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強さや弱さを乗り越えた先にあるもの。

僕たちは”すべて”を乗り越えてきた存在である。

”強さ”への憧れ

幼い頃、危険を顧みず悪と戦うヒーローの姿に憧れを抱いた男の子も多いと思う。
ヒーローはいつも正しくて、どんな敵にも最後は必ず勝つ姿に「強さ」を見ていた。

だから、僕も例外ではなく、戦いごっこや、ヒーローさながらのアクロバティックなキックなどをして遊んでいた。(ちなみに、それで一回足の骨を折ってます。。。)

白か黒がはっきりする社会

小学校に上がると、強さというものの様子が変わっていく。

勉強、体育など学校でやること全てが結果という目に見えるものとなっていき、テストの点数、走る速さ、宿題や授業態度までもが通知表という結果となって突きつけられた。

良いか悪いか、勝ったか負けたかという白黒はっきりする社会の中へと放り込まれた感じだ。
競争の中で勝つ者が強く、成績が良い者は、正しい人間であるという「ものさし」がいつの間にか出来上がっていく。

それは、小学校高学年、中学、高校と大きくなるにつれ、その構図がより顕著に現れた。

スポーツのできる子は注目を浴びることが多く、クラスの人気者となり、勉強のできる子は先生からの信頼も厚く、クラスの学級委員のような中心となる。
しかも、そのパワーバランスは簡単には変わることはない。

僕はと言えば、体を動かすことは好きだったが、足は決して速くなく、その証拠に運動会のかけっこは毎年ビリだったから良い思い出がないし、勉強はどうかと言えば、国語なんかは文章読解力が低く、珍回答の連続で親も呆れていたほど。。。

テストで100点を取れるなら取りたいし、かけっこで1番になれるなら、もちろんゴールテープを1番に切りたい。(女子にもモテるし。)
頑張ったと思って受け取った通知表も開けば ”ふつう”や"もう少し頑張りましょう" の文字。
「頑張りましょうって言われても、、、」そう心の中で呟いていたのを憶えている。

成績の良い友達を横目に、《できない自分》と《できる友達》、そのコントラストが苦しかった。

強く、正しくなければならないと思うあまり、褒められようとしたり、出来ることを周囲にひけらかしてみたり、人の失敗を指摘しては、あたかも自分が正しい人間であるかのように見せて、評価されようとする人をたくさん見てきた。

それでも、やっぱり強くなることなんてない。

弱さを盾に守っていた

強さを求めれば求めるほど、弱さを引き出してしまうものだ。
強くありたいと思う自分とそれでも強くなれない自分。
社会的に成功した者とそれを手に入れられない自分。

強さに綻びが出始めると、いつしか強さへの憧れと引き換えに、弱い自分、ダメな自分の存在が大きくなり始めていく。

「僕にはできない。」
「あの人だからできる。」
そんなことがいつの間にか頭の中を支配していく。

そして、弱さを演じては、周りの期待や評価のハードルを下げてたりする。
それは、できない自分が傷つかないための「盾」なんだと思う。

勝ち負けという秩序

この社会の幸福は、成功と失敗、すなわち勝ちと負けという側面で判断されてきた。そして、収入や職種、経歴や地位など「結果」を求めてみんなは戦ってきた。
勝つことが全てなら、この世界で幸せになれるのは1人だけだ。
その他多くの人の人生は不幸で終わる。
そんな秩序や空気みたいなものが僕たちを苦しめていた。

でも、育つ環境も、見てきた景色も、感じて受け取ってきた感覚も、一人として同じ人はいない。
だからこそ、僕たち人間は”違う”ことが当たり前で、みんなが同じ価値判断で行動することがとても不自然だ。

無秩序な僕たち

それは、僕たち一人一人を見てもそうだ。

素直な僕も。
優しい僕も。
怒りに支配される僕も。
不安で逃げる僕も。

こんなにも人の心は揺れ動く。
どこまでいっても揺らされるものだ。

本当の自分は一体何なのかがわからなくなる。
けど、全てが”僕”であり、無秩序な僕は、いつだってありのままの”僕”なんだと気がつく。

踏まえて乗り越えた存在として

僕たちはいつだって無秩序であり、喜びも悲しみも、心地良さや違和感、怒りや不安だって持っている。

社会の正しさや勝ち負け、成功や失敗に、僕たちは「強さ」や「弱さ」を作り出し、大きな苦しみを乗り越えてきた。

揺るぎない感覚を感じながらも、感情や思考に揺さぶられる。
しかし、その大きな葛藤の中にありのままの自分を見出していく。

それら全てを踏まえて乗り越えた存在だからこそ、僕たちはそれぞれの生き方を表現していける。

これからは、同じ価値観や共感できる仲間と生きていく。
それが僕たちの生き方だ。

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