると、植物神アドニスの死と再生の儀礼は、フェニキアでは、雨で山から洗い流された赤土でアドニス河が血の色になる春におこなわれた。四月は「残酷な」血の季節なのである。


なるほどー。いや、ほとんど分からないけど、妙に腑に落ちた。
4月は始まりや実りの季節であり、残酷とは無縁の明るい季節だと思っていただけに、どうして「残酷な月」なのだろうかと不思議だった。(だからこそ気になって読んだのだけれど)
生まれるということは、反対に失われる。はじまるということは、反対に終わる。確かに残酷だ。

劇作家な面もあってか、詩か台詞のようで、劇を観ているような感覚もあった。臨場感が凄く、役者達が歌って繰り広げる劇が揚々と想像でき、詩だけでは終わらない楽しさがあった。





4月24日(水)

カフカの日記が出ている!それも新版で。
かと思えば売り切れで…。18日に出たばかりなのに早すぎる。
どうやら新聞に広告が出たのが要因らしく、新聞効果の凄さを知る。
新聞め…と少し、最初ちょっとだけ思ったけれど、5千5百円という決して安くはない本が、このご時世に売り切れになるのは、とても喜ばしいことではないかと、素晴らしいことではないかと。そう思い至り、考えを改める。
新聞、ありがとう。

ただ出版社の方、出来れば重版をお願い致します。必ずや買いますから。どうかどうか。お慈悲を。

後、カフカの短編集も出ているらしく、これは普通に買えそうだから普通に買います。





4月25日(木)

北澤平祐『ぼくとねこのすれちがい日記』を読む。

同じ日に起きた出来事を、人(ぼく)視点と猫視点で書かれた絵日記。
タイトル通り、見聞きしていることは同じなのに、人が猫の行動を良い方に捉えていても猫側は全く違ったりと、そのすれちがい具合が面白かった。

最初は、突然に始まってよく分からない情報が出てきたりと、これ続編じゃないよなあと戸惑いを覚える部分もある。
けれど読み進めていくと謎が解けていって…また確認のために読み返したくなる。いや、探したくなる。

この本は、1人と1匹の日記だけでなく、毎回日記に関連した絵も描かれている。しかも全部カラー。
それがまた良くて、北澤さんの絵が好きな自分としてはとても堪らない作品だった。どれもカラフルで、それでも優しい色合いで、絵を見ているだけでも癒される。
内容も勿論可愛らしくて癒されるけど。

後、実際に起きたことを1冊の本にしているだけに、もしかしたら猫を飼っている人・飼ったことがある人にとっては、かなり揺さぶられてしまうものがあるかもしれない。少し、注意かもと思ったり。
でも最後は希望的な終わりだから、しんみりだけでなく、寧ろ明るい気持ちになる。それに猫飼いには共感できる部分が結構あって、あるあると楽しめるのではないかなと。
と、猫を飼ったことがない奴が言ってみたり。
北欧のような(と個人的に思ってる)色合いの絵が魅力的な、素敵な1冊。贈り物にも、飾っておくにも良さそう。





4月26日(金)


買った本。
『ビブリア古書堂』シリーズ最新作が嬉しい。ずっと待っていた。今回は夏目漱石がテーマらしい。楽しみ。

そして帰ってきて思い出す。カフカ短編集買うのを忘れた。買おう買おうと思っているものほど忘れてしまうのは何故だろう。
あぁ、また行かねば。これは仕方ない。



ヴァンダ・プシブィルスカ『少女ダダの日記 ポーランド一少女の戦争体験』を読む。


(略)わたしには、この地獄に終わりがくるなどということは、とても信じられないような気がする。もちろん、早く終わってくれればいいと思うことでは、わたしだって人にまけない。それなのに、ときには、いくさが終わるときなどけっして、けっしてないというような気がするのだ!しかし、ときどきは、もういいかげんになにが起こってもいいころだ、いや、なにかがもう起こると、心から信じるときもある。
けれど、それがどうだというのだ?なにしろ、人間が同じ人間の首をつるというようなことが、こうしてまるで日常茶飯事のように、平気でおこなわれているのだもの。(略)
こんなようなまねがどうしてできるのか、まるで想像もできない。なにがどうあろうとも、一時も早くこんなことは終わりにならなければいけない。いいにせよ悪いにせよ、終わること、はやく終わりにすること、それだけだ!



