三角屋根の丸メガネ

人生は旅するほどに揺られ、悩み、苦しむ。 それでも「これでいいのだ」という、どっかのパ…

三角屋根の丸メガネ

人生は旅するほどに揺られ、悩み、苦しむ。 それでも「これでいいのだ」という、どっかのパパの言葉を思い出しながら、僕は今を生きている。 https://www.instagram.com/_littlesnufkin_/

最近の記事

何が見えているのか?

物事はすべてバランスで決まる。 良いと思うことも、悪いと思うことも。 もっと言えば、興味や関心の有無もバランスだ。 例えば、僕たちには喜怒哀楽など物事を通して様々な感情が沸き起こる。 誰かに手助けしてもらったとき、そこには十人十色の感情があり、助けてもらえた嬉しさを感じる人がいる一方で、迷惑を掛けてしまった申し訳なさを感じる人もいる。 感情というのは自分の写し鏡のようなもので、そのままの自分が出てくる。 だけど、その感情を通しての世界だけに視点を向けると物事のバラン

    • 生きること働くこと

      働くことは人間の欲求そのもの。 僕の中で”働く”ということの認識を大きく変えられた一本の映画がある。 数年前に見た「モンテッソーリ 子どもの家」というドキュメンタリー映画で、とても面白かった。というより、めちゃくちゃ感覚が揺さぶられたのを憶えている。 まずは、百聞は一見にしかず。と言いたいところだが、現在は上映が終了している場所がほとんど。 ※一部、不定期上映しているところもあるので、機会があれば是非観てほしい。 映画の内容に少し触れておくと、 医師であり教育家である

      • 「向き合う」とはどういうことなのか?

        鉛のような、重くて鈍い苦しさが、心の奥底から音を立てて突き上げてくる。 ここ数年、自分自身の感情や思考に意識を向けることが増えてきた。 なぜ、そういう気持ちになるのか? その気持ちはどこから来ているのか? 「自分と向き合う」と言う言葉に出会った頃から”僕を知る旅”は始まったような気がする。 そもそも、「向き合う」って何だ? 過去を振り返ることか?沸き出る感情や思考から自分自身を知ることか? それとも、これからの未来について考えることか? そのどれもかもしれないし、

        • 強さや弱さを乗り越えた先にあるもの。

          僕たちは”すべて”を乗り越えてきた存在である。 ”強さ”への憧れ幼い頃、危険を顧みず悪と戦うヒーローの姿に憧れを抱いた男の子も多いと思う。 ヒーローはいつも正しくて、どんな敵にも最後は必ず勝つ姿に「強さ」を見ていた。 だから、僕も例外ではなく、戦いごっこや、ヒーローさながらのアクロバティックなキックなどをして遊んでいた。(ちなみに、それで一回足の骨を折ってます。。。) 白か黒がはっきりする社会小学校に上がると、強さというものの様子が変わっていく。 勉強、体育など学校で

        何が見えているのか?

          この世界はいつでも僕を

          僕は物心ついたときから「空」が大好きだった。 正確に言えば、”気づけばいつも空を眺めていた”という感じだ。 理由はわからない。 雲は流れているのに、風は吹いているのに、空を眺めているその瞬間は、全てが止まっているように感じ、何も聞かず、疑いもせずに僕を包み込んでくれている、そんな感覚がしたのを覚えている。 抱えすぎた多くのもの誰しもが経験する”大人になる”ということ。 そして僕もまた大人になっていった。 たくさんのモノを手に入れることが大人だと思っていたあの頃、一

          この世界はいつでも僕を

          羨ましさから離れる

          昔はよく「〇〇はいいな〜」と思っていた。 それは、憧れや目指したい道しるべというよりも、その地位や環境を与えられることを願っている状態だった気がする。 「羨ましい」 意味:他の人が自分より恵まれているように見えて、自分もそうならよいのにという気持ち。 語源:羨ましいの漢字「羨」は、「羊」+「よだれ」からなる会意文字で、良いものを見てよだれを長くたらすこと。 「羊」は、「よいもの」「うまいもの」を表している。 要するに、”指をくわえて待っている状態”だということなんだと思う

          羨ましさから離れる

          ユーモア

          最近読んでいる本に、ユーモアについてこんなことが書いてあった。 ドイツの死生学領域の哲学者のアルフォンス・デーゲン氏の言葉で 「ユーモアとは、”にもかかわらず”笑うことである」。 と言っている。 そしてまた、「ユーモアというのは、悩みや苦しみのさなかから生まれてこそ、人を救うもの」。とも言っている。 そこで、昔、ある人ががこんなことを言っていたのを思い出した。 「お互いの距離が縮まるとき、信頼関係ができるとき、それはお互いの失敗やコンプレックスを笑い合えたとき」。 ユ

          感覚が受けとるもの

          この前久しぶりに散歩をした。 ここ最近バタバタと動き回っていて、散歩したり、本を読んだりと、なかなかゆっくり時間を過ごすことがなかった。 この日は海の方へと歩いて向かった。 途中に踏切があり、ちょうど電車が通過するタイミングで遮断機が下がり始めた。 何百回と経験しているこの光景も、今日はなんだか違和感を感じる。 遮断機が下がる時の「カンカンカン」という警告音がやけに身体を刺激する。 少し目が回り、身体が揺らされる感覚がある。 海までの道のりは日中は比較的人通りも