沖守弘『マザー・テレサ あふれる愛』を読み始める。

写真家である著者が、愛の人であるマザーテレサの活動を追い、そこから得たものを写真と共に記した1冊。

マザーテレサは、ただただ甘いだけの優しさではなく、厳しさを持っていた。真の愛を持っているからこその厳しさ。
著者は、マザーテレサの活動に対して、すばらしいという評価を口にする。けれど彼女は、その言葉を良くは思わなかった。何故なら


「(略)私は自分にできるわずかなことを選んだだけなのよ」


自分ができることだったからやっている。やらずに見捨てるか、出来ることをするか、その選択肢しかなかった。
けれど著者は「でも」と言う。それでも普通の人には難しいのではないかと。


「そうじゃないのよ、(略)ふつうの人びとは貧しい人間をみくだしているのよ。貧しい人間は、自分とおなじ人間ではないと思っているというのが現実じゃないかしら」


人間にとってもっとも悲しむべきことは、病気でも貧乏でもない。自分はこの世に不要な人間なのだと思いこむことだ。そしてまた、現世の最大の悪は、そういう人にたいする愛が足りないことだ。


だからこそ、マザーテレサは言う。


「あたなも、私たちと同じように、望まれてこの世に生まれてきた大切な人なのですよ」


望まれずに生まれてくる人などいないのだと。


「今日の最大の病気は、らいでも結核でもなく、自分はいてもいなくてもいい、だれもかまってくれない、みんなから見捨てられていると感ずることである。最大の悪は、愛の足りないこと、神からくるような愛の足りないこと、すぐ近くに住んでいる近所の人が、搾取や、権力の腐敗や、貧しさや、病気におびやかされていても無関心でいること。(略)」




まだ始まってないけど既に終わってほしいと思ってしまう、ゴールデンウィーク。
そう思うことに、大人になったのだなあとしみじみ。





4月27日(土)


この花変わってる。
カサカサとしていて、造花のよう。面白い。



沖守弘『マザー・テレサ あふれる愛』を読み終わる。

マザーテレサは言う。
自分は苦しんでいる人たちの元へ行かねばならないが、「あなたはもっと身近なところから始めたらどうかしら」と。同じことをしなくてもいい。自分のできる範囲、まずは身近な、小さなことからでも。それでも「とっても立派な愛の表現なのよ」と。
そしてある話をする。


「ある真夜中、私たちの家にやっとの思いで辿りついた小さな男の子がいたわ。その子は私の顔をみるとこういったのよ。お母さんのそばにいったんだ。でもお母さんはうるさいって追っぱらうの。お父さんのそばにもいったよ、そしたら、どこかへいってしまえって。シスター、ぼく、どうしたらいいのって。いまの世の中、人間が人間を見捨てているのよね。親が子を、子が親を、兄が弟を、友が友を、隣人が隣人を」


マザーテレサは問う。


「私のいう愛の意味が、(略)、あなたにはわかる?」


ある日、マザーテレサのもとに独身の男性が訪ねてきた。子供を引き取って育てたいのだと。でもマザーテレサは、好感を持てても、誰が育てるのかという質問に仇した男性に、こう言う。


「子どもはあなたの愛を待っているのよ。一対一のね。あなたが働いてその子のパンを稼いできても、その子がほうっておかれるんじゃどうしようもないでしょ。いま、ほとんどの人が、生活をもっと豊かにしようと、忙しく働いていて、子どもたちは両親とすごす時間がとても少なくなっています。私たちが接している貧しい人たちは物質的には豊かじゃないけれども、ほんとうに子どもを愛していますよ。その意味では、世界一のしあわせ者かもしれませんね」


子どもは、物がほしいのではないと思う。何もなくてもいいのだ。親の愛があれば。子どもが何よりもほしいのは、親の愛なのだから。
物が欲しがるのは、愛が足りないから、それを埋めるためにほしくなってしまう。足りていれば、必要ない、そんなに求めないのではないかなと。
だからただただ傍にいて、抱きしめてあげるだけでも良いと思うのです。毎日、毎日。それはそんなに難しいことなのだろうか。

マザーテレサは日本に訪れた時、酔っ払って倒れている中年の男性を見た。だが助ける者はおらず


「けさ、私は、この豊かな美しい国で孤独な人をみました。この豊かな国の大きな心の貧困をみました。
カルカッタやその他の土地に比べれば、貧しさの度合は違います。また、日本には貧しい人は少ないでしょう」
(略)
「(略)豊かそうに見えるこの日本で、心の飢えはないでしようか。
だれからも必要とされず、だれからも愛されていないという心の貧しさ。
物質的な貧しさに比べ、心の貧しさは深刻です。心の貧しさこそ、一切れのパンの飢えよりも、もっともっと貧しいことだと思います。日本のみなさん、豊かさの中で、貧しさを忘れないでください」


ある人が言った。10%の愛に気づくことが大事だと。

最近、愛に飢えた人が増えている気がする。いや、愛に気づけない人が…。
マザーテレサが言うように、きっと愛されていない人などいないのではないかと思う。ただ気づけないだけで。

心からの愛というものは、自分が望むものとは違う場合が多い気がする。だからこそ気づきづらくて、理解されないと後ろ向きになる。そして大概の人が100%の愛と自分にとって都合の良い甘い言葉を求めてしまう。だからそれが貰えなくなると、途端苦しくなる。麻薬と同じで、もっともっとと求めてしまう。そうやって10%の愛を見過ごしてしまう。

自分も、前まで全然気づけなくて、だからこそ孤独で苦しかった。でも1度立ち止まってよくよく考えた時、100%はなくとも、10%はたくさんあるのだなと、知った。そして自分にとっては都合の悪い言葉は、本当は自分にとって大切な言葉なのだとも気づいた。なんだちゃんと愛されているではないかと。そうやって分かっていくと、前よりも少し生きやすくなって、より気づけるようにもなって、幸福だなと思えるようにもなった。

貧しさとは、マザーテレサが言うように、お金や食べ物という物質的なものがないだけではないと最近感じる。
日本は物に溢れかえって豊かなのに、豊かになればなるほど、心が貧しくなっていっている気がする。
最近毎日毎日思う。暴走してしまった人や乾いた人を見る度に、お願いだから愛されていると自覚してくれと、思うし叫びたくなる。(あら、確かそんなフレーズの本があったような)

辛いと思うことは、生きているとたくさん出てくると思う。けれど、何処かで見ている人はいるし、手を差し伸べる人はあらわれる。だから後は、気づけるかどうかなのではないかなと。
優しい言葉や甘い言葉だけが愛ではない。
厳しい言葉は、嫌われてもその人を本当に助けたいと思っているから、出るのだと思う。だって、わざわざ嫌われたい人などいないのだから。

どうか気づいておくれ。そして幸せになっておくれ。そう願うばかり。
今は受け入れられなくとも、いつの日か。

今回この本を読んで、マザーテレサの活動や写真を通して、愛や貧しさについて考えさせられた。
マザーテレサが活動している場所は、本当に目を背けたくなるほど厳しく、足りないものばかり。
けれど、マザーテレサに接した人たちは、豊かな心を持っていた。
マザーテレサは言う。 

「プア・イズ・ビューティフル」(貧しい人はすばらしい)

貧しさがあるから生まれるものもある。嘘偽りのない純粋さと美しさ、そして愛。
豊かさとは、あらゆるものが揃っているかだけではないなと、改めて感じた。
自分も彼女に近づけるようになりたい。





4月28日(日)

何故畑の日に限って暑いのだろう。自然はそんなに甘くないぜ、ということかな。なるほど、痛いほど痛感しました。

今日もやることがたくさん。
生姜植えて、雑草取って、春菊、人参、スイスチャード、ルッコラ、スナップエンドウ、茎レタス採って、雑草抜いて、雑草抜いて抜いて抜いて…ふぅ。

今回嬉しかったのが、茎レタスが凄く上手くいったこと。春植えの時は本数も少ない上に細かったけど、秋植えの今回、大成功!
確か15苗で、10本も出来た。長さも太さも前の倍。これからは秋植えにしよう。

収穫した茎レタスは、葉を取って周りの硬いところを削いで、それをなるべく細く薄く切っていく。

これが後もう1つある


切ったものは干して、出来上がるのが山キクラゲ。
この前はちょびっとしか出来なかったけど、今回はたくさん、嬉し。山キクラゲ、コリコリで好きなんだよなあ。



石井千湖『文豪たちの友情』を読み始める。
「佐藤春夫と堀口大學」編を読み終わる。

自分にとってはあまり知識の少ない2人ではあったが、怠け者でハッキリした物言いの佐藤春夫と病弱美少年の堀口大學、全く似ていない2人の友情は、見ていて(読んでいて)微笑ましく興味深かった。
2人は毎日のように会い、殆どの時間を一緒に過ごし ているのに、ハガキまで出していたのだとか。仲良しすぎる。


この二人の友情ほど純粋で美しいものは安易に見出し難い

河盛好蔵『作家の友情』


そしてその通り、美しい。
堀口大學は気づいていなかったらしいが、彼が書いた佐藤春夫に対しての短歌に、佐藤春夫はきちんと返歌を書いていたようで、それがまた2人の友情の深さを感じた。

相手のために無茶をしてまで合わせたり、大切なものだけれどあげたり、お互いを想う深さ、結び付きの強さにほっこりとさせられた。

これからは毎週これを少しすつ読んでいこう。



旅行の記事に勢いがあって驚き。軽井沢人気?
でも良いところですよ。また行きたいなあ。
今回本当は「室生犀星記念館」にも行きたかったけれど、結構行きづらい場所にあって行けず…泣く泣く諦めたから余計に行きたい。

その上「高原文庫」という素晴らしい場所を知り、行きたい熱がむくむく。
夏にやるらしい「立原道造生誕110年記念展」が見たい。立原道造記念館はなくなってしまったらしいから…。もうここでしか見られない。
くー、行きたい。
今度は日帰りで。
お金を貯めねば。




ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
世界中に愛があふれ平穏な世の中になりますよう、願っております。
ではでは。

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