          感覚が受けとるもの

          大切なことを大切にできるこれから。

          先日、あるイベントに出店させてもらった。 イベント会場は築80年の古民家。 門を入るとたくさんの草木や花々が出迎えてくれ、平ではない飛び石の上を慎重にゆっくりと進んだ。 玄関を入るとそこはまさに古民家。縁側からの日差しが気持ちが良く、リノベーションをしているとは言え、所々に昔の面影を感じられ、ほっこりとする。 今回のイベントは、ヨガやアートなどのワークショップから、アクセサリー、スマッジスティック、クラフトコーヒーなど様々な方たちが出店していた。そして、もちろん僕たち

          大切なことを大切にできるこれから。

          暮らしの中の僕たち

          今この瞬間も暮らしの中にいて、日常が過ぎている。 ときに慌ただしく、ときにゆったりと。 誰かと会ったり、遠くへ足を運んだり。 そんなこともすべて日常で、暮らしの中の一部分だったりする。 朝起きて目覚める僕たちも 部屋の掃除をしてスッキリする僕たちも コーヒーを淹れながらたわいも無い話をする僕たちも 仕事をしている僕たちも 誰かに会いに行って過ごす僕たちも 子どもみたいに笑い合う僕たちも 夜ご飯を作る僕たちも 一緒にご飯を食べる僕たちも 「おやすみ」という僕たちも すべ

          暮らしの中の僕たち

          掃除と人生

          毎朝起きると無性に掃除がしたくなる。 特別に物が多いわけでもなく、汚れているわけでもない。 しかし、なぜだか掃除をしないと落ち着かない自分がいる。 ただ、掃除といっても、掃除機をかけるだけの時もあれば、水回り、棚の下、時にはクローゼットの中などにも手を伸ばす。 どこを、どこまでやるかはその時の気分次第。 そういえばこの前こんなことがあった。 先日いつものように朝起きて掃除を開始、掃除機を掛けて、水回りまでやった。 しかし、なぜだかスッキリしない。なんかすごく重い。

          「ありのまま」と出会う。

          ありのままとはどういうことだろう? 僕たちはどこかでこの人生最大のテーマとも言える「ありのまま」の姿を追い求めているのかもしれない。 「ありのまま」を他の言葉で言い換えると、「自分らしい」とか「正直な姿」とかになるのかもしれないし、辞書には「偽りのない姿」とも書いてある。 つまり、嘘偽りがなく、自分自身の感情をそのまま表現した状態。という感じなのだろうか? 自分の気持ちを抑えたり、嘘をついたり、誤魔化したりすることは大きなストレスとなる。僕自身が小さい時からそうしてきた

          「ありのまま」と出会う。

          なんでもない一日

          気持ちの良い朝。 肌寒さが残る朝6時。 セットした目覚ましに起こされることなく目が覚めた。 朝支度を簡単に済ませた僕らは、朝からアイスケーキの準備に取り掛かる。 この4月のこの時期、朝の作業は陽射しとともに身体も心も気持ちが良い。 小一時間作業を済ませた後、近くの行きつけのコーヒー屋で一杯いただく。 なんとも至福の時間だ。 この時間は、休憩とも仕事とも言えず、夫婦2人でたわいもない話から熱い想い、さらにはぶっ飛んだ発想が出てくるような面白い時間でもある。 そんな時間を過

          なんでもない一日

          表現すること

          あなたがあなたを表現し始めたら、必ず必要な人たちと巡り会う。 不思議だけど、それが自然な流れというもの。 僕たち人間は表現が下手だなと感じる。 実際、僕自身も表現すること、何か人に伝えることは得意ではない。 それは、様々な環境的要因で形成されていったものでもあるだろう。 自然(野菜や果物、植物、水も空気)は、同じ場所に留まることなく常に循環しているのに、自然の一部である人間が同じところに留まって循環しないなんて不自然。 それは、場所も環境も、気持ちや考え方だって、様々な

          たまたまそれがサッカーだった。

          サッカーを仕事にしている僕は、幼児や小学生と関わることが多い。 そうすると親御さんからの相談も当然のように受ける。 先日、小学校に入学したばかりのお母さんからこんな質問があった。 「うちの子はサッカーに向いてましたか?」 「向いてましたか」というのは、幼児クラスまでサッカーをやっていたが、父親が、サッカーに向いてないという理由だけで辞めさせたからだ。 お母さんも向いてるとは思ってないみたいだが、その子本人はサッカーが好きで、やりたかったみたいで、続けさせてあげたい気持

          たまたまそれがサッカーだった。

          自然のエネルギーを感じて。

          日頃、私たちは多くのエネルギーを感じながら日々を過ごしている。 人のエネルギー 電気のエネルギー モノのエネルギー そして、自然のエネルギー。 特に、自然の中にいるとエネルギーの変化にとても敏感になる。 沖縄の最北端にあるやんばる国立公園の大石林山もまた、自然のエネルギーを感じられた場所だった。 沖縄の旅は雨に歓迎されていた。 そして、その日ももちろん雨。 ただ、到着した時には雨が上がっていて、予想外の雨上がりに少し安堵したのも束の間、中へ入って行った途端、ふたたび雨

          自然のエネルギーを感じて。